対局中の大食列伝

将棋世界1981年2月号、能智映さんの「棋士の楽しみ 将棋の強い人ほど健啖家」より。

 ここへ入って退屈する人はいない。

 昼下がりの対局室、三部屋をぶち抜いた広間は大入り満員。対戦中とはいっても雑談と笑い声がたえない。

 いま食べたばかりの食事の話がきっかけだった。観戦記者までが口をはさんでいる。

「食うといったら、やっぱり大山名人だよ。今はそうでもないらしいが、4、5年前までは緊張するはずの大勝負の最中、こってりしたビーフカレーを2杯食べて、”あとビフテキとサラダ”とくるんだ。それも、ぱっぱっと10分ほどで食べてしまう」

 実際、大山名人はよく食べる。名人獲得18回、優勝回数119の活力は、この食事によって生まれたといってもいいだろう。ご本人も「最近は、やはり食べる量が減りましたね」というが、それでも最近、こんな光景を見た。

 北海道・釧路での対中原名人戦だったと思う。関係者の「スタミナをつけて―」という配慮から、昼食にはワラジほどもあろうかというウナギが出た。それも3枚も並んでいる。「すごく大きいね」とニッコリした大山は例のように、ものすごいスピードで食べ終えた。

 中原は、まだゆっくりと味わいながら食べている。すると大山は、まだ手のつけられずに置かれている膳に目をつけた。「それ、あまってんの。もったいないじゃない」気が付いた関係者の一人が遠慮がちに、その膳を大山の前に運ぶ。

「そうね、食べちゃおか」また、またたく間にウナギが3枚、大山の胃袋に消えていったのはいうまでもない。全部で6枚、胃袋のウナギは窮屈ではなかろうか。

 そして大山、「さあさあ、食べ終わったら食卓には用がない。はいはい、メンバー4人は?」と、座布団を並べて周りに麻雀を促す。スタミナを蓄えたあとは、ひとの麻雀を見物して頭を休めようというのだが、勝負から食事、そして余興とまったく無駄な時間がないのには感心せざるを得ない。

 その大食漢の大山が「あの人は食べますよ。まるで食べなきゃ損みたいにどんどん食べますからね」と、敗北宣言気味に推薦するのが、40歳を迎え指し盛りの加藤一二三九段だ。

 これは実際に見た話ではない。共同通信の田辺記者ほか、何人かから聞いた話のまとめだ。むろん、この種の話は多少なりとオーバーになりがちのもの。その辺、いわば聞き手へのサービスと思っていただきたい。

 食事の注文の時が面白いらしい。

 対局中、関係者が「加藤先生、ご昼食は?」と、そっとメニューを差し出す。すると加藤「うん、そうね」といってから長考に入るらしい。対局相手の食事は、もうとうに決まっている。また関係者がいいにくそうに催促する「あのう、昼食は?」

 すると加藤、「あっそうか」と、また少考したあと、まるで機関銃の玉のように食べ物の名が出てくる。

「そうそう、トースト8枚に2倍のオムレツ、それにホットミルク、ミックスジュース、コーンスープ、飲み物は全部2杯ずつね」

 トースト8枚というのはちょっと信用しかねるが、ともかく山のように積んであるのを見かけたという人は多い。席に着いた加藤は、それをまるで秒読み中のごとく次々と片付けてしまうというのだ。

「将棋指しは丈夫でなければつとまらない」とよくいわれるが、現役棋士104人の中に、この人ほど健啖で丈夫な人はほかにいないだろう。

 この加藤の相手が、意地っ張りの米長棋聖あたりになってくると面白い。

 一昨年の棋王戦のはずだ。対局開始と同時に加藤が「飲み物を―」と注文した。それがすごい。「カルピスがほしいな。そう、ジャーにいっぱい入れてきてください」

 棋王戦の五番勝負の最中というと、2月か3月、恐らくまだ寒い日のはずだ。

(中略)

「ともかく、その2リットル入りのジャーが午前中でカラッポになっちゃったんだよ」と、大きな体の田辺記者もあきれ顔。「相手の米長さんも”すごいねえ”と感心しきりだったよ」と教えてくれたものだ。

 手持ちの医学書には「成人男子は一日に1.5リットルの尿を排出する」とある。ほかに汗や息で体外に出る水分もあることはあるが、加藤だってほかにお茶や水を飲んでいる。このあたりの差し引き勘定はどうもよくわからないのだが―。

 その事件(?)のあった日の午後だったという。こんどは米長が澄まし顔で「そんじゃあ、わたしはミカンを30個ほどもらおうか」と注文したという。

 米長らしい話だ。勝負師はみな意地っ張り、中原-米長の矢倉戦でその一端をのぞかせているが、こんな食い物のことでも猛然と意地をはるのだからおもしろい。

(以下略)

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2リットルのカルピスと30個のミカン、どちらが完飲または完食するのが大変だろうと考えてみたが、どう見ても30個のミカンの方が大変そうだ。

だからこそ、米長邦雄棋聖(当時)が注文したわけで、ミカン5個のような感じでは迫力が出ない。

カルピス2リットルの苦しさに匹敵するミカンは10個位かもしれない。

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「ビーフカレー2杯とビフテキ」、「うな重2つ」、「トースト8枚に2倍のオムレツ、ホットミルク、ミックスジュース、コーンスープ、飲み物は全部2杯ずつ」の中では、「うな重2つ」が苦しいには違いないが相対的には一番無理がなさそうだ。

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能智映さんは、「この種の話は多少なりとオーバーになりがちのもの」と書いているが、現在で考えると、若い頃の加藤一二三九段なら「トースト8枚に2倍のオムレツ、ホットミルク、ミックスジュース、コーンスープ、飲み物は全部2杯ずつ」は大いにありうる事だと思えてくるから不思議だ。