羽生善治四冠(当時)の一年がかりの雪辱

一昨日、昨日からの続き。

将棋世界2002年2月号、武者野勝巳六段(当時)の第14期竜王戦第5局〔羽生善治四冠-藤井猛竜王〕観戦記「一年懸かりの雪辱」より。

4図以下の指し手
▲4三歩成△同飛▲2二角成△4七歩成▲2一馬△6三飛▲5四馬寄△5八と▲同金△4七歩▲4九歩△3八と▲2七飛△5三歩(5図)

羽生の戦略

 前期竜王戦で羽生は奪取に失敗した。実は挑戦者になったときの羽生の強さは無類で、これまで谷川王将に退けられたことしかなく(平成7年の第44期王将戦で3勝4敗で敗れた)、以来2度目のこと。

 こう意識してここ一年の羽生の戦いぶりを振り返ってみると、あえて居飛車穴熊を連採したり、自分が四間飛車に振ってみたりと、明らかに対藤井戦を射程に入れた戦法を試しており、ひたすら藤井への雪辱を心に誓って一年を過ごしてきた様子が見て取れる。

 私は七番勝負が始まる前まで、この羽生戦略は序盤作戦がターゲットなのかと思っていたのだが、地方に帯同するうちそれが終盤にまで及んでいる気配を感じることが多くなった。

 4図からの指し手などもそれで、一時的とはいえわざわざ後手飛車を働かせる▲4三歩成なんて、プロならば真っ先に読みから切り捨ててしまう手で、誰が「いや待てよ」など、深く読んでみようという考えになるだろうか。

 大駒を切り、肉弾戦のようにと金と、金銀で敵玉に迫るのが「ガジガジ流」と呼ばれる藤井の寄せテクニックで、羽生はこうしたペースにさせまいと、後手飛車を封じ込める地味な戦いを選んだ。

5図以下の指し手
▲5五馬△5四金▲7七馬△3六金▲1七飛△3七と▲6六桂△2七と(6図)

飛車の捕獲作戦

 藤井が△5三歩と打ったのがうまい。
▲6三馬△同銀引▲4七飛と先手の飛車に活躍されてしまいそうだが、△3六角と打ち返して、次の△4六歩がきびしく残るので後手よしなのだ。

 だから羽生は▲5五馬と逃げたが、藤井はなおも△5四金で中央を制圧しながら馬を追い、△3六金と勝敗のカギとなる金が少しずつ働きだしてきた。

 藤井はからっ風吹く群馬県沼田市で少年時代を過ごしたが、近郊に将棋道場はなく、ひたすら大山十五世名人の棋譜を並べることで上達の糧にしたという。

 藤井の序盤は、積極的に主導権を握るタイプなので大山将棋とは表現が違っているが、手順に玉を安定させて、遅そうなと金の活用を間に合わせるなど、終盤の構想表現はかなり似ていると思う。

 △2七とにて飛車の捕獲作戦完了。

6図以下の指し手
▲5四桂△1七と▲4二桂成△3八飛▲5九歩△2八と▲4三馬△1九と▲5二成桂△5四香▲3九歩△1八飛成(7図)

局面の流れと形勢判断

 インターネットで中継をしていると、ファンから「現在の形勢は?」と優劣を聞かれることが非常に多い。

 将棋は、野球やサッカーのように得点が表示されるわけではなく、個々の指し手の意味についても、対局者以上に読んでいるはずかないから当然の質問。

 そこで折に触れて駒の損得、玉の固さ、駒の効率、手番を判断しつつ「○○が優勢だと思います」と掲示板に書き込むのだが、▲5四桂△1七とと飛車金を取り合った局面を判断していて驚いた。

 これまで激しく駒の取り合いをしてきたのに、飛車角交換以外、まったく駒の損得がなかったからだ。

 6図から羽生が▲5四桂と取り、これを▲4二桂成と逃げた構想はいかにも遅い感じで、控え室では評判悪かったが、局面の流れが「駒の損得より駒の速度」が重要な終盤から、やや中盤に戻った感じもあるので「駒割を大事にした」羽生の一連の指し手はむしろ当然なのだ。

 藤井は待望の飛車打ちから香を入手し、それを△5四香と据えて寄せに着手。この間羽生は▲4三馬から▲5二成桂と、ひたすら注目の桂の活用を図る。

 こうして優劣不明のまま、終盤の寄せ合いに突入した。

7図以下の指し手
▲5三成桂△同飛▲同馬△5六香▲同銀△5七歩▲6八金△6五桂▲6六馬△8五銀打▲6五銀△同銀▲同馬△7六桂▲3八香(投了図)  
 まで、109手で羽生四冠の勝ち

あっけない幕切れ

 控え室では▲9五歩△同歩▲6一成桂
△同銀▲同馬△同飛▲5二金……という激しい寄せを研究しており、藤井もこの順は危険なので▲9五歩を手抜いて指す筋などを読んでいたようだ。

 ところがモニター画面に映し出された羽生の手は▲5三成桂と信じられない方向に動き、これを見た控え室には「エーッ」という驚きの声が一斉に上がった。というのは、▲6三成桂と飛車を取っても△同銀引と払われ、後手の囲いは少しも痛痒を感じないからだ。

 ところが実戦心理とは不思議なもの。相手の藤井はこの驚きが「寄せ合いばかりに集中した読みのスキを突かれた」と悲観に変わり、わずか10分で△5三同飛という敗着を選び、奈落の底に落ちてしまったのだから、これまた羽生マジックといえようか。

 羽生とすれば「寄せ合いでは自信がない」から受けに転じただけなのだが、この七番勝負で藤井は好局をすべて終盤で追いつかれており、自身の他棋戦での不調と相まって「現在の終盤力は相手の方が上」と認める気持ちがあったのかもしれない。

 とすれば必敗の内容をあわやという局面まで追い込んだ第2局の敗戦をも、羽生は終盤の信用力として、第5局にも生かしたことになる。

 終了後の検討では、▲5三成桂に△5六香▲6三成桂△同銀引▲5六銀△5七歩▲6八金△4八歩成(C図)の変化が示された。

 以下▲同歩なら△同竜▲4一飛△5二銀打▲同馬△6八竜▲同馬△5二銀で、むしろ後手優勢との結論が出たのだが、当の藤井が「▲5三成桂と指され、急に悪くなったので驚いた」と、すでに勝負をあきらめる気持ちになっていたのだから、これは結果論というものだろう。

 そのチャンスを逃した藤井は、形どおり迫って投了図を迎え、指し切り負けが明らかになった時点で「負けました」と頭を下げた。

 最後は急転直下の結末だっただけに、当日はちょっとあっけない気もしたが、日を改めて今期の5局を通して棋譜を振り返ってみたら、盤上の指し手を通し「藤井に自分を認めさせる」のが、羽生のここ一年間の戦略だったのではないかなという理解をするようになった。

 とすれば、この雪辱は頂上決戦の第二幕ともいうべきで、今度は藤井が巻き返しを図る順番。将棋界は今、二つの対立軸を中心に展開しているのだ。

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竜王戦インターネット中継掲示板再現③

  • ▲5三成桂は羽生マジックですかね。だれも気づかない手だと思います。(DJ)

  • △6五桂は『東大将棋』によると詰めろになっています。(よみぬけ)

  • こんなに面白い竜王戦をもっと見たいから、振り飛車頑張れ!(zaq)

  • 羽生先生おめでとうございます。初心者でもワクワクさせていただきました。第2局が非常に印象深かったです。(初台)

  • 第13期竜王戦で羽生さんを振り切った藤井さんは私の師匠です。また振り飛車旋風を起こしてください。(Romario)

  • この4年間の竜王戦はどれも最高でした。藤井竜王のおかげで将棋が大好きになりました。藤井さん、ゆっくり休んでまた頑張ってください。(相振り党)

  • ダンナいわく「羽生さんは何でもっとうれしそうな顔しないのかな」と。将棋の美学でしょうが、きっと羽生さんの扇子の裏の口元はゆるんでいるはず?いつか対局場で観戦したい。(HIJIRI)

  • 最高峰の将棋をリアルタイムで観戦でき、アマも自由に参加できる本サイトは大変素晴らしい。(Tack)

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本局で出た相手を自然に誤らせてしまうような羽生マジックこそが、狭義の羽生マジック、真の羽生マジックと言えるのだろう。

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武者野勝巳六段(当時)の観戦記が素晴らしい。

▲4二桂成~▲5三成桂が結果的に羽生マジックとなる過程と背景が見事に描かれている。

棋士にしか書けない観戦記だと思う。