森雞二八段(当時)の▲6九歩

将棋世界1982年8月号、福本和生さんの第40期棋聖戦五番勝負第1局盤側記「挑戦者森、大逆転で先勝 二上、新記録達成ならず」より。

「第40期・棋聖戦」二上達也棋聖と挑戦者の森雞二八段との五番勝負第1局は、6月17日に静岡県・伊豆長岡「石亭」で行われ、森八段が先勝で好スタートを切った。

 しかし、将棋は二上棋聖のほうが優勢であった。それが終盤で逆転となった。森八段の”終盤の魔術師”ぶりは見事であったが、それよりも将棋の怖さと、勝負の世界の魔性をまざまざとみせつけられたような気がした。二上棋聖の心中に”何か”があったように思えてならない。棋譜をたどりながら”何か”をさぐってみたいが、その実体に迫るのは容易ではあるまい。

 この第1局の観戦記は、芹沢博文八段が執筆する。従来の新聞観戦記のパターンを破った30日間の連載である。棋士を語るには棋士をもっていわしめよ、で”何か”は芹沢観戦記が解明してくれると思う。

 それにしても、二上棋聖に何があったのだろうか―。

(中略)

 対局開始は午前9時。和服の対局者が盤をはさんで対峙する。二人とも黒の羽織で、それがよく似合っていた。立会人席には、松田茂役九段、米長邦雄棋王の両立会人と芹沢八段。記録係の大野八一雄新四段の振り駒で森八段の先手番が決まった。

(中略)

 二上は18手目の△2四歩に35分の長考をした。それまでの局面の流れは、森の中飛車に二上の居飛車であった。戦前に予想された戦型であるが<2四歩>は、二上としては初めてではあるまいか。天守閣玉をめざすものだが、ここで森は6分使って▲7五歩と突き出した。△8五歩▲7七角△2三玉となったとき、森はノータイムで▲8八飛と向かい飛車に構えた。そして29手目に▲8六歩を決行、△同歩▲同飛(1図)となったところで、二上は再び大長考に沈んだ。

1図以下の指し手
△同飛▲同角△6五歩▲8二飛△6六歩▲5八銀△8八歩(途中1図)

 対局が始まってから二上は無言。きびしい表情で盤に向かっていた。この一局を勝つとタイトル戦10連勝の新記録を達成する。二上としては勝ちたい一番である。

 控え室でも二上10連勝が話題になっていた。米長さんが「二上先生の10連勝ね。この記録のきっかけを作ったのはどなたですか」と、とぼけていた。「第37期・棋聖戦」で米長棋聖に挑戦したガミさんが、初戦を落としたあと3連勝、そして中原、加藤の強敵を三番棒で勝ち抜いての9連勝である。

 米長「ここで長考なら飛車交換になります」の予想が的中、二上は35分の読みで飛車交換を敢行した。このあと二上の34手目△6五歩に森は▲8二飛と打ち込んだが、△6六歩▲5八銀に二上から手筋の△8八歩を打たれて先手陣はしびれた。

途中1図以下の指し手
▲7七桂△8九歩成▲6九歩(途中2図)

 森は31分で▲7七桂とはねたが、後手に△8九歩成とと金を作られて弱ってしまった。次に先手が▲8一飛成なら△8八と▲同金△6八飛と打たれてつぶれてしまう。といって△8八とに▲6八金と逃げては△8七とがひどい。

 森は16分で▲6九歩と受けた。つらい辛抱であるがやむをえない。

途中2図以下の指し手
△9九と▲8一飛成△8九飛▲6五桂△6四銀▲4一竜△同銀▲8八金打△6七歩成▲8九金△5八と▲同金(途中3図)

 二上はお茶を飲みながら盤面を見ていたが「休憩にしましょう」といって立ち上がった。

 森は関係者と会食したが、二上は自室へ入って食事をとった。夜食はともかく、昼食をガミさんが一人で食べるといったのは、私には初めてのことであった。

 森は食事のあと、池の鯉を立ったままで眺めていた。そして「うーん」とため息まじりの声をもらしていた。友人の作詞家、千家和也さんが午後4時ごろ観戦にくることになっていたが、森は電話をかけて「早くきなさいよ」といっていた。森、形勢非なりである。

(中略)

 午後の再開で二上は△9九とと香を取った。森は▲8一飛成であるが、二上に△8九飛と打たれて「うーん」とつぶやきながら考えこんでいた。8分で▲6五桂とはね、△6四銀をさそって17分の読みで▲4一竜の強手を放った。

 両者の気合いのぶつかりで△4一同銀▲8八金打△6七歩成▲8九金△5八と▲同金までノータイムの応酬であった。次の一手を二上は大長考した。

途中3図以下の指し手
△6六飛▲7九金寄△8六飛▲6一飛△5一香▲6四飛成△6三銀▲7三竜△7二歩▲8七銀△6六飛▲8四竜△6五飛▲6八金左寄△8九と▲同金△7七角成(2図)

 控え室では△8九とでも△6五銀でも後手よしの声であった。

 このままでいくと夕食休憩前に終わるのではないかとさえ思われた。

 二上は58分で△6六飛と打った。

 米長「飛車をね、うん飛車をね…」と継ぎ盤を前に研究していたが「これでも後手がいい」と話し、芹沢も「ガミさんの勝ちだね」と宣言していた。まだ午後2時半すぎであった。

 中盤戦がたけなわであるが、控え室ではいぜんとして二上優勢である。70手目に二上は△7七角成と指した(2図)。これを▲同金なら△6九飛成がある。

2図以下の指し手
▲7九金△5五馬▲4八桂(途中4図)

 森は▲7九金で△5五馬に▲4八桂の受けである。辛抱につぐ辛抱である。先手からは攻めの手がかりがないのに比べ、後手は指したい手が多すぎて困るぐらい。

途中4図以下の指し手
△3二玉▲7六銀△6四飛▲8六竜△3五歩▲6七銀△4五馬▲8三歩(途中5図)

 松田九段は「△7三馬▲8一竜△7五飛とゆっくり指して敵竜をいじめていけば、後手は絶対に負けない」という。

 米長棋王も「この局面からなら後手は負けない」と強調する。

 芹沢八段は「ガミさんの楽勝」と、三者が口をそろえて二上勝ちの予想。

 74手目に二上は△3二玉である。この手は控え室ではだれも口にしなかった。「おかしいね」とだれかがつぶやいた。

 このあたりから将棋はもつれぎみになってきた。

 <3二玉>を二上は局後「△3五歩と突くつもりだったのでね」と話していたが、2三玉では玉のこびんがあくので気持ちが悪いという意味だろうが、これは弱気の自重だったのではないか。

(中略)

 二上が80手目に△4五馬と指したあと、森は10分で▲8三歩と打った。この歩がと金となって、はるかに離れた二上玉に肉薄するとは思いもよらなかった。

途中5図以下の指し手
△5五歩▲8二歩成△2五歩▲4六歩△3四馬▲9一と△1五歩▲6六香(3図)

 89手目に森は▲6六香(3図)と打った。二上は歩切れである。

3図以下の指し手
△9四飛▲6三香成△同金▲1五歩△6四飛▲8一と△1二香打▲7一と△1五香▲同香△同香▲4五銀△2四馬▲6一と△1九角▲3九玉△1八香成▲4九玉△2八角成▲4七銀△6五香▲6六香△同香▲同銀△6五歩▲同銀△同飛▲6七香△6四香(途中6図)

(中略)

 香の打ち合いである。これが一段落したところで121手目に森は▲5一とと入った。二上は銀当たりにかまわず△6四香と打った。

途中6図以下の指し手
▲6五香△同香▲5一と△6四香▲4一と△2九成香▲5九玉(途中7図)

 控え室ではこの2枚香の構想に無理があったのではないかという。▲4一と△2九成香の攻め合いの局面で夕食休憩となった。

 芹沢、米長でこのあとの手順が熱心に検討されていた。

芹沢「ガミさん、しくじったかもしれない。次に先手に▲5九玉と早逃げされると後手は一手負けになる」

 <5九玉>に△6七桂は▲同金右△同香成▲3四桂△2三玉▲1六香で、先手の一手勝ち。序盤の辛抱の▲6九歩が終盤で威力を発揮するとは…。

 午後7時再開。芹沢予想通り森は▲5九局であった。

(中略)

 二上が136手目に△6七香成と迫った瞬間、森はノータイムで▲8五角と打った。攻防の名角であった。これからは森の鮮やかな寄せで143手目の▲6三角成をみて二上が投了した。

 午後8時27分だった。

 投了の直後に森が「どうも粘りすぎまして…。こっちが負けていました」と、二上に頭をさげていた。タイトル戦では珍しい光景であった。

(中略)

 二上にとってこの一番は痛恨きわまりない。タイトル戦10連勝の新記録がついえたというよりも、ほとんど必勝形であった将棋を失った痛手のほうが大きかったであろう。

 敗因は2枚香の構想が甘かったということらしいが、それよりは優勢を意識しての気持ちのゆるみが逆転を喫してしまったのではないか。

 中、終盤にかけて、いつものガミさんの鋭さがみられなかった。

 将棋は自身との闘いであるという。僭越ないいかたを許してもらえるなら、二上さんは自身との闘いに敗れたのではないか。ガミさんに奮起してもらいたい。

 森さんには驚嘆した。▲8三歩を打ってと金を作り、それを活用するまで粘り抜いた精神力の強靭さには目を見張った。

 36歳の指し盛りである。本人もいっている通り、タイトルを手にしてもおかしくない実力であり年齢である。

(以下略)

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今日、竜王戦6組、森雞二九段-金沢孝史五段戦が行われ、森雞二九段が敗れ、森雞二九段現役最後の対局となった。

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森雞二八段(当時)が初タイトルを獲得することになる棋聖戦の第1局。

▲6九歩の大辛抱の歩と、▲8三歩~▲8二歩成~▲9一と~▲8一と~▲7一と~▲6一と~▲5一と~▲4一と、のと金の動きと、非常に森雞二九段らしい一局だ。