森信雄六段(当時)「村山君は弟子というよりも肉親に近かったです」

将棋世界2001年12月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 無名有力の人 森信雄六段」より。

 6年間の連載で、これが最終回になった。谷川九段、羽生四冠ときて、最後のゲストはそれなりの人、とも考えたが、この企画らしい方でと思っていた。

 そもそもこの連載は、スター棋士ではないけれど、一棋士としての生きざまに光を当てる頁であった。そんな想いからも、森信雄さんはふさわしい方だと感じる。「棋士それぞれの地平」は「棋士達のプロジェクトX」でもある。

 森さんとは、若い頃にプロアマ戦の関西代表でお会いしている。しかし、その時の印象は薄い。見た目も御本人の口グセの「さえんな」であった気がする。

 これは、私自身の人物眼の至らなさだと今になって恥じ入る。刮目したのは、数年前の電話からだった。その時は、どれだけ救われたか分からない。

 電話のキッカケは些細なことからだった。この企画を考えてくれた、大崎善生前編集長と飲んでいる時に「鈴木さんの頭脳が大学教授なら」と大崎氏が言ってからだ。自分の能力に迷いもあり、「大学教授なら」という言葉に飛びついた。そんな格ではないが、自信を無くしていたのだろう。

「将棋界で、ぼくが大学教授なら」と聞くと、「森信さんはノーベル賞クラスですよ」といつもの辛口で、ちっとも誉めていない。世間を見る眼が狭い、と彼は言いたかったのに違いない。

 しかし、敏腕編集長で、後に『聖の青春』や『将棋の子』で賞を受ける大崎さんが、これほど高く評価する森さんとはどんな人なのか、突然むら雲のように興味が湧いてきた。電話で1時間半程、将棋界のことを語り合ったのは話を聞いた翌日だった。

 森さんへの予備知識は殆どなかった。多少人間性を知り得たのは『聖の青春』で村山聖九段の師匠としての関わりを読んでからだった。それでも、語り口で人間としての暖かさや、思いやりの深さは理解出来た。その上、冷静な分析力には驚かされた。関西の理事として苦労している分、将棋界の置かれる立場が客観的に見えていたのだと思う。反省するのは、将棋の実力とか立場で判断する悪い癖である。(自分は)もう、そんな判断から脱していると思っていたが、40歳を過ぎても、こんなものか、と思ってしまう。

 関西の棋士が森さんを理事として応援していた気持ちが今にして分かる。無名であっても、自分の人生をまっとうするために頑張る。それだけで社会貢献するようになっている人は、業界や地域社会で評価される。逆に、無名であるが故に人格者ということもあるだろう。

「無名有力」は、人物学からの教えであるが、「有名無力」になる場合も世間には多いのではないか。私はどちらにも値しないが、森さんの「無名有力の人」は灯台のような目標になっている。

奨励会前後

鈴木 東京まで出て来て頂き、申し訳ないです。腰の具合はどうですか。

森 今年の2月に退院してからは、だいぶいいです。東京は退院後初めてです。連載の最後が私でいいんですか(笑)。

鈴木 村山聖君の本(『聖の青春』)が出てから、森さんは一番有名な棋士かもしれません。興味ある読者は多いと思います。将棋のルールを覚えた頃からでいいですか。

森 遅かったね。小学5年生の時に、母の知り合いの腰掛け銀が得意な将棋の強い人から教わりました。

鈴木 『聖の青春』で読みましたが、小さい時に父親と離別して苦労したそうですね。将棋盤とかは。

森 ベニヤ板だった(笑)。貧乏なのは小学校に上がるまでやね。兄姉もいましたから。

鈴木 本だから脚色もありますね(笑)。赤貧なのかと思ってました。将棋との縁は?

森 『将棋世界』を夢中で読んだりとかです。詰将棋に興味があって作り始め、投稿もしました。棋力はアマの7,8級です。

鈴木 中学2年で今のレベルに近い作品を作っていたそうですから、かなりのマニアですね。詰将棋作家に多いですね。

森 道場にも行ったけど、アマ初段の人に二枚落ちの手合でした。夏は神社の境内で指し、道場は週1回通いました。高校を卒業する時は二段です。こんなんでいいんかなあ(笑)。

鈴木 良くないというよりも、信じられません。本当にプロになるんですか(笑)。

森 プロになるとは思ってないです。伊丹の帝国化成に就職して働きました。そこの寮は40人くらいいて、昼に大学へ行くか、夜に行く人ばかりです。行ってないのは1人か2人で、ぼくはその内の1人でした(笑)。

鈴木 プロ棋士とは無縁ですね(笑)。高校チャンピオンでも難しいですから。

森 南口教室に通います。実力はアマ二段ですけど、集団生活が合わない。単調な仕事に向いてないなと感じていた。会社を辞めたい、と思ってました。

鈴木 それが奨励会を受けることに。

森 これも偶然やね。山形から家出少年が教室に来て「弟子入りしたい」と言った。それで「ぼくも受けてみます」と師匠に言ったら「受けてみるか」で決まった(笑)。

鈴木 1年半働いて、19歳も半ばですよね。昭和46年の秋ですから。1年半で初段は絶望的です。櫛田陽一君(現六段)のように1級で入会なら分かりますけど。

森 会社からも慰留されなかった(笑)。ダメで元々の気持ちです。3級を受けて1勝2敗で4級入会やった。今なら無理やね(笑)。どの道、次の仕事をと思ってたからね。

鈴木 アマの四段からプロの初段は大変です。しかも、1年間上がれなかった。

森 道場のお客さんの店で洋服の配達を半年してた。これも合わんかった(笑)。半年実家に帰ったら、塾生の空きが出て志願しました。これは自分に一番合ってたね。3食つくし、将棋も指せる。

鈴木 その時が20歳の4級で、残り半年の年齢制限ですけど。

森 塾生を一生懸命やってたら、師匠が「まかせとけ」と言ってくれて(笑)。とりあえず、延長出来そうな雰囲気やった。22歳で初段になりました。

鈴木 それから2年で四段昇段ですか。信じられない(笑)。よほど強くなる条件があったのか、才能でしょうか。

森 塾生生活は刑務所に入ったつもりで、他のことは一切やらないと決めてました。水が合っていたのと、集中力がありました。ぼくは奨励会は全部、Bに落ちてから半年で上がりました。4級から三段までです。落ちたら辞めないかん、と思うと力が出るタイプです(笑)。

鈴木 それは記録です(笑)。Bに落ちても、上がれると決まっていれば落ちますが(笑)。4年半で四段も凄いですけど、過酷な関西の塾生生活が才能に火をつけたのでしょう。入った時、三段の先輩でそのまま残った人もいたでしょう。

森 夢中で、考えたこともないです。とにかく、ホッとしました。塾生は本当に好きで、四段になっても数ヵ月やってました。辞めたくなかったけど、どうもまずい、というので辞めましたが(笑)。

鈴木 東京では永作君が似てます。塾生があれば、2年早く四段になったと思います。24時間将棋漬けの体が盤に乗り移るというか、恐ろしさがありました。そんな感じでしょうか。

森 3年半は全部将棋です。あれは自分では作れない環境ですね。

―森さんが四段になったのは、51年の3月というから、私が二段の時だ。私が1年半先輩といっても、3歳年上だから、アマの強豪出身だと思っていた。もし、同じように修行をしていたら大ショックを受けていただろう。19歳入会で甘く見ていたらスッと上がってしまう。実力と勝負は別もの、とでも自分を慰めたのだろうか。今になれば、1年半手にケガをしながら単調な部品作りをしていた経験も、苦戦の将棋に耐える力になっていたとは分かるのだが。

棋士生活25年

鈴木 棋士になってからはどうですか。

森 パッとせんね(笑)。初めて自由になって、奈良のアパートの近くの競輪場にも行くようになって。

鈴木 それが普通です。高校に行きながら才能のままに四段になる人とは違って当たり前です。近年は、苦労が流行りません。

森 順位戦では3回不戦敗をしている。これでは上がれんね(笑)。最初は20代の時に肺結核の疑いで入院して3局くらい不戦敗した。後は30代と今年です。やはり、3局ずつ不戦敗でした。今年のは、もう長い順位戦は無理やと思い、フリークラスに転出しました。

鈴木 20代では、新人王戦(第11回)で優勝しました。この時は。

森 入院した後で、降級点を取った次の年です。20代で2回取って、次は引退かと思った時も、6勝4敗で降級点を消しました。消した年に、降級点制度がなくなりましたけど(笑)。背水の陣にならないと力が出ないタイプです。順位戦も年齢制限があると良かったかな(笑)。

(中略)

森 元々、欲が少ないですね。生活出来ればいいというか、好きな将棋を指していればいいと思ってきました。

鈴木 将棋が本当に好きなんですね。ぼくはそこまで好きか自信がないです。フリークラス転出の決断は、腰痛のこともありますか。

森 自分の時間を作りたいと思ったのが一番です。もう(人生の)残り時間を考えないといけない。8年前から子供の自宅教室をやってるけど、本気でやらないと上手くいかないと思って。

鈴木 森さんの詰将棋や次の一手(注:スーパートリック)は有名ですけど、子供教室は知りませんでした。現在は何人くらいですか。

森 隔週木・金・土の各2時間で、50人くらいです。お母さんが大切で、(将棋を)強くしたいと思ってはダメですね。もっと軽いもの、というか塾のような感覚です。妻がピアノを教えているのですが、音楽教育の方面では先生用の指導書があります。でも、将棋の世界ではまだ作られていません。

鈴木 全員がピアノのソリストを目指したら重いですね、確かに。将棋の指導で食べている人が少ないせいもあるでしょうけど。

森 アルバイトの感覚ではダメです。ぼくも以前、弟子に任せて失敗してます。これで飯を食う、というくらいでないと成功しないです。まだ分かりませんが。

鈴木 対局以外のことへ力を入れるのに、49歳はいい年齢だと思います。子供への普及に力を入れて下さい。

森 (教室は)連盟とかではなく、生徒の家の近くがいいです。しかも低料金で。これは、ピアノのマニュアル本の教えです(笑)。

創作と弟子の話

鈴木 詰将棋と次の一手を両方作る人は内藤國雄先生くらいですね。

森 ぼくは職人です(笑)。仕事ならどんなに苦労しても作ります。賞とかは興味ないですね。

鈴木 次の一手は特別の感覚で、才能がないと作れない感じです。以前は打ち歩詰めの筋か逆王手くらいでした。森さんの影響が大きいですね。

森 コツコツ考えるのが楽しい。自分の好きなことばかりやって生きています。

鈴木 実はぼくもそうです(笑)。弟子は育ててませんけど。村山君のことは胸を打たれました。

森 村山君は弟子というよりも肉親に近かったです。増田、山崎、安用寺と棋士になりましたが、村山君とは違いますね。ひと言で言うと面白かったです。

鈴木 村山君も森さんでなければ、と思います。当然強くなったでしょうけど。

森 あれだけの才能だから、ぼくが師匠でなくても強くなった、と言われますが、犠牲も大きかったと思います。何十勝かは逃していると思います(笑)。ぼくは強くならなくても長生きしてほしかったです。それを言うと彼は怒りましたけど。

鈴木 ある意味では、森さんの30代を捧げたのだと思います。師弟愛とかひと言で言えないですね。他に弟子も多いと聞いていますが。

森 今、奨励会に8人います。地元や京都、広島、大阪から頼まれます。親には上手くいかない方が多い、と話しています。その時どう対応するかですね。

鈴木 身近に三段で辞めた人がいます。その気持ちは分からないですね。

森 優れているのに、どうしてこんなことになるのかと思うと、辞めてからも辛いですね。幸せは棋士になることではないですから。

鈴木 これからの将棋界はどうですか。

森 連盟は投資が必要です。帰ってこないケースもあります。将棋はファンにとっては娯楽ですから、ファンの負担を軽くしてあげるべきです。せいぜい1パーセントくらいで、20パーセント持ってほしいというのは棋士の論理です。

鈴木 確かにそうですね。棋士はライセンスをもっと感謝していいと思います。

趣味と優先順位

鈴木 優先順位を聞くのも今回が最後になりました。

森 将棋の仕事が全部です。放浪癖も写真も将棋のうちだと思ってます。

鈴木 本誌の連載も長いですね。趣味でお金を稼げるのは凄いです。カメラはどのくらい持ってますか。

森 1台です。もう1つ中判カメラを持ってますが、いつか使いたいです。

鈴木 1台ですか。レンズとかは高級ではないんですか。名人の域です(笑)。

森 器械に弱くて(笑)。車もダメだと思ってたら、3月に免許を取りました。なんとかなるもんですね。

鈴木 不思議な人です。インドで1ヵ月も住んでしまうし、想像を超えます(笑)。

森 中国でも言葉が通じない快感があります(笑)。相当困っても、人は信用出来ます。どこに住んでいても24時間は変わらないですよ。3食たべるし、散歩もします。

鈴木 今日は有終の美を飾って頂き(笑)、ありがとうございました。最近、読んだというゲーテの『ファウスト』の話を飲みながらしましょう。

対談を終えて

 森さんは知性の人だと思う。会ったことはないけれど、インドの大詩人タゴールと話をしているような錯覚におちいる瞬間があった。話題の急所をポツリポツリと話をする。もしも、将棋界が行き詰まった時は、森さんが助け舟を出してくれるだろう。「終盤は村山に聞け」「苦難は森信に聞け」である。

(以下略)

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ここまで5,533文字。通常なら前編、中編、後編と3回に分ける分量だが、面白くて一気に読めてしまうし、より多くのことが深く伝わってくるので、1回にまとめた。

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実際に森信雄七段と一緒にいると、この対談と同じような雰囲気で、森信雄七段の話をいつまでも聞いていたい思いになる。

世間話であっても、ずっと聞いていたくなる。

人間的な魅力と内面に潜む温かさ。

奥様も一緒だと、話にまた新しい面白さが加わる。

相撲部屋とは全く異なるが、森信雄七段と奥様が、多くの森一門の弟子が育ちやすい、飛躍しやすい土壌を作ってきたのだと思う。

森信雄七段の物語は、これからも続く。