途中で特別対局室に移動してきた対局

将棋世界1982年8月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。

 その日、東京の会館は対局は多かった。王位戦リーグ3局のほかに、順位戦、ほかの新聞棋戦の予選など10局近くあった。特別対局室での勝負は、大山康晴王将-勝浦修八段戦、内藤國雄九段-西村一義七段戦の2局で、わたしも後者のほうを観戦していた。すると午前中に内藤が妙なことをいい出した。

「きょうは森安秀光君(八段)もきて、石田和雄八段と対局しているはずや。あの二人だけ一室に閉じ込めとくのはかわいそうや。同じ王位戦やから、せま苦しいけど、ここへ入れてやったらどうやろか」

 そんな例はめったにない。はじめは冗談かと思っていたら、大山まで「そのほうがにぎやかでいい。それに勉強にもなるし―」とおもしろがって、その話に乗ってしまった。そして昼休みの間に、森安-石田戦の盤がそこに運ばれてしまったのだ。

 休憩のあと観戦にくる棋士たちは「あれっどうなってんの?」と驚くし、隣の部屋で対局中している芹沢博文八段など「ほう、6強のそろい踏みですな。わたしも勉強のため、全部が終わるまで時間をつかって指していましょう」と誘い水をかけている。内藤らに「終わったら、いっしょに呑みに行こう」という”赤裸々なナゾ”をかけている。

 その芹沢の予想(?)どおり、この3つの対局は深夜に及んだ。そのころ、わたしは酒を一日置きに呑むことに一時的に決めていて、その日は呑めない日だったのだが、内藤は対局中に「12時を過ぎれば、あしたやな!」と笑わせた。ところが、内藤-西村戦が終わったのが11時半近く。そして不思議に隣の芹沢の将棋も11半すぎにちゃんと終わった。

 両者が感想戦を終えて、対局室を出るときに内藤はブレザーのソデをちょっとくって、黄金の時計をちらっと見る。そして、わたしに向かい憎いことをいう。「ぴったり12時ですな!ほな、いきましょっ!」

 あきれてものがいえないが、うれしい気が先行する。隣の森安-石田戦だけ、まだ続いている。出掛けに、ちょっとそっちを向いた内藤は「秀光君、行き先は出口の守衛さんにいうとくわ」といい、芹沢、内藤にわたしが付いて夜の街へ。―タレント二人の付け人といった感じがしないでもない。

「わたしは、歌が本職やから下手なカラオケを聞かされるのはかなわんのや」と内藤が注文を付ければ、「オレもそうだから―」と芹沢が受けて、近くのきれいとはいえないおでん屋風小料理屋の座敷に上がり込む。

 あとは呑めや呑めやである。二人は東西の横綱と定評のある酒豪だ。もう将棋のことなどまったく忘れて家庭的おでんをつまみながらがんがん呑む。ところが、待てど暮らせど森安は現れない。そして3時を回ったころ、若い観戦記者が戸口に顔を見せ、「森安先生は先回りして、あっちのスナックでお待ちですよ」と告げる。

「そな、いきましょ」と立ち上がる。「お勘定は?」とおばさんに聞けば、「オチョウシ45本ですから、3万ン円です」と。―呑みも呑んだり、わずかな時間でこうなのである。しかし、話はまだ続く。

 近くのスナックに回ると、森安、石田が観戦記者2人と、どこかのオッチャンを囲んでやっている。よくそのオッチャンを見ると、どこから現れたか、桜井昇六段ではないか。先輩で、しかも理事だから威張れるのである。

 こんどはにぎやか、わいわい呑んだ。不慣れな(?)わたしなど、テーブルにうつ伏して眠ってしまう情けなさで6時半ごろまで呑み騒いだ。もう夜は明けていた。芹沢、石田、桜井はタクシーをひろって帰った。私と観戦記者の中島一彰君らは「もうだめだ、連盟の記者室で仮眠しよう」と帰り道で気付くと、連盟に泊まるはずの内藤と森安が消えている。

―なんと、また呑みに行ったのである。

 西の横綱がこうなら東の横綱もすごい。話はもう少し続く。

「さあ寝よう」と記者室に着いてみると、熱心に将棋を研究している棋士が2人いるではないか。加藤博二八段と佐藤義則六段だ。「いや、寝そびれて、朝を待ってるんです」。外が明るいのにも気付かぬ熱心さに頭が下がったが、ひょいと見ると、ちゃんとワンカップが用意してある。もう眠る門下。それを少しちょうだいして時間を待つ。

 実はわたしは内藤-西村の観戦記の〆切りが急ぐので、この日、芹沢に解説を受ける約束だったし、中島君も芹沢と仕事の約束を持っていた。―佐藤も「わたしも師匠に会っていこうか」というので、3人で車をとばす。着いたのは約束どおり10時。

 なんと芹沢は、もうウイスキーをチビチビなめながら待っていたのである。「さあさあ、仕事はちょっといっぱいやってから」というので、4人でまたはじまった。このあたりで、さすがのわたしも仕事を断念し、佐藤と並んで芹沢家の布団にもぐり込む。

 ところが起きてみると、芹沢たちは仕事を終えて、また呑んでいる。「もう、だめだ」と芹沢家を出たのは3時ごろであった。口惜しいから、わたしも家に帰って少し呑んだが、それにしてもあの両横綱は、ウイスキーの量をガロンとかバーレルで数えるような恐ろしい呑みっぷりだ。

(以下略)

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対局の途中で部屋が変わるというのは、かなり異例なことだ。

これが実現できたのも、隣で対局していた大山康晴十五世名人(日本将棋連盟会長)が同意というか乗り気になったことが大きかっただろう。

また、王位戦の担当である三者連合の能智映さんが観戦記者として同室にいたわけだから、話は早い。

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午前0時過ぎまで開いている「おでん屋風小料理屋」はなかなかないと思うのだが、そういう意味では、飲みに行った場所は新宿だったのかもしれない。

スナックというのも新宿2丁目にあった「あり」である可能性が高い。

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午前6時半から飲みに行ける店というのは限られている。

この当時、私は六本木で飲むことが多かったが、どんなに遅くまでやっている店でも午前5時か6時には閉店だった。

新宿だからこそ、朝遅く(?)まで開いている店があったのだと思う。