将棋世界1982年10月号、能智映さんの第23期王位戦七番勝負第2、3局盤側記「とるか内藤、守るか中原」より。
名人戦の七番勝負が持将棋や千日手を含んで延びに延び、”夏の陣”であるはずの王位戦の日程にからんできて、1局と2局の間に中原は加藤一二三新名人に名人位を奪われるという事件があった。これでタイトルは分散した。「木村時代、大山時代、中原時代とあったが、将棋界ははじめて戦国時代に入ってきたね」とささやかれる。
戦前の予想座談会で、中原の兄弟子の芹沢博文九段は、最近の中原の調子に触れて「自分でむちゃくちゃに悪いと思っているフシがあるね」といい、米長邦雄棋王はそれに同調し、さらに「内藤さんにすれば、最後のチャンスだからね」と遠慮なくいってのけた。
そんな予想だったが、両対局者にインタビューした限りでは気負いはなかった。中原が「内藤さんが相手なら、楽しみながら指せそうですね」といえば、内藤は「いまは派手に気炎を上げる気はありません」と静かなムードだ。
(中略)
たまたまかもしれぬが、北海道の朝には憂いがあった。遠くに霧、風がないのか、それが去っていかない。
朝、中原はみんなと一緒に食事をとったが、内藤はとうとう出てこなかった。「少し呑みすぎたかな?」と北村八段。
だが、対局5分前に対局室に現れた内藤は晴れやかだった。白い大柄のかすりの着物に薄茶色の袴、絹の羽織が涼しそうだ。一方、中原は紺系統で地味にまとめている。ただ一つ目立つのは、膝の前に置かれた腕時計。よく見ると、スヌーピーの絵がついている。聞くと「時計を忘れてきたんで、羽田で買ったんですよ。対局中使ったら、子供にやればいいから―」と笑った。
花村九段が「わたしがいれば、フラッシュはいらんのにねえ」といったが、第1手にテレビカメラのライトが光った。
▲2六歩△8四歩から、内藤が得意とする飛車先交換の腰掛銀となる。32手目、「中原さんが△4四歩と突きました」の報が入ったとき、のんびり高校野球のテレビを見ていた観戦記者の信濃桂氏が「えっ」といって立ち上がった。
相手の得意をきらって変化したのだが、「これは2年ほど前に中原さんが佐藤義則六段を相手にしたときに、試みて勝っているよ」とすかさず北村八段がいえば、信濃氏は「10年ぐらい前にこの二人がやっていたはずです」と話がはずむ。
だが、意外に対局室のムードは明るい。昼食の注文にも、内藤が「中原さんは、前(第2局)にうどん2つ取ったね」と笑いかけると、中原は「じゃあ、こんどはラーメンとしますか。内藤さんは2つ食べるでしょ」とやり返す。
そして結局、中原は醤油ラーメン、内藤は味噌ラーメンを2杯ずつ注文したが、いざ食べるときになって、交換し合って、それぞれ1杯ずつ食べていた。呉越同食―設営するわたしたちは、こんな仲の良さは大歓迎だ。
ところが、中原はわたしの食べている塩ラーメンをわざわざ見にきて、なにをいったか。―「これもおいしそうだ!」
(中略)
▲9七香、これで封じ手となったが、北村八段は「中原よし」の断定をくだした。
その夜、内藤は呑んだ。この人らしい明るいムード。
「能智さんの『愉快 痛快 棋士365日』って本、売れてる?きのう近鉄デパートの将棋まつりで同志社大学の女学生が3人来て『この本にサインしてください』といってきたのでサインしときましたよ。大山さんや升田さん、加藤一二三さんなんかならやりにくいけど、能智さんならええわ」などと笑いを絶やさない。
そのあと、どれほど呑んだか、深夜に内藤がホテルのバーで美声を聞かせていたのを覚えている。わたしが「うたおうかな」といったら「ダメや」とピタリと断られた記憶もある。
ともかく、翌朝目をさましたら、信濃氏が隣に寝ていた。前夜、二人で風呂に入ったはずなのだが、そろってネクタイをしめたままというのもおかしい。
(以下略)
——————
対局一日目の夜にも、普段のように酒を飲むのが内藤流。
この一局は中原誠王位が勝つが、七番勝負は内藤國雄九段が制して王位を奪取することになる。
——————
内藤「中原さんは、前にうどん2つ取ったね」
中原「じゃあ、こんどはラーメンとしますか。内藤さんは2つ食べるでしょ」
このような対局中の会話が、ネット中継や映像でリアルタイムで配信されたら、ファンは大いに盛り上がることだろう。
とはいえ、この頃はそのようなインフラやサービスの無かった時代。
——————
中原誠王位は「内藤さんは2つ食べるでしょ」と挑発をしている。
内藤國雄九段が「中原さんは、前にうどん2つ取ったね」と話しかけさえしなければこのような展開にはならなかったわけで、内藤九段が自ら招いてしまったとはいえ、不運な流れ。
昼食にラーメンを2杯完食することができる人はそうそういるものではない。
しかし、いかに和やかな雰囲気とはいえ、勝負師として「いや、私は一つで十分」と言ってしまえば気合い負けしてしまうから、当然のごとく内藤九段もラーメンを2杯注文することになる。
——————
この対局が行われたのは、北海道音更町十勝川温泉の「笹井ホテル」。
北海道のラーメンは、大きく札幌ラーメン(味噌)、旭川ラーメン(醤油)、函館ラーメン(塩)と分類されるが、「笹井ホテル」のある十勝地方は地域的にどの派にも属していないので、味噌も醤油も塩も同列の位置付け。
それだけに、注文するメニューも分散しやすかったと考えられる。
——————
しかし、醤油ラーメンと味噌ラーメン。二つ食べるとしたらどちらから先に食べるのが良いのだろう。
かなり悩ましい問題だ。