板谷進九段の夢と藤井聡太四段

昨日放送されたNHK クローズアップ現代「14歳棋士・知られざる偉業への道 ~歴代最多28連勝・藤井聡太~」の中で、藤井聡太四段が大師匠(師匠の師匠)である故・板谷進九段の夢(東海地区にタイトルを持ち帰る)を叶えることが自分の夢でもあると語っているシーンがあった。

板谷進九段から杉本昌隆七段、杉本昌隆七段から藤井聡太四段へと脈々と遺志が受け継がれていると知り、テレビを見ながら感動した。

——————

将棋マガジン1988年5月号、小林健二八段(当時)の板谷進九段を追悼する「先生のおもいで」より。

 2月21日(日)お昼まえ、私は先生のお宅に電話をかけた。先生はいつもとかわらぬお元気な声で私と1~2分ほどお話をして電話を切られた。まさかそれが最後になろうとは、この時は夢にも思わなかった。

 その日の夕方、弟弟子の中山三段から電話がかかり先生がお倒れになったと聞いた時は信じられなかった。つい数時間前までお元気な声だったので我耳をうたがう思いで、とにかく名古屋に向かった。

 病院にはすでにご家族や、多くの友人が駆け付けてくださっていた。そしてすぐに手術が行われた。数時間ののち手術が終わり、一応手術の方は成功と聞き、一抹の不安は合ったものの”将棋は体力”がキャッチフレーズの先生であるから必ずやお元気になられると信じてうたがわなかった。

 すでに夜明けが近かったので、私は、本誌の中島一彰氏とともに、先生の無二の親友である鬼頭孝生氏のお宅におじゃまさせてもらった。中島氏は本誌のインタビューで板谷進九段から東海棋界の事や、先生ご自身のいろいろなお話を取材に来た矢先の出来事であった。

 誰からともなく、早く先生がお元気になられてまたお願いすればいい、と言ってお開きになった。本当に先生がお元気になるものと全員が信じていたのに……。

 しかし翌日私の家に鬼頭さんからかかって来た電話は、先生が危篤状態であるというものであった。私はまた名古屋へ向かった。23日の午後6時の事である。

 結局、先生はご家族や、大勢の友人の見守る中、24日午前1時40分永眠された。亡くなられる前までは大変苦しそうなお顔でしたが、その後は安らかなお顔になられていました。

 私が先生と初めてお会いしたのは、今からちょうど16年前、あの浅間山荘の事件の直後であった。

 見るからに頼り気のない子供であった私に、先生は私の両親に「この子は黙っていても七段以上になる」とおっしゃったそうですね。

 私が五段に昇段が決まった時、家内に電話で話され涙を流されていたそうですね。

 昭和60年の順位戦では師弟でA級入を競い合い、最終局で私が負けて、先生が勝てば先生がA級に昇級という時に、先生は対局前日神社で、弟子の昇段を祈願されたそうですね。

 まだまだ書き切れないぐらい先生にはお世話になったし、これからもっともっといろんな事を学ばしていただこうと思っていたのに。

 葬儀当日は、生前の先生のお人柄通り2,000人もの方々が先生に会いに来られました。

 日本じゅうから先生のファンの方が、友人が来られました。

 でも私は今だに信じられません。戸をあけて「よっ!けんちゃん」と言ってくださる声がもう一度聞きたいのです。

 あれほどご家族を愛され、そして将棋を、将棋ファンを愛されていた先生が最後に大ウソをつくなんて―。

 今は私は何をしていいのかわかりませんが、将棋を初心に戻って頑張ろうと思います。

 一門の弟弟子、中山三段、村田三段、杉本三段、坂上1級、石塚6級、戸越6級、皆同じ気持ちのはずです。いつの日か先生の弟子たちでタイトルを争う日を天国から楽しみにしていてください。

追伸

 先生、芹沢先生や、能智記者とあまり飲みすぎないようにね。

——————

板谷進九段は、1988年、クモ膜下出血のため、47歳の若さで亡くなった。

A級在位7年、1978年から10年間、日本将棋連盟理事を務めている。また、父の板谷四郎九段ともども中京棋界の発展にも大きく貢献した。

——————

昭和60年の順位戦B級1組のラス前の戦績は次の通りだった。

4位 小林健二七段 7勝3敗
5位 内藤國雄九段 7勝3敗
8位 板谷進八段  7勝3敗
11位 南芳一七段  8勝2敗

最終局は内藤-南戦だったので、内藤-南戦の勝者がA級昇級。小林健二七段は自力。板谷進八段は小林健二七段(対宮坂八段戦)が敗れて自ら(対前田七段戦)が勝てばA級昇級。

小林七段、板谷八段が共に敗れて内藤九段が勝つと南七段、内藤九段が昇級。

このような状況の中で、板谷八段は対局前日、小林七段の昇段・昇級を神社で祈願した。(結果は南七段と小林七段が勝って昇級)

板谷進九段らしい、感動的なエピソードだ。

——————

将棋マガジン同じ号、板谷進九段とは奨励会時代からの親友だった大内延介九段の「嗚呼、棋好勇進」より。

 最近は地元、愛知県の山あいに、将棋の研修道場を作るため奔走していた。大学将棋部の合宿や、社会人の憩いの場、奨励会員の修練など広い用途を計画しており、自分もそこに住むのだと楽しそうにいっていた。志半ばで逝き、さぞや無念だったろうと思う。

 通夜の席、板谷君の愛弟子、小林健二八段が私の手をとって泣きじゃくった。板谷君と仲良しの木下晃六段は祭壇に飾られた写真を見て、「あんなに明るく笑っていると、つらくなる」と目頭を熱くしていた。誰かは、「芹沢さんが呼んだんだよ」といった。兄弟のように親しかった酒豪の二人は、いまごろ酒をくみかわして将棋界のことを話していることだろう。

 誠光院棋好勇進居士。彼の戒名だが、いかにも彼らしく、棋好勇進とはよく付けたものだ。

合掌

——————

将棋マガジン同じ号、日本将棋連盟会長の大山康晴十五世名人による弔辞。

 板谷進君、何故貴方はこんなに早く、やらねばならぬ事を沢山残して逝ってしまわれたのですか。疲れを感じさせない頑健な身体と不屈の気力ある日頃の貴方の姿から、このような結果を誰が想像したでしょうか。命のはかなさを今日ほど痛感したことはありません。

 貴方は昭和53年から10年間、連盟理事として激務のかたわら、A級在位7年、棋界の花形として大活躍されました。中京地区将棋界の中心人物が板谷進君、貴方でした。将棋を愛し、ファンを愛し、ねじりはち巻姿での50面指し、100面指しは、今でも強烈な印象として残っています。

 関西将棋会館の完成を見る事ができたのも貴方の「お金の事は皆で一生懸命やれば、何とかなる。東京の例を見ても、将棋会館を建てなければ普及も難しいのだから」という力強い発言があったからこそです。

 貴方が残した業績は、将棋界の大きな指針となり、その遺志は、板谷将棋教室で育った多くのお弟子さん達によって、きっと受け継がれて行く事でしょう。残された私達も、力を合わせて棋界の発展に努めます。

 お別れにあたり、謹んで板谷進九段の御冥福をお祈り申し上げます。 さようなら。

昭和63年2月27日 

日本将棋連盟会長 十五世名人 大山康晴

——————

藤井聡太四段の公式戦通算成績、28勝0敗。

「貴方が残した業績は、将棋界の大きな指針となり、その遺志は、板谷将棋教室で育った多くのお弟子さん達によって、きっと受け継がれて行く事でしょう」

という大山康晴十五世名人の言葉を読むと、胸が熱くなる。

—————-

東海の若大将

芹沢博文九段の予言

東海のトラック野郎

漫才のような大盤解説