先崎学七段(当時)「負けることよりも、昇れないことよりも、元の、無気力無感動な自分に戻ってしまうのではないかと、なにより恐れた」

将棋世界1999年5月号、先崎学七段(当時)の「昇級者喜びの声(B級2組→B級1組)より。

 連続昇級である。

 驚いた。

 前期は始まる前から昇級できる予感があった。棋力、気力、共に充実している自覚があった。ノッている時は、頭の隅の方まで、曇を感じないものである。将棋を指している最中のみならず、日常においてもモヤモヤした危うげな時間をかたときも感じなかった。

 今年度は違った。昇級したことで気がゆるんだのだろうか。突然、ブラックアウトがやって来た。3月中旬から、体調も悪くし、将棋の内容もぐっと悪くなった。なにか変えなければと悩み、本誌の連載もやめた(この点は読者の方に非常に申し訳なく思っています)。

 他の棋戦が散々たる成績の中で、何故順位戦だけ星をまとめられたか、自分でも不思議で仕方ない。とくに8月に大阪で行われた畠山成幸君との一局は、心身ともに最悪といってもいい状態だった。

 図はその将棋の中盤の局面。

先崎畠山

 長引いたら負けだと思っていた僕は、勢いのある手だけ指そうと決めていた。▲4四角と切った手が会心の一手。△同銀▲3六飛△3五歩▲2六飛で△2四歩には▲2三銀があり切れることはない。

 苦しい中でも良い将棋を指せたことが忘れていた自信を甦らせた。秋が深まり体調も少しずつ良くなっていった。酒を飲まない生活にも慣れていった。

 幸運にも自力になってからの1ヵ月は長い長い闇が続いた。その間に私生活では、結婚や引越しがあった。雑事を乗り越えながら、気力を充実させることだけを意識して日々を暮らした。

 負けることよりも、昇れないことよりも、元の、無気力無感動な自分に戻ってしまうのではないかと、なにより恐れた。

 最終戦はいい将棋が指せた。これもまわりの応援、ファンの声援のおかげ― 今、心の底からそう思っている。

 去年は様々な意味で変革の年だった。

 いい一年だった。

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「とくに8月に大阪で行われた畠山成幸君との一局は、心身ともに最悪といってもいい状態だった」と書かれているが、この対局が行われたのが1998年8月21日で、村山聖九段が亡くなってから13日後のこと。

先崎学六段(当時)が東北の温泉で静養している時に、村山聖九段が亡くなったことが知らされている。

自身のことと村山聖九段が亡くなったこと、両方が重なって心身ともに最悪な状態になっていたのかもしれない。

先崎学六段(当時)「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」

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「突然、ブラックアウトがやって来た」のブラックアウトは、停電、灯火管制、船の操船ができなくなること、航空券において有効期間中であっても利用できない期間のこと、一眼レフカメラでシャッターを切った瞬間にファインダーが見えなくなること、などの意味。

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高校時代、部活は天文研究会だった。

ここには五島光学製7.5cm屈折望遠鏡とPENTAXの一眼レフカメラ(レンズなし)とモノクロ写真の現像用具一式があった。

夜、天体写真を撮る時は、望遠鏡をレンズ替わりにして一眼レフカメラを直接望遠鏡に装着する形態。

しかし、天体写真は短い露出時間ではほとんど写らないため、シャッターを切った状態を長く続けていなければならないことがほとんど。

シャッターを切った状態でカメラのファインダーを覗いても何も見えないわけで、撮っている最中、不安でならなかった記憶がある。

これがブラックアウトが長く続いている状態。

私が天文研究会に入っていたのは高校2年の文化祭までだったが、天文研究会に入っていた頃は成績もブラックアウトの状態が続いていたような感じがする。