将棋世界1996年4月号、野口健二さんの「ドキュメント 七冠誕生の瞬間」より。
2月14日、午後4時45分。急にひっそりとした取材本部のテレビには、先程まで検討陣が予想していた通りの手順で収束へ向かう盤面が映し出され、大盤解説場のざわめきが時折流れてくる。
画面が切り替わると、顎をぐっと引き、頬に丸いふくらみの目立つ谷川と、両手を前につき、前傾姿勢をとる羽生の姿。アップに成った羽生の面上に、来し方を振り返るような穏やかな表情が浮かぶ。
△5八銀と指されて谷川が席を外すのを見て、対局室「王将の間」に向かった。ドアの前には主催紙のカメラマンら約10名が陣取り、少し離れてテレビ局のスタッフ、さらに先には新聞・雑誌各社の取材陣が、歴史的な瞬間を待ちうけている。
5分、10分と経つが、ドアは開かれない。緊張に耐えかねるように、囁き声があちこちで起こり始める。弔鐘のようにも、七冠を祝福するようにも感じられる、不思議な暗合。
しかし、まだドアは開かない。この時、対局室の中は、常にも増して重苦しい雰囲気に包まれていたという。2月13日、対局1日目。山陽新幹線の新下関駅から車で30分、対局場の「マリンピア・くろい」に着くと、IDカードを首から提げた報道関係者がロビーを行き交い、各社の将棋担当者の顔も見える。対局室と同じ3階に設けられた主催紙の取材本部に行き、早速羽生のコンディションについて尋ねる。
ことの経緯はこうだ。棋王戦第1局の行われた松山から帰京する11日、既に体調の異変に気づいていた羽生は、翌12日の朝、38度の高熱を発し病院へ。予定の飛行機に間に合わず、約4時間のキャンセル待ちの末、前夜祭が終わろうとする頃、ようやく対局場に入ったという。
後日、羽生に対局開始時の気持ちを聞くと、「頭がボーッとして、正直言って何も考えていませんでした。ただ、こんな状態で二日間、将棋を指せるかなという感じでした」。
昼食休憩までわずか21手、という超スローペースで進み、谷川が研究会で経験済みの作戦、▲6九玉~▲5九金を見せたところで封じ手となった。
蒼白の羽生は、半開きの口で苦しそうに息をつぎ、目にはいつもの光がない。2日目の朝を迎え、羽生の顔にわずかながら生気が戻ってきたように見えた。50社・200名を超える取材陣のために、封じ手開封が二度繰り返される。
大盤解説状では早くも100名以上のファンが、森下・山田女流の言葉にじっと耳を傾けている。その数は最終的に400名に達することになる。
封じ手は、予想になかった△3四飛。谷川の▲1七桂が、さらに意表を衝く。だが、続く△3八歩を境に、控え室の声は次第に後手優位に傾き始め、変わることはなかった。
衛星放送の画面に映る羽生は、時間の経過にともない、覇気を漲らせていった。それは、この目で見ていなければ到底信じられないような、不思議な光景だった。午後5時6分、ついにドアが開かれた。無言のまま盤に目を落とす両対局者を、あっという間にカメラの放列が取り囲み、終局の余韻は喧騒に取って代わられた。
主催紙のインタビューが始まる。
「……将棋になったが、お互いに……」
いつもより低い、圧し殺したような羽生の声は、途切れ途切れにしか聞き取れない。
背後から羽生に向けられるカメラの重圧にじっと耐えていた谷川に、マイクが向けられる。
「せっかく注目してもらったのに、ファンの皆さんに申し訳ないし、羽生さんにも申し訳ない」
「不調といわれているうちに、なんとかしなければいけませんね」
それまでの無表情と変わり、笑みを浮かべて語る谷川。大盤解説で内藤の語った「取られたら、また一つ、二つと取り返せばいい」という言葉が蘇る。
「窓を閉めてもらえますか」という羽生の声がして、我に返った。取材陣の大部分が去り人いきれの消えた対局室に、半分開いた窓からまだ肌寒い夜気が流れ込んでいたのだ。いつの間にか見慣れた風景に戻り、谷川の「どうして▲2四歩と垂らさなかったんだろう」という言葉で6時20分、感想戦は終わった。25分後、別棟のプレスルームで共同記者会見が開かれた。1年前、奥入瀬で谷川の浴びたライトは、今羽生に向けられている。10分ほどで会見は終わり、疲労の色濃い羽生は拍手に送られて退席。この後も、テレビ、ラジオの生出演が分刻みのスケジュールで組まれているのだ。
この夜、降り出した雨の中、谷川は一人神戸への帰途についた。
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羽生善治七冠誕生の時の取材が約50社・200名。
今週の29連勝という連勝新記録がかかった増田康宏四段-藤井聡太四段戦の取材が約40社・100名。
1996年と2017年、活字媒体の数が減ってネット媒体が増え、差し引きマイナス10社というところなのだろう。
1996年当時は1社あたり4名、2017年が1社あたり2.5人というのは、放送機材の軽量化などにより人数が少なくて済むようになったのか、あるいは特別対局室に入りきれる人数が限られているのでそうなったのか、のどちらかだと思う。
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羽生七冠誕生の頃、私は夜の帰りが遅かったりして、あまり夜の番組を見ることはできなかったのだが、朝の番組(当時、私はフジテレビ派だったので、「めざましテレビ」と「おはよう!ナイスデイ」の出だしは毎日見ていた)では将棋のことはそれほど取り上げていなかったと思う。
七冠誕生は、七冠誕生という具体的な目標があって、それが達成されるまでの取材、という位置付けだが、連勝新記録は、連勝が続く限り続く取材。
14歳の無敗のニューヒーロー誕生という要素も加わり、取材の性格が違うとはいえ、最近のニュースや各局の朝のワイドショーでの将棋の取り上げ方は、羽生七冠誕生前後よりもはるかに凄いと思う。
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将棋界にとってみれば、現在は報道バブル時代ということになるのだろう。
いずれは沈静化する時がやってくる。
1996年の羽生七冠誕生の年、NHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」も放映され、将棋ブームの大きな後押しにもなった。
しかし、この年は、将棋マガジンが休刊、近代将棋も経営難から新経営陣が加わっている。
当時の日本将棋連盟も大きな努力をしていたが、ブームを将棋界全体の糧にすることはなかなか難しかった。
今回のブームが去った後、何が残るか考えると、一つの朗報が各地の将棋教室へ通う人数が増えているということ。(1996年頃は将棋道場の数は現在よりも多かったが、将棋教室の数は少なかった)
これは今回のブームが来る以前からの各地の将棋指導者の努力の賜物だが、今回のブームがその更なる後押しをしているとすれば、素晴らしいことだと思う。
私もそうだが、子供の頃に将棋に興味を持てば、その後、受験や仕事などで将棋から離れていったとしても、いずれはまた何かのきっかけで将棋に戻ってくることが多い。
物販やネットでのアクセス数などは一過性のものだが、教室へ通う人の人数が増えることは将来に渡っての財産になる。
そういった意味では、単純な比較はできないが、1996年のブームの時に比べ、将棋界全体の受け入れ体制は相対的に整っていると言っても良いだろう。