将棋世界2003年12月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。
今期の新人王戦決勝は、行方六段と田村五段の対戦となった。
「とうが立った新人ですがね」と行方六段はテレていたが、言われてみれば四段になってから十年たった。
デビューするや、いきなり竜王戦で連戦連勝。決勝三番勝負まで勝ち上がった。あのときの驚きは、今の渡辺五段が勝っている有様と同じだった。それほどの早熟の天才が、その後いま一つパッとしない。クラスは上がり、毎年勝ち越しているけれど、そんな程度の成績で満足する才能でない。今回の決勝戦を上昇のきっかけにしてもらいたい。まごまごしていると、渡辺世代に抜かれてしまう。
田村五段もまた特異な存在だ。その早指しには独特の迫力がある。あるときは対戦した羽生竜王名人が「ノータイムで負かされそうで、怖くなりました」と言ったくらいだ。才能があるのは間違いないが、それが開花しないでいる。
というわけで、大きな一番でどちらが才能を見せてくれるかが興味深い。
午後3時ごろだったか、控え室のモニターテレビを見ると、田村五段が▲3五歩と銀頭に歩を打ち、△同銀と取ったところだった。それが10図で、手がありそうだな、などと考えていると、田村五段が入って来て、櫛田君と雑談をはじめた。そしてテレビ画面に眼を遣り、自分の手番と知ると、対局室へ戻って行った。余裕たっぷりなのも道理で、このとき必勝の手順を組み立ててあったのである。
10図以下の指し手
▲2二歩△同金▲1七角△3四歩▲3六歩△1五歩▲3五歩△1六歩▲2六角(11図)7分の考慮は田村五段にしてが考えた方だ。▲2二歩から▲1七角が必殺の手順。見たところ銀が助からない。とりあえず△3四歩だが、▲3六歩で状況は変わらない。
行方六段は銀損の代償を△1五歩に求めたが、この程度では勘定にならない。どこかでやり損なっていたのである。
11図以下の指し手
△1七銀▲同桂△同歩成▲同香△同香成▲同角△2五香▲2六歩△1六歩▲1八飛△1七歩成▲同飛△1四歩▲7五銀△8五馬▲3四歩△2六香(12図)局後、行方六段は「あんまりひどいので、もっとひどくなれ、とやった。でも△1七銀なんてやってはいけませんね」と自嘲したが、花村九段みたいだ。悪くなったらさらに悪い手を指して、相手を迷わせるのが花村流だ。理屈というか気持ちはわかっても、誰も実行できない。
ただ、はちゃめちゃ流は、すぐ効果があらわれた。田村五段が、▲1七同香と手拍子で取ってしまったからだ。香交換から△2五香と打たれ、さらに△1六歩となって角が死んだ。だいぶもつれ、12図の△2六香で、△6三馬と馬を使えば結構いい勝負になっていたのではないか。
戻って▲1七同香では▲2九飛と逃げ、△1八と▲2七飛なら問題はなかった。田村君が局後頭をかかえた場面である。自らの軽薄を戒めたわけ。
12図以下の指し手
▲1四飛△1三金▲1五飛△2五桂▲2二歩△2七香成▲6八玉△1四歩▲1六飛△3七桂成▲2一歩成△2五角▲4五桂(13図)▲2二歩は田村好みの指し方。味のよい手で誰でもこう指したくなる。
この後、▲6八玉と早逃げして万全を期し、以下の▲2一歩成から▲4五桂で決めた。7五の銀も働きそうで申し分ない寄せ形だ。
13図以下の指し手
△1六角▲6四銀△3四角▲5三銀成△3二玉▲2二銀
まで、田村五段の勝ちくわしい変化は省いたが、行方六段が粘る気なら、手がないわけではなかった。
しかし天才肌の行方君は、出来の悪い将棋なので、粘っても無駄、とあきらめていた気配もあった。新人王が決まるのならともかく、まだ第1局である。勝負はこれから、の思いもあっただろう。感想戦を終えて控え室に顔を出したときもさばさばしたものだった。
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田村康介五段(当時)が応手を誤ったとはいえ、11図から先手の角を殺してしまう手順が非常に見事に思える。
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この期の新人王戦は、田村五段が2勝1敗で優勝する。
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「悪くなったらさらに悪い手を指して、相手を迷わせる」という花村元司九段の花村流極意。
「不利な時には戦線を拡大せよ」の格言とともに、現実の世界では参考にしてはならないけれども、一局の将棋の中では有効な戦術だ。
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不利な時に戦線を拡大すると、日本陸軍のインパール作戦を筆頭に、非常に良くない状況となる。
悪くなってさらに悪いことをしたら、もっと酷い目にあう。
現実の世界では、誤った判断によって被るリスクは青天井だが、一局の将棋の中での最大のリスクは負けること。
ボロボロに負けても、僅差で負けても、その一局に負けることで済む。
もちろん、タイトル戦のカド番、昇降級がかかった一戦など、敗局による損失が大きい場合もあるが、こと一局の将棋での中では、大差をつけられて負けたとしても、ペナルティが加算されるわけではない。
そういった意味で、「悪くなったらさらに悪い手を指して、相手を迷わせる」や「不利な時には戦線を拡大せよ」は、リスクが青天井ではない一局の将棋の中では、大いにとり得る手段であるということが分かる。