郷田真隆九段「その場で思いついた手。今まで誰も指さなかったのが不思議なくらいです」

将棋世界2004年11月号、アサヒスーパードライの広告「新手が生まれる時 郷田真隆九段」より。

対振り飛車急戦に新たな光

 棒銀、山田定跡、鷺宮定跡……。振り飛車に対する急戦は一つのロマンだ。急戦でうまく振り飛車を破った時には、居飛車穴熊や左美濃で勝つのとは違う爽快感がある。

「自分が将棋を覚えたのは対振り飛車急戦の全盛時代。自分も奨励会の頃から急戦にこだわってきた」と郷田。

 そのこだわりの延長線上に対鈴木戦の▲9五歩もある。従来、居飛車の攻めが無理とされていた局面で、ポンと端歩を突く。

2000年4月10日。当時の郷田真隆八段(先手)と鈴木大介六段の対戦。▲9五歩以下は△5五歩▲9四歩△3三銀▲5五角△2一飛▲3三角成と進み、153手で先手勝ち。

 △9五同歩なら▲同香△同香▲4三歩△5二飛▲4四角の狙い。たったこれだけのことで急戦の可能性は大きく広がり、同種の攻め手順が続々と現れることになった。

「その場で思いついた手。今まで誰も指さなかったのが不思議なくらいです」と言う郷田だが、同時に「急戦に挑む以上、自分で新定跡を作りたいという気持ちは常に持っている」とも言う。

 自らの世界を広げるために、急戦のリスクに挑み続ける。▲9五歩は妥協なきチャレンジ精神が生んだ新手である。

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郷田真隆九段は3歳の時にお父様の克己さん(アマ三段)から教えられて、将棋を指し始めるようになった。

克己さんは、升田幸三と長嶋茂雄に心酔していた。

すべては推測だが、升田ファンの克己さんは振り飛車党だった可能性が高く、郷田少年はお父様の振り飛車に対抗するために居飛車急戦をどんどん指すようになったとも考えられる。

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「自分が将棋を覚えたのは対振り飛車急戦の全盛時代。自分も奨励会の頃から急戦にこだわってきた」

郷田九段が将棋を覚えた1974年は、大山・中原時代の終盤で、対振り飛車戦で左美濃が出始めた頃。振り飛車に対しては急戦全盛の時代だった。

▲3三桂~▲9五歩の郷田新手。

まさにリスクを背負いながらも果敢に踏み込んでいく、郷田九段らしい手順だ。

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郷田九段とお父様→郷田真隆王位(当時)「筋が悪くなるから、嫌だ」