「こんな問題に10秒も20秒もかかっているようじゃダメだ。見た瞬間に、詰ませなければ」

将棋ジャーナル1983年10月号、才谷梅太郎さんの「棋界遊歩道」より。

 升田元名人が陽性な印象を一般に与えるのに対し、同じ元名人でも塚田正夫先生の場合は、やや暗い感じがしないでもなかった。

 しかし実際には塚田先生も、優しく明るい素朴な人柄であった、と思うのである。

 塚田先生がA級順位戦の選手として、元気に対局していたころの話だが、こんな事があった。

 その日、私は千駄ヶ谷の将棋連盟(まだ木造だった旧将棋会館)の2階の一室で、ほろ酔いかげんながら四寸盤を引き出して、棋譜を並べていた。

 時刻は夜中の1時過ぎころ、と記憶している。年の瀬で冷え込みが厳しく、ストーブなしではいられなかった。

 まだ棋譜を並べだして間もないころ、狭い八畳敷の部屋のフスマが、スッと開いた。

 塚田先生であった。この日、先生は順位戦の対局があり、強敵を倒してご機嫌の様子だった。たしか数時間前に、何人かで連盟を出ていったはずだったが、してみるとどこかで戦勝の祝杯をあげていたに違いない。

 そういえば、顔色もだいぶ赤みがさしていた。

 いずれにしても、私はどう応対してよいのかわからず狼狽してしまった。なんといっても元名人であり、あらゆる意味で超大先輩なのである。むろんこれまで、面と向かって口をきいた事もない。

 私の狼狽ぶりが、あまりに甚だしかったのを目に止めてか、塚田先生は優しく声を掛けてくれた。

「キミは、なんという名前だね。僕は塚田というものだけど」

 これには私もおどろいた。ふだん粗雑な言動ばかりしている自分にとっては、これほど心に沁みわたる言葉を聞いたのは、初めてだった。

 おどろくと同時に、このヒトコトで塚田先生に対する心の接点みたいなものを感じたのである。

 この後、狭い部屋の中で30分ほど、塚田先生の話の御相手をした。その内容がよく思い出せないのは残念だが、話なかばのころ塚田先生が、

「僕の詰将棋を出題するから、キミ解いてみろ」

 と、言われて駒を並べ始めたのである。

 私はもう夢中だった。塚田先生と小さな部屋の中に、二人きりでいるのが嬉しくてしかたなかった。

 先生が問題を盤上に示されて、私がそれに向かい、2、3秒すぎた時である。突然、先生がこう言ったのだ。

「もう、解けたかい?」

 私はビックリした。もともと詰将棋は、解くのも作るのも得意なほうでなかったし、最初はからかわれたのかと思った。

 しかし塚田先生はいたって真面目な顔をしている。その問題は15手前後の筋もので、それほど難しい問題でもなく、私にも1分ほどで解く事ができた。

 しかし先生は不満そうな顔をしながら、こう言った。

「こんな問題に10秒も20秒もかかっているようじゃダメだ。見た瞬間に、詰ませなければ」

 そのあとも塚田先生は、同レベルの問題を次々と示された。私はそのたびに、冷や汗を流しながら必死に問題と取り組んだ。

 一題だけでも見た瞬間に詰ませて、塚田先生に誉めてもらいたいというのが私の本心であった。

 しかしその思いは、ついに叶わなかった。今こうやって考えてみると、たとえ一瞬で解けた問題があったとしても、先生は『それが当然』という顔つきで、ただヒトコト「ウン」と頷き、静かに次の問題を並べ始めたであろう。

 およそ10題も解いたころだろうか、先生はややふらつく感じで腰を上げ、

「僕は先に寝るから、キミもここで休みなさい」と言うや、上着だけ取ると何も掛けずに、ストーブの傍で横になってしまった。

 やがて先生は、かすかなイビキを立て始めたが、私はとても直ぐには眠る気分になれなかった。

 何故か数分の間、ポケーッと塚田先生の寝入った姿を見つめていた。

 理由は自分でも、よく解らない。

 しばらくして我に返ると、ともかく別室から掛け布団らしきものを引きずり出して、先生に被せていた。

 そして、先生からストーブを少し離すと、明かりを消して部屋を出たのである。何故、部屋を出たのか、今でも理由は解らない。

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才谷梅太郎は、将棋ジャーナル編集部員だった元奨励会員の中野雅文さんのペンネーム。

今頃の季節の寒い日の夜。印象的で趣のある光景だ。

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塚田正夫名誉十段の詰将棋は実戦形で鮮やかな手順、解きたくなるような形であるのが特徴だった。

例えば、昔の中野の寿司店に飾られていたと伝えられる塚田名誉十段の詰将棋。

考えてみたくなるような形だが19手詰。

1分で解いても凄いのに、「こんな問題に10秒も20秒もかかっているようじゃダメだ。見た瞬間に、詰ませなければ」。

プロの世界は超人的であると痛感させられる。

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杜の都 加部道場の加部康晴さんが、自身が奨励会員時代だった時の塚田名誉十段の思い出話を書かれている。

加部さんが師匠の荒巻三之八段(当時)に連れられて蕎麦屋へ行くと塚田正夫九段が一人で酒を飲んでいた。

塚田九段と荒巻八段は兄弟弟子。

ほろ酔い加減で機嫌の良い塚田九段は、加部さんに

「ここは蕎麦屋だから、かけでも、もりでも、好きなもの食べなさい」

と言う。

かけでも、もりでも、と言われて他のものが頼みづらくなった加部さんは「じゃー、もりそばで」と頼む。

ここから先の結末は、杜の都 加部道場のサイトでご覧ください。(現在時点で上から2番目の投稿)

塚田正夫元名人の事(杜の都 加部道場BBS)

 

 

 

升田幸三実力制第四代名人「大山君や自分は修行によって落ち着いた状態を得ているけれども、将棋以外でも落ち着いているわけじゃない」

将棋世界1985年1月号、加藤一二三王位(当時)解説の「私の戦った巨匠たち」より。

 加藤王位がまず選んだ将棋は、弱冠20歳で大山名人に挑戦した第19期名人戦の第1局。オールドファンなら「ああ、あの将棋か」と手を打つ対戦である。

 この昭和35年、A級順位戦を6勝2敗で乗り切り、加藤青年は颯爽と名人戦に登場した。

 加藤八段は当時早稲田大学在学中でしかもその年の1月に紀代夫人と結婚したばかり。学生服姿で大学に通い、家では和服でくつろぐ。対局をすればA級八段。この天才に対するマスコミの取り上げ方がすごかったのは当然の事である。

加藤「私がA級八段になった頃ね、朝日新聞で一面全部使って”加藤・二上時代が来たるか”っていう大特集を組んでくれましてね。へーっ、俺はこんなにすごいのか、なんて感心したことがありました(笑)。名人に挑戦した時のことを思い出してみますと、その前年には王将戦の挑戦者決定戦まで進んだり、サンケイ新聞の早指し王位戦(棋聖戦の前身)で灘蓮照八段に挑戦して、タイトルを取ったりしてましてね、自分としては非常に昇り坂のところでこの名人戦に臨むことができたわけですよ。だから、大山名人に挑むといっても、特に名人を意識するとか、作戦を立てるとか、そういったことはありませんでした。私としては、こういったチャンスはこれからも何度でも来るだろうと思ってましたからね。是が非でも勝ちたいって気はもってなかったですね。でも、今になって思えば、大山さんの方は、この若僧には絶対負けられないっていう気持ちがあったと思うんですよ。この名人戦は、1勝のあと4連敗で結局私が敗れたんですが、大山さんには技術的にも劣っていたと思うし、それに精神的な面でも劣っていたんじゃないかと反省してます」

(中略)

加藤「一昨年、私が名人になって防衛戦に迎えたのが20歳の谷川八段。不思議なもので、私が25年前に大山名人に挑戦した時とよく似た状況になったんですよね。私も、谷川八段と戦いながら昔のことを思い出したりしていました。ただ、昔の私とその時の谷川さんとでは気持ちの上で、かなり違っていたようですね。谷川さんの方が”勝つんだ”という気迫の面で昔の私よりずっと勝っていたと思います。もちろん、防衛戦の時は私も是が非でも勝つという気持ちになっていましたけどね」

 注目の第1局は始まった。加藤八段の初手▲7六歩に大山名人は5分で△8五歩。振り飛車の名人として長く君臨した大山名人だが、当時はまだ”矢倉を得意とする名人”であった。

 ところで、最近のタイトル戦でも相矢倉戦が続くと「矢倉は面白くないから振り飛車が見たい」というファンの声をよく聞くが、この当時の加藤八段にも「若いのだから矢倉などというジジくさいのはやめて、もっと新傾向の将棋を指せ」という手紙がきて困ったそうである。どうも矢倉は序盤が渋く、大衆受けしないのは今も昔も同じらしい。

加藤「しかし同じ矢倉でも、内容的にはずいぶん変わっていますよ。特に変わったのは端攻めに対する感覚。今の矢倉は端攻めを抜きにしてがありえませんが、当時は中央の戦いがほとんどすべてですからね。ただし、本局の大山名人の△3三銀から△4四銀左というのは当時としても珍しい手で意外でした。意外でしたが、内心はありがたいナって気もしたんですよ。大山名人は△4四銀左の一手を”千日手を避けた”という風におっしゃってたのを記憶しています。当時の矢倉はじっくり組み上がると千日手になることがよくあったんですね」

初手からの指し手
▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△4二銀▲2六歩△6二銀▲4八銀△3二金▲7八金△4一玉▲5六歩△5四歩▲6九玉△5二金▲3六歩△7四歩▲5八金△5三銀右▲2五歩△3三銀▲7九角△4四銀左 (1図)

(中略)

 大山名人の△4四銀左は盤上に大きな波紋を投じることになった。

 この手について、当時升田幸三九段が面白い感想を述べているので紹介しよう。

升田「大山君と加藤君は共通したものがある。実に共通しています。まあ相撲取りでいうならば、出羽錦と琴ヶ浜が尻を引いて構えたようなもので、二人が四ツに組んだら出ることができない。そういうところは大山君は年長者だし経験豊富だから、よく知っているんじゃないかと思う。若手は立ち上がりに何かちょっとミツを欲しがる。そこで開いてパッと叩いていこうとするように4四銀左と上がった。ところが、加藤君は大鵬よりもワザは上だし、精神もまさっております。将棋指しで大学まで行こうというんだから(笑)。相手の動作を見、あわててミツを取りに行かなかった。兄貴分の出羽錦は困ったわけだ。……大山君や自分は修行によって落ち着いた状態を得ているけれども、将棋以外でも落ち着いているわけじゃない。だけれども加藤君というのは将棋以外のことをやっても落ち着いておる。これはあとからのものじゃない。先天的なものなんです。……まあこれは私の推測ですが、とにかく大山君の性格として4四銀左などと出る性格じゃない。絶対出ません。私は数多く指しているが、そういうことをしない人です。それが出るには、出合い頭にミツを欲しがってくる奴を叩こうとしたんじゃないか。あと若い者を相手に水が入るようなことじゃいけないからというので4四銀左としたということもいえる」

(以下略)

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1960年の名人戦、大山康晴名人37歳、加藤一二三八段20歳。

大山名人は、第1局で敗れたものの、その後は4連勝して、名人位を防衛した。

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「矢倉は面白くないから振り飛車が見たい」

「若いのだから矢倉などというジジくさいのはやめて、もっと新傾向の将棋を指せ」

矢倉は昔から、アマ強豪を除くアマチュアには人気がなかった戦法だ。

居飛車対振り飛車の対抗形のような捌き合いにならず、わずかなポイントを積み重ねていくような将棋が多い、一手一手の意味がわかりづらい、などの理由があるのだろう。

現代では、ネット中継などのリアルタイムでの懇切な解説があるので、昔に比べ矢倉に対する抵抗感は減っているように思われる。

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升田幸三九段の△4四銀左の感想。

はじめ、私は「ミツ」を蜜だと思ってしまったが、これは相撲「褌(みつ)」つまり廻しのこと。

時代が時代なので、私も知らない力士の名前が出てくる。

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私が相撲に夢中だったのは幼稚園から小学校低学年までで、柏戸、豊山のファンだった。

大鵬、栃ノ海、佐田の山、若秩父、明武谷などがいた時代。

野球も幼稚園から高校生時代までは大の巨人ファンだったが、長島選手引退を機に、徐々に興味は薄れていったと思う。

今でも私の頭の中は、巨人といえば、柴田、黒江、王、長島、森、国松、広岡、末次、土井、金田、堀内、城之内、宮田で、阪神のピッチャーは村山とバッキーで、大洋は近藤和彦という時代のままだ。

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自分の中の趣味としては、将棋よりも相撲と野球が先輩格であるが、昭和の頃から相撲や野球は全く見なくなっている。

なぜ将棋だけが続いているかというと、自分で指すからだと思う。

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相撲界では、横綱・日馬富士が引退の意向を固めたという。

日馬富士 引退の意向固める(NHK)

相撲界の伝統的な流儀は、それはそれで悪くないことは続いていてほしいとは思うが、貴乃花親方がなぜあそこまで叩かれなければいけなかったのかが理解できない。

 

 

 

羽生善治王座(当時)「皆さんご協力お願いします(笑)」

将棋世界2004年8月号、「第22回朝日オープン将棋選手権就位式」より、羽生善治朝日オープン選手権者のスピーチ。

「プロになって19年目。後輩もたくさんできて研究も進み、今までの考え方だけではこれからは大変だと考えています。不調ではないかということを私もずいぶん聞かれているんですけど、あんまり聞かれると本当に不調になりそうなので、この辺で終止符を打ちたいと思っております。皆さんご協力お願いします(笑)」

 

将棋世界の同じページに掲載されている就位式の写真

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この時は羽生善治一冠(王座)の頃。

前年度から、竜王、王将を、そしてこの就位式の1週間前には名人位を失冠している。

そのような時期のスピーチ。

ユーモア溢れる名スピーチだと思う。

「この辺で終止符を打ちたいと思っております」の言葉通り、この年度、羽生王座は、王位、王将、棋王を奪還する。

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しかし、よくよく考えてみると、羽生棋聖に今も昔も、「不調なんじゃないですか」「調子悪そうですね」などと声をかけられる人が果たしているのだろうか。

ほぼ絶対と言っていいほど、誰もいないのではないかと思う。

いたとしても、インタビューをする記者ぐらいだろうか。

 

 

 

板谷進八段(当時)「プロはな~あ…やり手ババアみたいな手を指すから、勝つの大変だろ」

将棋世界2004年6月号、写真家の弦巻勝さんの「あの日、あの時、あの棋士と」より。

  最近、わが家に送られてきた本を見て考えてしまいました。「米長邦雄の本」将棋連盟編、「将棋、ヨーロッパを行く」田邊忠幸著、いずれも僕が表紙の写真を撮影しています。

 米長さんの此の顔写真もずいぶん前に撮影した記憶、ヨーロッパを行くの方は田邊さん、将棋世界の編集長大崎さん、そして、まだ20歳になったばかりの高橋和ちゃんと僕、将棋の旅の話なんです。

 和ちゃんの写真は田邊さんに電話して聞いたら8年前と言う。でいろいろ話をしているうちに、ふと思ったのが芹沢先生と板谷先生の事。

「田邊さん…芹沢さんとさ、板谷さんは、いくつで亡くなったんだっけ…」

 芹沢さんが51歳で板谷さんにいたっては47歳と言う。あれ、今の僕よりだいぶ若かったんだな~あ、僕はなんだか変な気分になってきて、「忠幸さん…早く和ちゃんの本の出版記念で集まろうよ…大崎、和、ヒジトン、は大丈夫だが俺とあんさん危ないで~え」会える時にさ、会っておこうよ。

 僕はプロ棋士の先生に将棋を教えていただく時は二枚落ちと決めている。板谷先生には100局やそこらでは、きかないほど指してもらった。

「弦巻君…プロはな~あ…やり手ババアみたいな手を指すから、勝つの大変だろ」

「なんだぁ、そんな手しか浮かばんのか…知恵が無いと言うのは気の毒な事だねぇ~…人間、外から見たんじゃあ、頭の中まで解らんからな~あ」

「なんだそれ、紅葉のような可愛い手指すねぇ」

「センセ、もう将棋ヤダ、風呂行こうよ」

 芹沢先生とは口喧嘩もしたけれど、ずいぶん酒席に誘われたです。酒席で、

「君…タコの足は何本だか知っているかい…」

「8本くらいですかねえ…」

「あれは君…足だか手だか解らんだろう…」

「…」

「そういう時はな~あ、タコの頭を、思いっきりひっぱたくんだ」

「で、痛て~えって上げたほうが手なんだ、足上げる奴は居ね~えだろ」

 あのころ大先輩と思っていた先生方より歳が多くなっている自分を感じました。

 本日NHKで小学生名人戦の撮影なんです。そういえば、この小学生名人戦に羽生さんと森内さんが決勝に出てきて撮影したのが、ついこの前だったんじゃあないかな~あ…写真って歳取らないからホント不思議。

板谷進八段(当時)。同じページに掲載されている弦巻さん撮影の写真のうちの一枚の一部。

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アマチュアへの懇切丁寧かつ親切な指導で定評のあった板谷進八段(当時)の、弦巻勝さんへのサディスティックな指導。

このギャップが楽しい。

写真の板谷進八段の優しい笑顔。

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「紅葉のような可愛い手指すねぇ」は、私の記憶が確かなら、升田幸三実力制第四代名人の「紅葉のような手で可愛い手を指しよる」が原典になっていると思う。

どちらにしても、子供のような手、ということを意味している。

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タコの腕は6本、脚が2本であると、2008年に欧州の研究チームが発表しているようだ。

タコの「足」のうち6本は腕、2本が脚=研究(ロイター)

芹沢博文九段の、「タコには手もある」という発想は、計測方法は別としても、当時としては非常に先進的だったことになる。

 

 

 

せっかちな大山康晴十五世名人(後編)

昨日からの続き。

将棋世界1986年6月号、毎日新聞の加古明光記者の「中原・大山を追う 名人戦24時間レポート」より。

4月11日

8:00 ホテル2階のレストランで相次いで朝食、「また雨ですねえ」

8:52 この日もほぼ同時に入室、一日目を並び終えてから記録係に「読みなさいよ」(大山)。

9:10 封じ手をテレビで見て「7四歩しかないですよ」と石田八段。「だが、ここらあたりのわかれでは、どうも中原名人がポイントを上げているような気がしますね」中原が7八飛と回ったのを見て、石田「こりゃ、すごい手がありますよ」とオクターブを上げる。

9:40 石田の指摘した7四歩が中原に生まれる。「そうでしょう、行ったでしょ」と石田、興奮気味。「スパッと飛を切って同金に7五歩。素人の将棋ならこれで終わっちゃいますね」

 石田の読み筋通りに進展。大山の6五歩に「うまい切り返しだなア」

9:43 中原の鬼手、5五銀。「やはり、対局者はよく読んでいるよ」

10:20 両者無言。盤側に第2局(24、25)のスケジュールを話しかける。「帰りは名古屋へ出て、板谷さんの会(板谷一門五十段達成パーティー)に出なきゃならんからな」(大山)。中原「あ、出られるんですか、私も出ることにしてます」

10:45 中原「私の昼食は昨日と同じうなぎでいいです、ただ、ホテルの部屋へ持って来てください」

 大山「みんなは?うどん?じゃ私もそれでいいです」

12:00 ホテルの大盤解説1回目がすみ、集まった50人を2回に分けて観戦させる。今回の名人戦・大盤解説は原則として有料制。

 観戦中に、大山、長考のあと4九飛と指す。「大山さんらしいサービスだな」と控え室。続く3二飛に中原の表情が変わる。この手を予想していなかったらしい。「一瞬動揺があったようです」(堀川二段)

12:35 昼食。毎年のように名人戦第1局には、地裁から毎日新聞に派遣される裁判官研修の判事が2人。今年はこの日から東京地裁と神戸地裁の2人が派遣され、大山と食事同席。

 食事をとりながら大山「判事も検事も一般の人には同じように思えるもんな」。判事「そうですね。裁判所へ入ったことのある国民は人口の1パーセント程度といいますから」。

14:00 雨に風が加わり、しかも猛烈な勢いになって来た。ヒューヒューと対局室まで聞こえ、大山、手を休めて窓外の揺れ動く木々を見つめる。

14:38 必殺の一手ともいえる中原の3一飛が出た。

 控え室の加藤、石田「どう見ても、大山さんに分がないな。終局は意外に早いよ。夕食まで持たないだろう」

 大山、首を傾げて苦しそう。

15:05 2回目の大盤解説はじまる。講釈師風の石田の名調子に、解説場、爆笑のうず。この頃、聴衆、100人を超す。風、ますます強くなる。

15:40 中原、音をたてずにホットミルクを飲み干し「フー」と軽いためいき。悪くはないという表情が顔に出ている。

 大山、うつ向き加減。盤上、妙策が見当たらない。「夕食前の終了、決定だな」と控え室。丸田祐三、広津久雄両九段の姿もある。

16:00 二人の表情は変わらず、優劣そのままの顔。指し手が早くなる。

16:03 中原の111手目、7二金を見て、すぐ、大山「負けですね」と投了。

 直後の大山の感想「歩切れになるから受かると思っていたんだが、意外にうまい受けがないのに驚いた」。

 中原「7八飛と飛回りを見せたのは構想だが、攻めないと歩切れが響いてくるんで行くしかなかった」。

17:00 風雨が弱まり、薄日すらさし込んで来た。薄日を受け、シルエット風の対局者を見ての検討風景が続く。特にこれという疑問手が大山には見当たらないが、ペースはずっと中原のもの。つまり、中原が右金を6九に置いたまま戦端を開き、7八飛と回る構想が実現しては、中原の指し易い局面だった。

17:15 検討終了。対局室から両者出る。大山「食事、何時から」。6時と聞いて「それまでやることがないじゃないの。一局やろうか」とまた催促。「ちょっと送稿がありますので」という当方に「まだ、時間があるから帰ろうか」。

「夕食まで、私入ってやりますよ。夕食のあとは誰か代わってくださいよ」(中原)。

 どうにか面子を確保して一卓成立。誰いうともなく「やれやれ」。

18:05 一卓囲めば、不満は解消。くつろいだ表情で両者、打ち上げを兼ねた夕食。夕食途中で「色紙書くなら娯楽室へ置いておいて」と大山。中原は「私の部屋に置いて下さい」

19:00 「じゃ先に(色紙を)書いちゃうから」と大山退席。30分後に娯楽室に行ったら、ちゃんと10枚の色紙が書き終えられていた。

 さっそく雀卓を囲み、ポンとロンの会。

23:25 マージャンは他人にまかせて大山、退席、中原はその前に姿を消していた。

4月12日

8:10 一行よりひと足先に「帰りますから」と大山、単独でホテルを出る。

9:30 中原、自室で色紙に署名「10枚の他に別口で頼まれたものがありますので」とせっせと筆を走らす。

10:15 関係者、ホテル・ロビー集合。中原「もう少し書くものがありますから、私は一列車あとにします。先に行ってください」

10:30 ホテル・フロントから「大山名人の部屋に小物入れの忘れ物がありました」

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板谷一門五十段達成パーティーとは、板谷一門のプロ棋士の段位合計が五十段になったことをお祝いするパーティー。

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「2回目の大盤解説はじまる。講釈師風の石田の名調子に、解説場、爆笑のうず」の様子は、以前の記事で紹介している。

石田節の絶妙大盤解説

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この頃は、飲み物の選択肢にホットミルクが入っていたことがわかる。

脳に良さそうな感じもするし眠くなりそうな感じもするし、対局中の飲み物としてはどうなのだろう。

それはそれとして、対局時に冷たい牛乳をゴクゴクと飲む棋士がいても面白いと思う。

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17:15、感想戦を終えて対局室から出たところで、

大山「食事、何時から」
加古記者「6時からです」
大山「それまでやることがないじゃないの。一局やろうか」
加古記者「ちょっと送稿がありますので」
大山「まだ、時間があるから帰ろうか」
加古記者「…………」
中原「夕食まで、私入ってやりますよ。夕食のあとは誰か代わってくださいよ」

「まだ、時間があるから帰ろうか」は、「6時まで何もやることがないのなら、もう東京に帰ろうかな」の意味だろう。

45分も待てない大山康晴十五世名人がすごい。

そこで助け舟を出した中原誠十六世名人。

大山十五世名人とは数え切れないほどタイトル戦で戦っているので、大山十五世名人のせっかちさは心得ている。

まるで、わがままな親戚の叔父さんに対するような手慣れた応対。

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「大山名人の部屋に小物入れの忘れ物がありました」

将棋の強い人、あるいは強くなる人ほど忘れ物が多いという説もある。

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盤上とは正反対にせっかちな大山十五世名人であるが、東京では将棋連盟会長としての仕事と対局で麻雀をやる暇などなく、麻雀を心置きなくできるのはタイトル戦の時か地方へ出張した時くらい。

そう考えると、僅かの時間をも惜しんで麻雀をやろうとする気持ちも、理解できなくもない。