将棋マガジン1984年4月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。
将棋関係の記事に、バカな理事とか、クソったれ奴とか、くだらん理事どもめが、といった過激な活字がおどり、水面下にもさまざまな不満がうずまいて、なにやら物情騒然としてきた。
(中略)
昼休みになると芹沢が来て、「話があるから」という。で、田辺と三人寒空のもとへ出た。
不戦敗のことがあるから案じていたが、先を歩く後ろ姿には、よほど消耗している気配が見てとれる。身体にピッタリ合わせて仕立てられたはずの背広の後衿に大きな横じわがあらわれているが、姿勢がひどく悪いのか、あるいは身体つきが変わってしまったのだろうか。
会館からちょっとはなれたレストランの席につくや「理事が詫び状を書けって云うんだ。こんな無礼な目には初めてあった」とまくしたてる。重くたれさがった目は涙ぐんでいた。
事情は本人が「週刊サンケイ」に書いているから、あらためて記さない。真相はどうなのかも知らない。しかしいずれにせよちょっとした行きちがいである。それだけを見れば、そう肚を立てなくても、と思えるが、根につもりつもった不満があることはたしかだろう。
田辺と二人、「肚を立てたってしょうがないよ、寿命を縮めるだけ損だよ」となだめたが、それにしても摂生、養生を知らぬ男だと思ったことだった。
(以下略)
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昨日の記事の後日談。
芹沢博文八段(当時)の不戦敗は、理事会との感情的なもつれが直接的な原因であったことがわかる。
当時の週刊サンケイの記事は探しようもないが、大山康晴会長時代の理事会の運営や方針に対して強く批判するようなことを芹沢八段がそれまでの活字媒体に書いていたのだろう。
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芹沢八段はこの年の名人戦の観戦記を将棋世界1984年6月号に書いている。
上記の出来事の1~2ヵ月後のこと。
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ところが……
将棋マガジン1984年7月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。
では棋士の側からものを書くとどうなるか、という例が将棋世界誌の「いずれにしても名人は神戸」と題する芹沢の観戦記である。
ずばずばと云いたいことをぶちまけた、将棋に関する文章としては破格のものであるが、これも最初の部分では、肝心の、だれが、なにをしたか、の部分が校正で削られたために、いったいなにを、どうして怒っているのか判りにくい。それに芹沢自身も口ごもっているところがあって、将棋は判らぬと言った後、
「その将棋を、外者の物書きが判ったと書く。どうして判ったのだろう。その人達は本業の文筆のことも総て判ったのだろうか」
と書いているが、これはうっかりすると大変な誤解を招きそうである。外者の物書きを全部斬ったごとくに読みとれるが、真意はそうでなく、ごく少数の人を批判したにすぎない。そもそも執筆の動機がそこにあったのだから、はっきり書けばよかったのに。まあ、芹沢ほどの人でも、はっきり書けぬ部分がある。それが将棋界というものである。
(以下略)
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細かいことはわからない。
個人的には、はっきり書けず結果的に誤解を生むようなことは、はじめから書くべきではないと思う。
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将棋世界1985年1月号の「放筆御免」の第1回目で芹沢九段は次のように書いている。
将棋について思ったことを書けと言う、随分と思い切ったことを言う編集部である。
筆者は長い間。本誌から依頼がなかった。久し振りに名人戦第1局を書いたら、出だし”手”を入れられ、意が取り難い文になり、そして編集長が変わった。我が一文だけで編集長が変わったとも思わぬが、引き金にはなったようである。何が”権力者”を怒らしたか、お気に召さぬか、我が方に通告がないので定かではないが、喜んでの動きではなかったようである。
将棋界の”力関係”は幾らかは知っているが、本稿は編集長更迭について述べるものではない。しかし、再度そのことの起きる可能性があるので、我が身を守ることでなく、元原稿は手元に置くことにした。
(以下略)
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本当のことはわからないが、もはや「覆水盆に返らず」状態に突入している。
良い意味でも悪い意味でも、芹沢九段は生き急いでいたような感じがする。