将棋世界2003年8月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
6月13日、年に一度の食事会、主宰は精神神経科医の春原千秋博士。
春原先生には昔から将棋界と棋士が随分お世話になっている。
私も頚椎に変調をきたして病院を紹介していただいたりしている。
先生は加藤治郎門となって36年、玄素の違いはあっても私とは同門ということになる。早見え早指しで段位は六段。
そんなご縁で私と小林宏がご招待にあずかっていた。世話になっている方にご馳走になるというのは何だか妙なのだがまあ大先輩に甘えさせていただいている。
その会に数年前から中原さんも参加してくれるようになった。
会場は四谷荒木町にある「万世」という肉の店。表通りで車を降り、横町に入ると石畳のゆるい下り坂が続いている。しっとりとした風情のある味の良い街並だ。少し歩くと昨年までは見かけなかった縁台に目が止まった。
「今週の詰将棋」と書かれた目印の脇に安手の二つ折りの将棋盤が置いてあり詰将棋らしきモノが並べられている。
「おっ珍しいモノがあるぞ」と私。
小林がすぐに「これおかしいですね」
確かに銀を取っての一手詰で、作品とはいえない代物である。
すると中原さんが手を伸ばして即座に銀の位置を一つ変えた。
あら不思議、たちどころに銀を捨て角を捨てての5手詰作品の出来上がり。
誰かが駒を動かして間違えて配置したのだろう。
陰徳を施して一安心、先を急ごうとすると、中原さんが呼び止められている様子。どうやらその店のご主人らしい。
店の前に将棋盤を置き、ひと目で中原誠と見抜くのだからきっと将棋好きなのだろう。その盤にサインをしてくれとオネダリしているようだ。
私達に「先に行ってて」と云われるので春原先生を追って「万世」に到着。
その後すぐ来た中原さんに聞いてみると、盤の表に書いてくれと云われたが、それは書きづらいので裏にしてきたといっていた。そのご主人、青天の霹靂に興奮して盤面に署名をと云ったのだろうがそれは棋士はやりにくいことなのだ。
ちなみにその店はとんかつ屋だそうである。
春原先生の健啖に一同感心しつつ食事会も終わり、帰りがけ件の店の前を通ると、さっきの板盤の代わりにおそらく榧と思われる新しい二寸盤が置かれてあった。
中原さんに「あのご主人、サインしてもらった盤を、額にでも入れて飾っているのかもしれませんよ」と云うと「それなら表に書いても良かったな」と笑っていた。
将棋指しにとってちょっと嬉しく、ちょっといい話だと思った。
(以下略)
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春原千秋さん(1922年-2017年)は精神神経科医で、1992年には「将棋を愛した文豪たち」で将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞している。また将棋ペンクラブの監査役も長年務めていただいた。奨励会入会試験の際の面接官を担当されたこともある
血を見るのが苦手で精神神経科医の道に進んだという。
明るく非常に豪快な方だった。
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荒木町は狭いエリアだが、非常に風情のある街。
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とんかつ店の店主も、後になってから、榧二寸盤にサインをしてもらった方がよかった、と少し思ったことだろう。
しかし、中原誠十六世名人のサインがあるのなら、店主にとっては安手の板盤の方が宝物。
板盤を店の奥へ引っ込めた気持ちはとてもよくわかる。