板谷進八段(当時)「ただ将棋が好きで、将棋に関わるすべてのことが好きで動いている」

将棋マガジン1985年10月号、米長邦雄十段(当時)の「本音を言っちゃうぞ! 最終回 熱血漢 板谷進八段」より。

米長 板谷君は俺と同期生でね。四段は俺より半年早かったんだ。当時は予備クラスといって、前期に板谷君が抜けて後期、俺が抜けて、敗者復活で大内君(延介九段)が抜けて、この3人が同じ年に四段に昇ったんだな。それで翌年は彼氏と大内君が二人で五段に昇ってね、なかなか迫力のある熱血漢、重戦車というかな、将棋も人間も体つきも、よく似ているね。

(中略)

 彼氏はAクラスに10年近くいたんだけれども、このことは彼氏の才能をみるにだね、本人の精進、努力ということだけでなくて、やはり親父さんの力というのが大きい、と俺は見とるんだな。

 将棋の世界というのは個人技で、家柄だとかそういうものが一切通用しない世界なわけだ。伝統がどうとか格式がどうとか。歌舞伎の世界とか、お茶やお華の世界とは違うんだから。とにかく本人が強ければ報われる、弱ければダメ、ということになっていて、だから将棋の強い棋士の子供がそのまま二代続いてまたトッププロになる、そして、そのまた子供が専門家になる、というようなことはなかなか難しいんだな。家元制度、世襲制度でない限り難しい。しかし、それじゃあまるっきり関係がないかというと、実はそうではないんだね。やはり血筋というものがある。それを示してくれたのが板谷進。もう一人、木村義徳氏。

(中略)

 木村義雄といったら、これはもうただ単なる名人ということではないんだな。それまで低かった将棋の社会的評価を一人でぐーんと引き上げた男なんだ。だから、これまで偉い人はもちろんたくさんいたけれども、ここ100年くらいの中で誰が一番偉かったかといったら、それはやはり木村義雄なんだね。

 その親の七光りではないけれども、木村義徳さんにはそういうものがでていると俺は思っておる。血筋だね。

 だから、実力以上の成績を残すことができたんだ(笑)。

 いつか木村義徳さんと話をしたときに、あんたがここまでこれたのは親父さんの力である、と言ったら、義徳さんは「いや、やっぱり俺の力だ」と怒っていたけれどもね(笑)

(中略)

 で、板谷君の親父さんの板谷四郎先生なんだけれども、非常に真面目でね、嘘をついたり人を騙したりということは絶対にできない人。冗談もほとんど言わない。まあ、酒は好きでね、酒というと熱燗に湯豆腐、おしたし、とこういった感じでキャバレーに行くとか、カラオケで歌を唄うとか、そういったことはしないんだな。しかし、いうならば野武士の風格があってね、骨太の大先輩である。まず奨励会時代に奥さんがいて、すでに子供もおったんだな。今じゃそんなのはいないんだろう?まあ、どこかの彼女に子供ができちゃった、というケースはあるかもしれないけど(笑)、そういうことでもない限り、今はもうそんなことはあり得ないんだな。しかし、それは当然ながら無理なんだよな。

 無理というのはね、結婚して子供がいるんだからまあ、中年だわな。子供の頃から将棋ばかり一所懸命に勉強して伸びようというのが普通なわけだから、中年から一人前の棋士になろうというのはなかなかたいへんだったと思う。その努力、信念というのはなみなみならぬものがあったんだろう。

 それは非常に真面目で熱血漢でないとそういうことは長続きはしないものなんだね。で、大先生はそれをやり遂げて、しかも八段の高位に昇られたわけだ。今は九段になられておるけれども、当時は八段が最上段だったわけだから。

 大先生は今、おいくつになられたのかな、71か2か?今でも銀波荘でタイトル戦があると、よく立会人でおいでになられるようだね。

 あるとき、棋聖戦だったか、先生が60歳くらいだったと思うけれども前夜祭でセックスの話になってな、居合わせたのはサンケイ新聞の杉山部長、それから福本担当、永松大阪担当、副立会の先生は誰だったか……、あと芹沢はくぶんというメンバーでね、その席で大先生が非常に真面目な顔をされて「最近、どうも体が弱くなっちゃってね、週のうちに3回くらいになっちゃった」と、こう言われたんだな。60過ぎにしてこの精力!(笑)。そこだけは二代続いた。芹沢はくぶんは「あれっ?そういえば俺、2年ないなあ」と言っておったけれどもね(笑)。

 親子二代にわたっての棋士だけれども、性格がまるっきり違うんだ。ここがおもしろいところでね、木村義徳さんの場合も板谷君の場合も、それぞれに親父さんとはまったく違う性格で、まったく違うもののみかたなんだよ。しかし、あっちの強さだけは似ておる(笑)。

 まあ、そういうふうな男だと、いろいろなことをしたくなるんだけれどもね、彼氏はお金もある程度あるし、それだけの時間もある。とてももてるとは思えないけれども(笑)。しかし、もてる要素はある。ところがそれを奥さん以外には一切向けない。彼氏はまれにみる愛妻家でね、愛妻家!彼氏は浮気をしたことが一度もないんだろう。これは奥さんはとても幸せだと思うね。その点は俺に非常に似ておる(笑)。

(中略)

 板谷君は結婚するときになかなか難航したんだよな、確か。奥さんの家の前に一晩中立っていたという話を聞いたことがある。だいたい我々の世界というのは結婚するといっても、むこうがこっちを知らないんだな。将棋指しというのは何者なんだろう、と。先月号の芹沢はくぶんだって結婚するにあたってはだね「結婚してくれないのなら僕はブラジルへ行きます」と言って、泣いて頼んだんだ、奥さんに。当時、ブラジルに渡るというのが流行っていてね、船で。昭和30年頃の話だけれども、「結婚してくれなかったら船に乗ってブラジルへ行っちゃうぞ、将棋指しをやめちゃうぞ」と言って泣いて頼んで、それじゃあしょうがないというので結婚できたんだ。ならばもっと奥さんを大切にしそうなものなんだけれどもね(笑)。

 板谷君の場合も相手が将棋指しというのがよく分からない。今はそうでもなくなったけれども、当時はよく分からなかったわけだね。だから、将棋指しが結婚してもらうには(笑)、本人の熱意しかない。まあ、男と女の結びつきはいつでもそうなんだろうけれどもね。彼氏は持ち前の熱意でもって、とうとう奥さんを口説き落としたんだな。

(中略)

 板谷君はお父さんと違う性格でね、違う方面でも才能を発揮しておる。彼氏は人との付き合いを非常に大切にしてね、商人になっても相当に成功したろうと思う。そういう点は大山康晴さんによく似ておる。そういえば体つきも似ているね、頭の格好はともかくとして(笑)。

 彼氏は中京にデンと居座って、そこを中心に北陸、あるいは南紀の方面といろいろな地方の普及につとめている。

 将棋大会を開き、将棋まつりなどの催しを開いて人を呼んで将棋をみせたり、将棋を指してもらったり、そういうふうないろいろの企画をたてて将棋が盛んになるように、実際に体を動かして努力している。そういう男だから、彼氏のまわりにはいい後援者が多いんだな。彼氏が何かやるということになると、そういう人達が手弁当で一所懸命やってくれて盛りたててくれるんだね。

 おそらく棋士の中では一、二を争うくらいに後援者に恵まれておるのではなかろうか。

(中略)

 彼氏の偉いところの一つは、内弟子をとるということ。将棋界に入れば誰でも師匠がいるわけだから弟子はいっぱいいるんだけれども、内弟子というのは少ないんだね。また弟子を多くとっても、名前だけの師弟関係であれば、これは別に偉いことでも何でもない。しかし、内弟子をとる、というのはたいへんなことなんだ。飲み食いはみんな面倒をみなくちゃならないから金銭的にもそうだし、奥さんだって料理を一人前、余計につくらなくちゃならないんだしな。

 それが卵焼き一つにしろ味噌汁一杯にしろね、手間がかかるんだ。

 それから、弟子というのはわずらわしいんだよ。

 どうしてかというとね、それは師匠と同程度ではないからわずらわしいんですよ。同程度でないというのは、その弟子が師匠と同じだけの器であって、将来は師匠と同じところまでいくというのはわずらわしくないんだよ、これは。ところが、こいつ、もうやめさせた方がいいかな、というのがいるわけだね、同程度でないのが。どうしてこういうことをやっているのか。こうやれば四段になれるのに、こうすれば八段になれるのに、というところが分かるから歯がゆくなるわけだ。イライラする。そういう男は普段の生活もなまぬるいわけだね、生き方が。

 男同士だから、あんまりああしろこうしろとはガミガミ言わないしね。だから、そういう弟子がそばにいると、師匠が足を引っ張られるということがあるんだよ。板谷君もおそらくそういうことがきっとあったんだろうけどね。

(中略)

 で、何故、内弟子というものをとるのかというと、自分が師匠のところでもってお世話になっちゃったからなんだな。将棋の世界というのは相撲の世界とは違って、弟子を育てたからといってお金が入るわけじゃあないしね。対局料が入ったから師匠に一割差し上げますとか(笑)、そういうことはないんだな。だからなにをどう恩返しするかというと内弟子をとる、ってことになるわけなんだ。内弟子をとって何年間か苦労する。その弟子が一人前になる。師匠から受けた恩を自分の弟子に返して、それで一応、差し引きゼロにしてもらいたい、と、こういうことなんだね。俺も佐瀬先生に丸抱えでもってお世話になった。だから内弟子をとったんだな。

 しかし、板谷君の場合は親子だからねえ、本当の親子だから、普通の内弟子とはまたちょっと違うんだろう。

 彼氏はね、自分の家に何人か若いものをおいてね、あるいは自分の家の近くのアパートに住まわせて飯を食べさせる、部屋代をだしてやる、と、そういうことをずーっとやってきたんだな。それで、弟子が一人前になったからといって別にどうということもない。要するに身銭を切ってそういうことをしてきたわけだ。その第一号がコバケン(小林健二七段)でね、コバケンは今でも実の子供のように可愛がられておるのだろう。だから彼氏はどんなに偉くなっても、板谷進先生だけには頭が上がらんのだね。ただし、コバケンは板谷君よりは上に行くから、その点では確かに弟子に恵まれた、ということは言えるわな(笑)。あそこはまだ弟子がいるんだろ。まあ、だいたい師匠より才能のある弟子ばっかりで、また、才能がなければ弟子にはとらないしね、彼氏より才能のない奨励会員というのは珍しい存在なんだろう(笑)。

 まあ、冗談はともかくとして、金銭的、精神的な損得勘定を度外視し、弟子の育成につとめる。

 こういうところは仲間の中でも、特別に偉いところだね。

(中略)

 人と比較してはおかしいのだけれども、兄弟弟子の石田君(和雄八段)も非常に優秀な男でね、ほとんど同じように昇段していったんだな。で、板谷君の方が先に八段になった。まあ、どっちが先に八段になってもおかしくはない、と思っていたけれども、俺は石田君の方が先じゃないかな、と思っていたんだ、本当は。しかし、板谷君の方が先になった。そして、ずーっとAクラスを保っておった。それは、身銭を切って数多くの弟子をとってつくすということ。アマチュアの人と接して普及、発展につとめるということ。それから、稀にみる愛妻家。熱血漢。そして親父さんの陰徳、血の力だね。そういうものが全部加味されて、統合されて八段になり、A級を保てたのではないかと俺は思うんだ。だから、あの顔でここまでこれたのであろう(笑)。

(中略)

 長くやるつもりであったこの連載も、今月の熱血漢でちょっとお休みさせていただくことになった。

 ご登場願った先生方には失礼のお詫びとお礼を申し添えておきたい。

(以下略)

* * * * *

小林健二七段に聞く

 僕は奨励会に入るとすぐ、東京の連盟の塾生になったんです。そして、関西へ移籍したときに名古屋の先生の家の近くの部屋を借りていただいて、そこで将棋の勉強をするようになったんです。中田さん(章道五段)とかいろいろな人達がいて、たいへん勉強になりましたね。

 朝は8時に先生の家へ行って朝食をごちそうになるんです。それから昼までは部屋に戻って勉強。昼から午後の9時くらいまで板谷道場の手伝いをしたりするのが日課でした。

 ウチの先生はやさしいんですよ。厳しいところもありますけどね。一度、何かのときにものすごく怒られて、真っ青になったことがありましたけど(笑)。

 奨励会へ通うときの新幹線の切符代も出していただいていました。だから、対局はどうしても負けられない、という気持ちが強かったですね。何度か、負けたときには大阪から新幹線の中で立って帰ってきたこともありました(笑)。

 僕が王位戦で挑戦者になれず、記録係をやったことがあるんですけど、その挑戦者決定戦のとき昼食を先生と一緒にしたんです。そのときに「もし負けたら記録係だぞ」って先生に言われましてね、僕は冗談半分かと思っていたんですけど本当になっちゃった(笑)。

 とにかく、板谷先生は人間味にあふれる、素晴らしい師匠です。これだけ弟子を思ってくれている師匠は他にいないんじゃないですか。(談)

* * * * *

板谷進八段のコメント

 ”熱血漢”などといってくれる人もあるようだが、自分ではそのようなことは一切思ったことはない。

 真面目とか不真面目、正義感といったようなものからではなく、ただ将棋が好きで、将棋に関わるすべてのことが好きで動いている。

 一日、24時間、365日、将棋に明け暮れ、将棋の中にいて、いつも将棋のお風呂につかっているような感じだ。

 将棋の場では、プロもアマもなく、大勢の仲間といきあい、日々、新しいことを知ることもできる。

 それほど威張れるようなことをしたわけでもなく、今日も将棋の中にどっぷりとつかっておれることは非常に嬉しいことである。

 将棋界は今、これからの発展に向けて誠に重大な時期にさしかかっていると思う。

 幸いにも病癒えた大山康晴先生もお元気になられ、この会長を先頭に中原名人、米長二冠王、谷川九段と傑出した棋士を擁し、また、内藤九段、芹沢九段のように幅広く将棋界の普及に大きく寄与している棋士もいる。

 そういう人達の後ろにおって、ほんの少しでも明日の将棋界に尽くすことができればよい、と思っている。

 毎日、将棋の神様に感謝しているつもりで動いている。

* * * * *

藤井聡太七段の師匠の杉本昌隆七段の師匠、板谷進九段(1940年-1988年)の話。

いかに中京地区の将棋普及に邁進し、皆から愛され、弟子を愛していたかがわかる。

板谷四郎九段の弟子の石田和雄九段も、現在では多くの弟子を育てている。

板谷四郎九段-板谷進九段の思いを継いだ杉本昌隆七段が、NHK将棋講座2017年12月号の「~師匠から弟子へ~ 一筋な気持ちで前に」で次のように書いている。

 なぜ私が藤井四段の活躍をそんなに嬉しいのか。ここまで読んでいただいた方にはお分かりかもしれない。それは藤井の存在が、私が板谷進にできた最大の恩返しでもあるからだ。

 とはいえ、これは藤井四段の棋士人生の序章にすぎない。彼は板谷一門の誇りだが、それを重荷にさせてはいけない。私の夢、板谷進の夢はあるが、藤井四段の夢はそれと違ってもいい。自分が強くなることを第一に考えて、一筋な気持ちで前に進んでほしい。

* * * * *

この杉本昌隆七段の「~師匠から弟子へ~ 一筋な気持ちで前に」は非常に感動的な心を打つ文章。

引用したのは最後の箇所であるが、「ここまで読んでいただいた方にはお分かりかもしれない」の”ここまで”も、ぜひ読んでいただきたいところ。

 

「勝負師がすぐれた理論を持つのは、かえって弱みになるのではないかと思います」

将棋マガジン1984年10月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 本誌9月号米長邦雄十段の、「本音を言っちゃうぞ!」はおもしろかった。

「彼氏(芹沢)は、勉強とか蓄財ということが人間を大きくさせる、成長させるのではなくて、物をどんどん捨てることによって大きくなると考えたんだな」

 などは、芹沢のではなく米長の論理であるが、そういう考え方もあるのか、と感心させられる。なんというか、将棋だけでなく、人生も目のつけどころがちがうのである。米長は大山から多くの影響を受けているはずで、将棋の考え方、人生の見方など似かよっている点が多いはずだが、その哲学を口に出すときは、全然別なものになっている。

 米長をよく知っている人が言うには、

「勝負師がすぐれた理論を持つのは、かえって弱みになるのではないかと思います。米長さんを見ているとそう感じますね。たとえな「貸し借り論」(人生は貸し方に回らなければならぬ)も立派な考え方ですけれど、言ったことを実践しようとして、ずいぶん窮屈な思いをしていると想像するんですよ」

 なるほど、大山、中原はなにも言わぬ。黙々と将棋をがんばるだけである。対して升田、米長は、かくあらねばならぬ、の理想の旗印をかかげて戦う。それはたしかに不利であろう。すくなくとも、疲れることだけはたしかだ。

 ところで、米長の文を読んで感じたことはもう一つある。それは、なぜおもしろいか、という点である。

 おそらく、おもしろい原因は、米長が芹沢のことをよく知っている、歯に衣着せずに物を言える親しい間柄、という二点にあるだろう。書くべきものを持っていず、棋士に気ばかり遣っている。昨今の記事、観戦記がつまらないのは当然なのである。

(中略)

 おやつに西瓜が出た。みんな大好物とみえて、いっせいに横を向いて食べはじめた。一時休戦といったムードが対局室全体にただよう。

 第二対局室で対局中の芹沢が、大広間の手前の間で指している私のかたわらに来た。米長も来て「なにか書いたそうですね」と芹沢に言った。

「ああ、勝手なこと言わせてもらったよ」

 芹沢が笑いながら答えた。前号のコメントについてだが、それから二言三言冗談を言い合い、米長がニヤリと笑って自分の席に戻っていった。独りになった芹沢は「あの記事はもう直せないのか」

 特別対局室は、午後から大山-大内戦(名将戦)が始まり、早くも大山が勝った。いつものことながら、なんということなしに負かしてしまう。

(以下略)

* * * * *

ここで出ている理論とは、米長哲学に代表される哲学のようなものであり、このような哲学を公言した棋士は、米長邦雄永世棋聖が現在のところ最後だと思う。

* * * * *

「なにか書いたそうですね」

「ああ、勝手なこと言わせてもらったよ」

その後に続く二言三言の冗談の言い合い。

非常に見習いたい大人の対応だ。

とはいえ、芹沢博文九段と米長邦雄十段(当時)の心の奥底は外からはわからない。

* * * * *

「あの記事はもう直せないのか」

普通に読めば、芹沢九段が言い過ぎたと思いそのように言ったと考えられるが、米長十段の書いた記事に対して言っていると解釈することも僅かながらできて、読み方が少し難しい。

* * * * *

「書くべきものを持っていず、棋士に気ばかり遣っている。昨今の記事、観戦記がつまらないのは当然なのである」

河口俊彦六段(当時)のこのような思いが積み重なって、1987年の将棋ペンクラブ設立へと繋がる。

* * * * *

おやつにスイカ。

大部屋で皆がスイカを食べているシーンというと、思い出すのは映画『仁義なき戦い』シリーズ。

夏の時期、組の事務所で組員が食べているのが決まってスイカ。

たしか、『仁義なき戦い 完結篇』で新しく結成された天政会の幹部連(各組の組長クラス)が集まる場でもスイカが配られていたと思う。

組長も組員も食べるスイカ。

怖い顔をした人達が桃やみかんを食べていたのでは映画的に絵にならないが、スイカなら怖い人達が食べていても絵になるということなのだろう。

* * * * *

しかし、時代は昭和20年代になるが、広島ヤクザ抗争の記録を調べると、敵の組員を殺しに行く使命を与えられた組員は、殴り込みに行く直前の組事務所で、みかんや桃などのフルーツの缶詰、またはみつ豆の缶詰を食べさせられたという。

これは、清酒がなかなか手に入らなかったという事情もあったのかもしれないが、殺し→逃亡→逮捕→刑務所のコースで甘い物を食べられなくなるから、という配慮だったとも考察されている。

 

芹沢博文九段からの歯に衣着せぬコメント

昨日の続き。

将棋マガジン1985年9月号、米長邦雄十段(当時)の「本音を言っちゃうぞ! 第13回 芹沢博文九段」より。

 方向転換したのちの彼は何をしたか。彼氏は、あり余る才能を生かしてまず、国技館を借り切って将棋の日というものの催しを思い立ったんだな。それまでの将棋の会というのは、会費をいくらかとって、お寺の本堂を借りて何十人か、何百人くらいの大会、というのが普通だったのだけれども、いっぺん、国技館を満杯にしてみせようと思い立ったわけなんだ。第1回の将棋の日に、NHKの協力を得て蔵前の国技館を満杯にしたのだな。これだけの企画を立て、それを実行できるのは芹沢はくぶんをおいて他にいない。

 それから次に彼氏は、海外に将棋の対局を持っていった。それが棋王戦の第1局で、それまでは海外での将棋対局なんていうのはかつてないことでね、そういう企画をうち立てて実行できることが彼のよさ。

 いままでの棋士はね、どうしても将棋盤から離れられなかった。将棋盤があって、その周りに座布団があって脇息があって、記録係の机がある。将棋指しはいつも盤の前に座っている、あるいはちょっと歩いても畳一枚くらいしか離れられない。そういうふうに将棋というものでこり固まっている人が多いこの集団の中で、将棋というものを全くとっぱらってしまったというわけだね。全然違うところからものをみることができる男。だから彼氏は将棋の日に国技館を借り切ることなんてできたし、ハワイへ将棋を持っていくこともできた。しかし、彼氏は優秀な頭があったけれども、その考えを支援する男に恵まれなかった。そこが彼氏の一番不幸なところだった。

 芹沢博文が最も尊敬する男は、大山康晴さんなんだね。しかしながら大山さんは好き嫌いがある。口には出さなくとも芹沢とはうまが合わないように思う。ここに悲劇がある。

 彼氏はよき師匠に恵まれ、よき弟弟子にも恵まれておるから、彼氏のそういった才能を一門でもってもっとバックアップしてやれば彼氏の存在価値というものはもっと光り輝いておったろうと思うね。

 彼氏が最も信頼している男は誰か。それは中原誠である。しかし、彼氏は同門であるけれども、盤面以外のことに一切ノータッチの主義。それは見事である。

 二番目の男は誰か。あるいは俺かもしれない。私は彼氏自身のものの考え方、行動がよく分かるからできるだけのことはしてやりたいと思うが、いかんせん俺にはそれだけの力がない。まして、自分自身が厳しい闘いの中に置かれている年代だから、彼氏の考え方や行動がよーく分かりながらもそれを応援するゆとりがなかった。それが俺にとっても悔やまれることであるけれどもね。

 もう少し年代が違っていたら、何か状況がちょっとでも違っていたならば、彼氏の打ちたてた企画とかものの考え方がもっともっと支持されて、将棋界にとってかけがいのない人間となっていたろうと思う。

 彼氏は支持する人間と嫌われている人間との差が、あまりにも激しすぎる。まあ、”セリ”というのはアクが強いから仕方がないのであろう。

(中略)

 ということで、彼氏の能力、持ち味、才能といったものも、将棋界ではさして開花することがなかったのだけれども、しからばどうするか。では将棋界とは全然違うところで花を開かせてみようと、彼氏は随筆、ものを書く、テレビに出る、チョメチョメ先生だな。CMに出る、あるいは講演とマスコミに打って出た。

 今の彼氏の収入というのは相当なものなんだろう。少なくともAクラスの中間よりは上だろうと思う。収入で人を測るわけではないけれども、人間というのは仕事に見合ったお金が入ってくるものでね、やはりいつかまわりまわってくるものなんだね。将棋界以外の彼氏の仕事への評価というのは、それだけのものと評価されているんだな。

 したがって、近頃の芹沢はくぶんをみていると、将棋はタイトルを伺おうかというふうな気迫も失せてしもうて、棋士としては、もの足りなさを感じているファンも多いかもしれない。残念に思う人が多いかもしれない。

 しかし、今の彼氏はね、彼氏のその才能を一番発揮できる環境にあってね、自由にのびのびとやっていて、だから彼氏は今が一番幸せなんだろう。

 ただ、その幸せな彼氏がね、それまでの無理が祟って血を吐く、胃を切る、ということがあって、非常に心配している。で、やはり陽はやがて西に沈む。この西に沈むときにどういうふうにすべきか。ここが男の人生、女でもそうだろうけど、一番大切なところであってね、俺は人生というのは60からが勝負だと思っている。60からどう生きるか、というためにね、60までに何をすべきかがあるんだと思う。これが俺の人生哲学の一つである。

(中略)

 で、これ(1981年12月25日 昇降級リーグ戦1組 対谷川浩司七段戦)に勝ってだね、彼氏は全ての炎が燃え尽きた(笑)ようにみえる。けれどもこれは、彼氏が、自分自身がそう感じていることであってね、頑張りさえすればまだまだ将棋は指せる。しかしながら俺のみるところでは、無理をしないでこのまま生きたほうがいい。そして、やがてね、芹沢はくぶんの意見に共鳴する者があらわれるかもしれない。そのときにまた、連盟の雑事を引き受ければいい。

 どうぞ安らかに(笑)

(6月3日収録)

* * * * *

芹沢博文九段からのコメント

 ついに米長も病が嵩じたか、嘘ばっかり言うようになった。

 もともと嘘をつく癖のある奴であったが、若い頃はいくらかの自制があり、人達に知られなかったようである。しかし、タイトルを4つもとり、名人をも含め、7つのタイトルをとれるかと思った途端になにか、タガのようなものがはずれてしまったのか、パタパタと2つとられ、今また勝浦八段に棋聖位をとられそうになり、完全に自制心がなくなり、人のことを嘘ついて、自分の劣っているところを隠そうとするのはなんとも哀れな奴である。

 米長が言うような立派なことらしきものは一つもしていない。ただ思い上がって、将棋にくっついてそれを利用しなければ生きていけない哀れな将棋指し、それが私である。

 一つときは何かを夢見たが、米長、中原なんぞにちょうどよい踏み台とばかりとんとんと気持ちよげに通り越されては、このときをもって我が将棋は終わりである。

 あの出来損ないの二人だけにでも、一言も口をきかなければもう少し、楽に生きられたのではなかったかと思うと、我が不明を恥じるのみである。

 人のことをああだこうだ、駄法螺を吹く暇があったら、テメエのことを本気で考え、なんとかなったらどうだ。(7月10日談)

* * * * *

芹沢博文九段の全く遠慮のない、歯に衣着せぬコメント。

話し言葉を文字にすると、実際よりもキツイ感じになることが多いが、芹沢九段の話し口調を思い出しながら読み直しても、なかなかキツイことが述べられている。

* * * * *

「芹沢博文が最も尊敬する男は、大山康晴さんなんだね」は、米長流の一種独特な言い方で、全く反対のことなのか、本当のことなのかはわからない。

大山十五世名人が芹沢九段を快く思っていなかったのは事実で、中原誠十六世名人をはじめ、多くの人によって語られている。

確実に言えることは、芹沢九段は木村義雄十四世名人を限りなく尊敬していたということ。

* * * * *

芹沢博文九段と米長邦雄永世棋聖、晩年は不仲だったという人もいれば、晩年も仲が良かったという説もあり、本当のところは本人同士にしかわからないところなのかもしれない。

 

第76期名人戦第5局対局場「亀岳林 万松寺」

佐藤天彦名人に羽生善治竜王が挑戦する名人戦、第5局は名古屋市の「亀岳林 万松寺」で行われる。

〔中継〕
AbemaTV将棋チャンネル
ニコニコ生放送
名人戦棋譜速報(有料)

亀岳林 万松寺」は、1540年に織田信長の父・織田信秀が織田家の菩提寺として開基した。御本尊は十一面観世音菩薩。正式の寺号は亀嶽林萬松寺。

織田家や徳川家との縁も深く、歴史ファンにとっては魅力的なスポットであるという。

万松寺がある大須は名古屋市の中心部にあり、名古屋市の代表的な繁華街・商店街。

今回、万松寺で行うきっかけとなったのは、アマ二段でもある僧侶の伊藤聖崇さんが開催地の公募を知り、父の大藤住職に提案したことから。

〔ローズコートホテルの昼食向きメニュー〕

前夜祭および大盤解説会がローズコートホテルで行われるので、食事はローズコートホテルから運ばれると考えてみたい。

ローズコートホテルの昼食向きメニューは次の通り。

○日本料理「比翼」
天婦羅定食 1,900円
お造り定食 1,900円
牛肉サーロインステーキ膳 1,900円
ひつまぶし 3,600円
ひつまぶし御膳 4,200円

○カフェ・レストラン「メルローズ」
カツカレーランチ 1,400円
サーロインステーキランチ 1,500円
ミックスサンド 800円
ポークカツサンド 1,000円
シーフードスパゲッティ 1,000円
ビーフカレー 1,000円
ポークカツカレー 1,200円
エビピラフ 1,000円

〔昼食予想〕

佐藤天彦名人のカレーは必然手と思われる。羽生善治竜王は現地の名物含みで。

予想は次の通り。

佐藤天彦名人
一日目 牛肉サーロインステーキ膳
二日目 ポークカツカレー

羽生善治竜王
一日目 エビピラフ
二日目 ひつまぶし

 

破滅型の天才棋士

将棋マガジン1985年9月号、米長邦雄十段(当時)の「本音を言っちゃうぞ! 第13回 芹沢博文九段」より。

米長 芹沢はくぶんはね、沼津出身の元、天才(笑)。将来を嘱望されてね、高柳敏夫先生も内弟子にとった当時は、いい弟子に恵まれた、よき後継者を得た、と錯覚をしておられたのではないだろうか(笑)。まあ師匠もそんなふうな目でみたし、周りの者たちもことのほか芹沢少年の将来性を買っておったんだな。そのあらわれとしてね、”東西少年の一騎打ち”なんて企画もあって、西は加藤一二三、東は芹沢博文、確か初段同士くらいだったと思うけれども、神武以来の天才といえど東の大器、芹沢にはハッキリ優位に立つということはできなかったんだな。そのくらいの天才少年であった。

 で、その期待どおり彼氏は順調に昇段していって24で八段になった。

 しかしながらこの男は、将棋だけでなく他に才があり過ぎた。これが彼氏の将棋にとって、あるいは人生にとって幸なのか不幸なのかはね、誰にも分からない。本人すらも分からないことである。

 彼氏は十代前半にね、すでに麻雀を覚えていて、雀荘に出入りしておった。普通は内弟子の者が雀荘に出入りするなどというのは考えられないことだけれども、大器芹沢であればこそ、それは黙認されておったようだ。

 だいたい男は遊びで崩れることはないんだな。崩れるとすればそれは本人のミミズのような生き方、その精神、それが男をダメにするのであって、男が遊ぶことによって才能がダメになる、その人間がダメになるなどということはあり得ないんだよ。まあ、こういう点では高柳先生も芹沢さんも俺も、ある部分では共通した考え方で、だから芹沢少年のそうしたことは自由であったともいえるわけだ。で、そこの雀荘で芹沢はくぶんに痛めつけられた老人、かわいそうな老人に娘が二人いてね、その長女を麻雀の借金のかたとしてとったのだな。それが今の和子夫人である(笑)。

 しかし、最近では彼氏の一番の、とっておきの自慢の娘が大野君にとられてしまってね(笑)、このときは気が狂わんばかりの嘆きようだった。今はだいぶ落ち着きを取り戻したようだけれどもね。

 それから彼氏はね、非常に数多くの本を読んだ。推理小説も読んだし親鸞も読んだ。もちろんビッグコミックは欠かさず(笑)。いろいろなジャンルのありとあらゆるものを読んだ。

 それから、競輪をやり、競馬をやり、博打をうち多額の借金を背負って徹底的に遊んだ。

 彼氏は、勉強とか蓄財ということが人間を大きくさせる、成長させるのではなくて、物をどんどん捨てることによって大きくなると考えたんだな。だから金も遣い、体力も使い、時間も費やして、自分のやってきたことがそのまま自分の財産になるように、いろいろなことをやってきたわけなんだ。

 どんなに借金をしたってだね、俺が将棋さえ勝てばこんなもん、なんでもねえや、と。これで人生がうまーく回転しておった。

(中略)

 俺は西武新宿線の沼袋というところに16から24歳まで8年間下宿していたのだけれども、すぐ隣の駅が新井薬師前で、そこのアパートに芹沢はくぶんは新居を構えておった。当然、遊びまわっとるわけだな。あるとき、山口英夫六段の奥様から芹沢夫人に電話がかかってきた。「うちの主人は3日も帰ってきません。こういうときに妻としては、どうしたらよろしいでしょうか」と。応対にでた和子夫人は「まだよろしいですね、うちは1週間目です」。それで山口夫人がホッとして円満におさまった(笑)という話がある。まあ、こんな風な生活をしておったんだな。

 それで、あるときにだね、まだ純情であった米長少年が(笑)、当時の俺は坊主頭でね、学生服しか着たことがなかった。だから今の私を想像してもらっても困るんだがね。その米長少年が芹沢家に押しかけていって意見をしたんだな。「オメエはそれだけの才能がありながら何故もっと真剣に将棋に打ち込まんのか」とね。今の俺とはまるっきり違う人間だろ(笑)。「あんたはよくねえ、奥さんが泣いとるじゃねえか」と意見をしたわけだ。

 しかし、そのときの芹沢和子夫人の答えはだね、「うちの主人は、止まっちまったらダメ。止まるということは死ぬということです。だからなにをしていてもとにかく動いていてくれさえいれば、それは主人が生きている、という証だから、私はそれで充分満足です。ですから、そういうふうなことは気にもとめません」と彼女は俺に言ったんだね。で、俺はああ、素晴らしい奥さんだ、と思った。なるほど、いい夫婦でね、そんなところへ若造がだね、お説教なんかに行って申し訳なかったと。そのお詫びのしるしにだね、そのマンションの玄関のところにウンコをしておいてやった(笑)。で、後で電話をして「よく見ておいてくれ」と言ってね、それを奥さんが見に行ったらすでにひからびておったそうである(笑)。

(中略)

 それまでの将棋というものは、個人で研究していたものだったけれども、俺が四段になってしばらく経った頃、共同研究グループというものが流行りはじめたんだ。

 山田道美、関根茂、宮坂幸雄、富澤幹夫といったメンバーでは打倒大山のね、四間飛車対策を研究しておった。有名な5七銀左と上っていく戦法、そういうふうなものがいろいろ研究されていたようでね、そのグループに中原三段なども出入りを許されて勉強していたんだな。

 一方、芹沢博文、北村昌男という、当時の関東の若手の、まあ、リーダーというのかな、将棋もそうだけれども、人生を広く楽しんで、生を享受しようといういき方で若手を引っ張っていったのがこの二人だった。その二人が中心となった研究会に、大内、勝浦、米長なんていうのが入ってきたんだね。そんなところへあるとき、中原誠三段が見習いとしてやってきた。そして両方の研究会に出入りしていた中原誠三段が言うに、世間の評判は、理論の山田グループ、理論無視の芹沢グループということであったけれども全く逆で、芹沢グループの方はあくまで将棋の理論というものを追求していたのに対し、山田グループというのは実戦が第一、実戦主義であったのには驚いたと、こう述懐している。

 芹沢研究会というのはね、平素の言動とは裏腹に、将棋の理論ということに対していろいろ意見を述べあっていたんだ。まあ、私の方は吸収する一方だったけれども、たいへん参考になった。それまで俺は、将棋と人生には理論なし、と思っていてね、まあ、今でもそうなんだけれども、やはりたいへん参考になった。

 で、この研究会で俺は芹沢さんから「君は振り飛車をやめたまえ」と言われたのだな。この一言は、今までいろいろな一言があったけれども俺の人生にたいへん大きな影響を与えた一言だったね。転機になる一言だった。で、しばらく考えた末に、それまで振り飛車一辺倒だった俺がぷっつりと振り飛車をやめて突如、居飛車一辺倒に切り替えてしまったんだな。そういう意味では俺は芹沢はくぶんには将棋の技術面、考え方で非常に大きな影響を与えられたね。

(中略)

 天才の名を欲しいままに生きてきた芹沢はくぶんだけれどもね、ところが屈辱を味わうことになったんだな。

 Aクラスに入った年に彼氏は出だし3連敗。前にも言ったけれども、高柳一門はAクラスに入ったらまず3連敗するという掟、決まりがある(笑)。中原誠がそう、田中寅もそう。そういうことになっとんだね。で、その年はあとを勝って残って、次の年に出だし2連勝したんだな。去年、3連敗して残ったくらいだから、2連勝なら挑戦者か、と思ったのだけれども、残念デシタ(笑)。落っこっちゃったんだ。それは陽が東の方からどんどん昇っていくといった趣のあった彼氏の人生からみると、それがようやく西に傾く、あるいは傾かないまでも運気が少し落ちてきているということに本人も気が付いたんだろうね。しかも、その落ちるに当たってだね、大野源一対塚田正夫という将棋があるんだな。その一局で大野先生が勝ったら塚田先生が落ちるという状況でね、そして大野先生が必勝形になったんだ。

 普通ならそのまま大野先生が勝って塚田先生が落ちる、ということになるはずだったのだけれども、そこに劇的な玉の素抜き、という手があったんだな。

 A図がその局面。今、大野八段が▲3三同香成と馬を取ったところ。

A図以下の指し手
△2八飛▲3一角 まで、塚田九段の勝ち。

 で、彼氏はね、そのことを塚田-大野の関係と若造の芹沢の関係からみて、あれは八百長ではないけれども、わざと抜かれたのに相違ない、と、そう思い込んだんだな。ずーっと10年も20年も思い込んだ。

 彼氏はそのときからね、将棋指しあるいは将棋そのものに対して不信感というかな、あの尊敬する大野先生、塚田先生、そういうふうな人達をみる目が変わってしまったんだ。

 このことは、彼氏の人生の歯車にたいへんな狂いを生じさせた。もしこのときにこんな出来事がなくて、仮に全敗でもいいから徹底的に闘って落ちたものなら次の年には彼氏の才能をもってすればAクラスに復活したろうと思う。そして、いくらでもタイトルを取るチャンスもあったのだろうけれども、劇的な玉の素抜き、彼氏の人生を変えさせたポカだね。

 それからは、彼氏はやや、将棋指しとして、将棋を指して生きていくということから若干違う方向へ動いていくようなふうになったんだな。

(中略)

 そうはいってもやはり天才芹沢、本来は強いわけだからね、それから数年経ってAクラス復帰、出来るや否やという局面になったんだ。

 その将棋が本局(1970年3月13日B級1組順位戦 中原誠七段-芹沢博文八段)。

 大阪で対局している大野-米長戦で大野勝ちならそのまま大野先生が昇級、米長勝ちの場合は本局の勝った方が上がるという状況だったんだな。で、大野先生と闘う3日前、中野に杉の子という寿司屋があって、そこでごちそうになっての帰り道、タクシーの中でだね、芹沢さんは「勝負というものは、目の前に居る人間を幸せにしてやることが一番いい」と、こう言ったんだ。しかし俺は「私は必ず勝ってくる。大阪の大野先生には必ず勝ってくるから、あなたが東京で勝ちさえすればAクラスに入れますよ。俺はどんなことがあっても勝ってきますからね」と言って、それで別れたんだ。

 彼氏は、どう受け取ったのかは知らんけれどもね、俺の勝負に対しての考え方は、そういう勝負は絶対に勝たなくてはならん、ということだから、大阪へ行って全力投球をして悪い将棋を勝った。拾わせていただいた。一方、東京の方はどうかというと、12時ちょっと過ぎまで芹沢さんが優勢で、必勝形になったんだな。で、あともうちょっとで勝つ、というときにだね、ひょっと部屋の隅を見たらそこに東公平氏が深刻そうな顔をしてうずくまっておるのだねえ。まあ普段でも深刻そうな顔をしておるのだけれども、あの人は(笑)。それが目に入ったんだな。

 大阪の対局は大野先生が勝てば60歳でAクラス復帰だから、その将棋を載せることになっておった。しかし、もし俺が勝ったら大野先生はタダの人になっちゃうから、そのときは中原対芹沢の将棋を載せることになっておったんだ。

 その観戦記担当の東公平氏が深刻そうな顔をしてうずくまっているのを見て、芹沢さんは「ああ、大阪は米長が勝ったか勝ちそうになっておるな」と察したんだね。

 そうしたらそれまで無心で指していた男が、急に指し手が乱れてきちゃった。それで大ポカがでた。

 一方の中原はそんな状況には気が付かない。一切気が付かない。それじゃあ中原は全然知らずに将棋のことだけを一所懸命やっていたのかというと、これがそうではないんだね。

(中略)

 で、中原誠が勝ったのだけれども、芹沢さんが駒を投げたときにだね「負けました」とは言わなかったんだな。「おめでとう」と言った。そうしたら中原は「ありがとうございます」と言ったんだ。このやりとりをみると中原はすでに、勝った方が上がるということを知っていたんだね。それはどうしてかというとこの二人の闘った将棋というのは名局でね、こういう場面でもって二人が一所懸命闘って名局が生まれるということはだね、勝った方が上がれるように神様が仕組んでおるんだね。だから将棋というのはいつでも全力投球して、いい将棋を指すということを心掛けておくと必ず運が向いてくる。

 ともかくこれだけの名局を指したら、勝った方が上がれるということを二人とも、分かっておったんだね。芹沢さんはそこに東公平という男の姿を見ちゃった。で、手がみえなくなった。中原はそれを見なかった。無心で頑張った。まあ、その差が最後に出たのかもしれない。

 このときの彼氏はね、大野先生が王様を素抜かれたということよりもっとショックを受けたはずでね、新婚間もない芹沢はくぶんが毎週日曜日に自宅に呼んで将棋を指してやった弟弟子。これ程かわいがって仕込んだ中原と、Aクラスに上がる大事な一番を闘わなくてはならず、しかも負かされて自分が上がり損なう、先を越される。これがまた、彼氏のダメ押しになったんだね。で、それから再びAクラスを踏むということはできなかった。

 それではもう全然ダメであるかというとそうではなくてね、ここ数年間でたった1回だけ、本当の自分の将棋をみせてやろうと世間に公言して闘った将棋がある。これが七段のときの谷川との将棋。谷川浩司といえば当時から名人間違いなしといわれていた大器でね、それじゃあというので芹沢はくぶん元・天才がだね、俺の本当の力をみせてやろうというんで3日間禁酒をして、仕事もキャンセルして、精進潔斎してたち向かったのがこの将棋。谷川浩司との将棋。素晴らしい将棋。これも名局である。

 それから芹沢さんには藤沢秀行という兄貴分がいてね、これは私が最も尊敬する人物。

 で、その秀行先生の生き様がね、常人離れしておるんだな、これが。まあ、芹沢はくぶんの述懐によれば”藤沢秀行と出会ったのが俺の人生の狂いはじめであった(笑)”ということらしいんだがね。しかしながら、それ程魅力のある男で、まあ、秀行、芹沢という先輩にひき連れられて競輪に行き、博打を覚え、酒を呑み、それで物の考え方をいろいろ教わった。だから俺の生きた師匠なわけだな。

 で、あるとき将棋連盟に刑事が来たのだな。芹沢博文はいるか、と。はくぶんは、どの事件が発覚したのかとあわてて逃げ出そうとしたのだけれども(笑)、刑事が将棋連盟まで来るようであってはね、もはや逃げ隠れはできない。度胸を決めて会ってみたんだな。で、どの事件を持ち出すのかなあ(笑)と思っておったところがだね、その佐藤という刑事、捜査二課の主任だね、が言うに「実はきょうお伺いしたのは愚息、義則が将棋が好きで、プロになりたいと言い出し、師匠は芹沢先生をおいて他にはない、と申しておるのですが先生、一つ、なんとかしていただけないでしょうか」。

 とたんにはくぶん、態度が変わっちゃってね(笑)、刑事の前でふんぞり返ったのはそれが最初で最後であったろう。

(6月3日収録)

(つづく)

* * * * *

中原名人に聞く

 あの将棋は途中から混戦になって、終わったのもかなり遅い時間だったと思います。まあ、名局かどうかは分かりませんけど。

 対局中は大阪の結果はもちろん知りませんでしたし、東さんのことも気がついていませんでした。

 ただ、これは何の根拠もない勘なんですが、勝った方が上がれるような気はしていましたね。勝負の最中で、神経が敏感になっていますからこういう勘というのは意外に当たることが多いんです。

 対局のときは、私の方は小さい頃から教えていただいた兄弟子ですし、目標にしていた人だから、ただ全力でぶつかるだけでしたので特に指しにくいというような意識はありませんでした。

 しかし、芹沢さんはやはり指しにくかったのではないかと思います。

 最近、田中君(寅彦八段)や島君のような弟弟子と指してみて、ようやくそういう気持ちが分かってきたような気がします。(7月4日談)

* * * * *

芹沢博文九段は、解説などでも話すことが面白く、書くことも面白く、明るく洒脱な雰囲気で、非常に人気があった棋士。

後年、『アイ・アイゲーム』などのテレビ番組にレギュラー出演するようになったが、今の時代に当時の年齢で活躍していたなら、さまざまな番組に出演依頼されていたと思う。

* * * * *

「高柳一門はAクラスに入ったらまず3連敗するという掟、決まりがある」

芹沢博文八段、中原誠十六世名人、田中寅彦九段と、高柳敏夫九段門下でA級になった棋士は、この時点まで皆、A級1年目に出だし3連敗していた。まさに二度あることは三度あるといった現象。

この反動からか、高柳門下の島朗九段は1994年にA級1年目で出だし3連勝している。

* * * * *

大野源一八段-塚田正夫九段戦の王手放置については、芹沢博文九段が米長邦雄永世棋聖にそのように考えを述べていたのか、あるいは米長永世棋聖の推測なのか、どちらかは分からない。

いずれにしても、わざと負けるならもっとわかりづらいような負け方をするわけで、わざと玉を抜かれたと考えるのには無理がある。

* * * * *

1970年3月13日B級1組順位戦の大阪で行われた大野源一八段-米長邦雄七段戦が米長哲学誕生の一局。

米長哲学誕生の一局

* * * * *

捜査二課刑事の「実はきょうお伺いしたのは愚息、義則が将棋が好きで、プロになりたいと言い出し、師匠は芹沢先生をおいて他にはない」の義則は、佐藤義則八段のこと。

佐藤義則八段は2014年の『NHK将棋講座』で師匠の芹沢九段の思い出について書いている。

明るく冗談が好きだった芹沢博文九段 弟子が語る師匠の思い出(NHKテキストView)

 

(つづく)