佐藤大五郎八段(当時)「忘れもしません昭和31年2月、新宿の遊郭でヤクザとケンカしたことがあるんですよ」

将棋ジャーナル1984年2月号、才谷梅太郎さんの「棋界遊歩道」より。

 米長氏ばかりではない。ウン十年前、アルバイトのため新宿でラーメン(オデンだという説もある)の屋台を引いていた、佐藤大五郎氏の逸話もある。

 大五郎氏、現在の風体からも想像できるように、柔道で鍛えあげた肉体はヒ弱な将棋指しの中にあっては、群を抜いて立派なものだった。

 重い屋台を引いて、大五郎氏は歌舞伎町界隈に初出勤。ところが商売を始める間もなく、怖そうなお兄さん達に囲まれてしまった。一人のあんちゃん曰く、

「ここはウチらのシマじゃけん、商売したらイカン」

 しかし大五郎氏ひるまず

「俺は言われたまんまに、この屋台を運んでいるだけだ」

 と言い返した。

 次の瞬間、大五郎氏は3、4人のお兄さん達に、あっという間に地球と背中合わせにさせられていた。

 おまけに喉元には、キラキラ光る匕首まで突きつけられている。

 そこに駆けつけたのが、奇麗なお姉さん。大五郎氏にとって、結果的には救世主の出現になった。

「その人はかたぎの人だから、勘弁してあげて」

 そこで静かにしていればいいものを女性の援護射撃を受けて急に勇みこんだ大五郎氏、とんでもないことを言い放ってしまった。

「ヤイッ、てめえら。何人もでかかってくるなんて男らしくねえぞ。文句があるなら、一人ずつかかってこい」

 現在、大五郎氏に生あるのは、ただただ幸運というしかない。ひとえに、手を合わさんばかりに哀願してくれた、美しい女性のおかげである。

(以下略)

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この話については、1972年に佐藤大五郎九段自身が語っている。

将棋世界1972年6月号、連載対談:盤上番外「欲が出てきた新八段」より。ゲストは佐藤大五郎八段(当時)と大内延介八段(当時)、聞き手は医事評論家の石垣純二さん。

石垣「まあ、年長の順で佐藤さんからうかがいましょうか。新聞に暴れん坊と書かれていましたが、なにか理由があるんですか」

佐藤「将棋じたいが荒っぽいんですか―それもあるんでしょうが、若い頃、忘れもしません昭和31年2月、新宿の遊郭でヤクザとケンカしたことがあるんですよ」

石垣「31年というと16年前。とするとあなたはまだ19歳ですよ。未成年で、そんなところへ行ったのですか」

佐藤「イヤイヤ、遊びに行ったのではないんですよ。奨励会の二段ぐらいでしたが、お金がなくて屋台を花園神社から遊郭の入口まで運ぶアルバイトをしていたんです。オデンとかお酒が積んであって女の人では重たいんでね。それを一月半ぐらいしていたのですがそのときヤクザの人に、ここで商売してはいけないといわれたんです。しかし、私は関係ない”ここへ運ぶことを頼まれているけだ”と説明したんですが……」

石垣「なぐられたですか」

佐藤「ちょっと混戦になり倒されました」

石垣「アハハハハハ―混戦とはうまいことをおっしゃる……」

佐藤「倒されて、ここ(ノドのところへ手をやる)へ短刀をつきつけられましてネ」

石垣「アリャー」

佐藤「ビックリしているうちに、女の人が4、5人かけつけ”この人はカタギの人だから……”というと離してくれた。が、私も無鉄砲だったから、お前らなんだ、男なら一対一でこいと開き直ったんですよ」

石垣「女に助けられたら急に強くなりましたな」(笑)

佐藤「それはそうですよ。それまでは倒されて4人ぐらいに乗られているんですから声を出したくても出せないんですから……」

石垣「ずいぶんと苦労もしましたね。ところで大内さん、この話はなんべんめ―」

大内「この話ははじめてです」

石垣「はじめて―。五へんぐらいは聞かされたかと思った」

大内「聞いたのははじめてですが、そんなことがあったということは知っていました。その頃、関屋(現五段)、剱持(現六段)と新宿の三羽烏といっていましたから……」

(以下略)

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売春防止法が完全施行された昭和33年に赤線が廃止されたわけだが、廃止前には新宿に70軒ほどの遊郭があったといわれている。

新宿の遊廓は、現在の新宿2丁目の靖国通りにやや近い場所に集中していた。

そういうことなので、花園神社から新宿の遊郭までは、靖国通りを越えて少しという距離。

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奨励会時代の佐藤大五郎九段を助けたのは、遊郭の女将あるいは遊郭に勤める女性だったのだろう。

映画になるとすれば、助けた女性の役には、かたせ梨乃さんや名取裕子さんがピッタリだ。監督は五社英雄監督。

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佐藤大五郎九段のエピソード

豪傑列伝(2)

朝から闘志が充満している対局室

最短手数の将棋

佐藤大五郎九段自慢の一局

佐藤大五郎九段逝去