将棋ジャーナル1985年10月号、小池重明氏の「すべてを告白します(1)」より。
ここに一人の、将棋界から逃竄を余儀なくされた男がいる。その名は小池重明。
彼は二年余地獄をさまよい、なお今もさすらい続けている。無明の中で、彼は救済を希った。「助けてくれ」と叫んだのだ。
しかし彼が将棋界に復帰するにはいくつかの手順を経なければならない。迷惑をかけた人達への謝罪、具体的な償い、そして騒がせた世間への釈明である。
彼はまず謝罪の手紙を送ることから始めた。そして後日、弁済方法について話し合う決心を固めた。総てを片づけるにはおそらくある年月を要する筈で、ゆえに確実に履行される保証はなにもない。しかし、将棋ジャーナルとしては今一度彼の言葉を信じてみようと思う。彼に立ち直りのきっかけとなる場を提供したいと思う。大方の非難は覚悟でそうしたいのである。無視し去るには彼はまだあまりに若く、惜しい技術を持っている。
つぎに続くのは彼の破局に至るまでの赤裸々な告白である。これを三回に分けて掲載しようと思う。諸氏の率直なご意見をお聞かせ願えれば幸いである。
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私が、あの悪名高き小池重明です……などと書くと、「なにを、いまさら」とばかりに大方 の読者の叱責を受けそうだが、これは私の現在の、偽らざる卒直な心境である。私の過去の私行上についての、あらゆる非難、あらゆる批判に対して、私はただただそのすべてを甘んじて受け、謙虚に頭を垂れたいと希っている。
一昔前なら、さしずめ坊主頭にでもなって反省とお詫びの態度を示すところだが、将棋の道の大先輩である「将棋ジャーナル」主幹の関則可氏のおすすめにしたがって、私の半生を公表することにした。貴重な誌面を私の拙い文によって汚すことは申し訳なき仕儀だが、私の改俊の情の一端を汲み取って頂けたら幸いです。いろいろな意味において、本文はまさに私の恥多き半生の懺悔録である。
母の思い出
私は昭和二十三年一月二日、名古屋市中村区牧野町で生まれた。
父は杉田重次、母は玉置かほる。一人っ子である。私が物心のついた頃には、現在の父(小池信春)と一緒に住んでいたが、姓だけは杉田姓だった。小学校四年まで私だけが両親と異なる杉田を名乗り、おかしいな、何かあるなとは思っていた。事実は、母が酒癖の悪かった杉田の父と別れて、その後小池の父の
ところへ私を連れ子に再婚したというわけである。私の育った牧野町というところは、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並び称される、名古屋駅裏の有名なドヤ街だった。
二階建の一軒家をベニヤ板で幾重にも仕切って間境いとし、六世帯位が一緒に住みつき、じつに賑やかに生活していた。
何を正業にしているか分らな人達ばかりで、暇さえあると皆なで花札バクチに興じていた。気丈な母はバクチをやらせても強かったが、父はいつも負けてばかりいた。
当時父は傷夷軍人を売り物にして、各地の祭や行事の催されている神社、お寺などを回っては稼いでいた。父が帰ってくると、白い募金箱を引っくり返して、母と二人でお金の勘定をしていた姿がいまでも目に浮かぶ。喜捨が沢山あったときは両親の機嫌がよく、私の欲しい物は何でも買ってくれた。
私が小学二年の頃のある日、家の外で遊んでいると、見知らこぬ小父さんがやってきて、「坊や、名前はなんていうの」と聞いた。「しげあき」と答えると、つづけて「いま家の中にいるのでは、誰とだれ?」と聞くのだった。
私が「父ちゃんと母ちゃんと北さんと近ちゃん、ほかにも……」と答えると「ありがとう」と言って頭をなでてくれた。気こがついてみると、何時来たのか、ほかにも五、六人男の人が集まっており、何にかヒソヒソ相談すると、いっせいに家の中へ踏み込んでいった。刑事だった。バクチかヒロポンか、いずれにしてもあまり芳ばしくないタレ込みが、どこかから入ったらしかった。私はびっくりしてポカンと眺めていたが、結局証拠不十分で大した罪にはならなかったようだ。こんな話が、さして珍らしくもなかったのが、私の育った当時の環境だった。
さて、母は………夜の女だった。それを思うとき私の胸はきりきりと疼く。
しかし、それなりに立派な女だったと思う。若くして亭主と別れ、乳飲児を抱えて大都会の真只中に投げ出されたとき、手に職もなく近くに身寄りもない孤独な母が選んだ道を、子の私はとても冷静な心で批判できない。ただ悲しいだけである。
そして、母はじつに逞しかった。
幼児と身体不自由な夫を守って、文字通り身体を張って生きながら、死に至るまでみじんの暗さもみせなかった。気っぷがよく男勝りで、いつも明るく立ち振舞っていた。私が何とかいじけずに育つことができたのも、この母あってのことと心から感謝している。
こんなことがあった、当時子供の遊びといえば、路地裏でのメンコ、ビー玉、コマなどが多かった。ある日、私がメンコで負けて一枚も無くなってしまい、皆なのやるのをじっと見ていた時のことだった。
「重坊(シゲボウ―母は死ぬまで私のことをこう呼んでいた)これでメンコを買ってきて、もう一度頑張りな!」
いつの間に二階から見ていたのか、階段をドサドサと音を立て降りてくると、母は私の手にお金をしっかりと握らせた。その勢いにびっくりして母の顔を見ると、母の目はとても優しく笑っていた。私はグッと胸が詰まって、思わず「母ちゃん、ありがとう!」と叫びたいところだったが、何となく照れ臭く、そのままお金を持って黙って駆け出していたのだった。
また母は映画が好きで、よく駅前の東映映画館に連れて行ってもらった。大川橋蔵主演の「真吾十番勝負・二十番勝負」を母と観に行ったら超満員で、なかなか座れなかったのも、母亡きいまは懐しい想い出のひとコマである。父にはよくパチンコに連れて行ってもらった。父子で遊んで、帰りには私の好きな景品を取ってくれるのだった。
ところが何度か行っているうちに、私はパチンコの魅力にとりつかれ、すっかり病みつきになってしまった。小学校低学年であるにもかかわらず、三日にあげずパチンコ店に出入りするようになってしまったのである。そのたび父は怒ったが、いったん覚えた味はなかなか忘れられない。両親に隠れてはコッソリとパチンコ通いに精出すのだった。たんなるお説教では効き目がないと知った父は、パチンコ店の方に手を回し、子供が一人で来た場合は出入り禁止ということにしてしまった。そこでようやく私の最初の道楽ぐせも収まったのである。
東京そして名古屋
小学校五年になった時、子供の将来を考えた両親は、父の東京の実家に私を預けた。
祖母と叔母の二人暮らしの家庭で、一応は歓迎されたのだが………すぐ前の家に父の姉夫婦が住んでおり、子供が三人いた。一級上(小学六年)と四年、三年で大体私と似たような年格好だった。よく遊んでもらったが、時どき何となく除け者扱いされたり、それほど深刻ではないが、軽くいじめられたりした。
それまで、どちらかというと一人っ子のせいもあり、貧しいながらも両親の愛を一杯に受けて我がままに育っていたから、とても口惜しく、そして悲しかった。やはり血がつながっていないせいだろうか、などと名古屋の方角の空を見やりながら、子供らしい感傷に浸ったりした。現在でもその頃の自分のみじめな思いを鮮明に覚えている。
生まれて初めて、女の子からラブレターを貰ったのも、この頃である。
同級生で私より身体が大きかった。「東京の子は進んでいる……」と思ったものだ。また隣のクラスの女の子から「付き合くってくれますか?」と言われ、目を白黒させたこともある。ちょっぴり嬉しいような恥かしいような気持がしたが、当時はまだまだ無邪気で、むしろ内向的な子供だったので、さすがにそれ以上は何にも発展しなかった。
どうしたわけか、私は模型工作が大好きで、ラジオやモーターなどキットでなく、それぞれ部品を買ってきては組み立てていた。要らなくなった目覚まし時計をもらい、タイムスイッチを作ったのも、この頃。きっと孤独で淋しがり屋の少年にぴったりの遊びだったのだろう。
勉強の方はまずまずの出来で、とくに算数と理科が得意だった。学級委員になったのも最初で最後の経験だった。内気なくせに、どこか小生意気な可愛くない子供だったように思う。
中学二年になると、私は懐しい故郷の名古屋に戻った。住まいは則武町に変っていた。名古屋駅裏のドヤ街から二分足らずのところにあり、木造二階建のアパートだった。
編入の手続きで母と共に地元の中学へ行くと、規則で頭は五分刈以下にしなければならないという。東京生活で私の頭髪は長くなっていたから、それでは可哀想だということで、他地域の学校を探してやると母が言った。たとえ三年半の間でも、子を手離した母の、せめてもの償いだったような気がする。
この頃母の身内はすべて名古屋に出てきていた。和歌山県の御坊近くの山村に住んでいたのだが、山崩れで一村が全滅したためだった。祖父、祖母、そして女ばかり五人姉妹だった。その中で四女に当る叔母が中区の弁護士先生の事務所に勤めていたので、そこに私の住民票を移して越境入学した。
名古屋市立前津中学校。試験がないのに何故か名門校となっており、当時三分の一か四分の一の生徒は、私と同じく区外からの越境入学だった。
父はその頃葬祭関係の仕事につき定収入が入るようになったので生活は一応安定していたが、母は相変らず他人様に言えない後ろ暗い稼業をしていた…….。
名古屋に戻ってすぐ、父に釣を教わった。自転車で名古屋城のお堀に行き、フナ、ライギョなどを初めて釣った。それから暫くは釣に熱中し、自転車で片道二時間、三時間かかる場所でも平気で出 かけ、一日中居ても飽きることがなかった。
ある日、友達に教わった釣場に父と一緒に行くことになった。自転車で二時間半位かかるところだが、途中で空模様がおかしくなり、現場に着いた頃は雨が土砂降りだった。それでも小一時間頑張ったが、釣果の方はさっぱりで、小魚一尾かからなかった。
二人共パンツまでぐっしょりぬれ、散々の態たらくだった。帰り道、父がラーメンをおごってくれたが、平素無口な父がポツリポツリと昔話などしてくれ、ほのぼのとした気持になった。父と子の、二人だけにしか分らない何にかが通い合い、無性に嬉しかった。
学校では図画が得意で、写生画(風景)とデザイン画が好きだった。
校外授業で名古屋城に写生に行った時のことである。皆ながお城を描いているのに、私だけ他の風景を描いた。後日教室で美術の先生が一枚ずつ作品の批評をしていたが、私の順番になると全く思いがけなく激賞し、私は頭がボーッとなるほど嬉しかった。もっとも後になって考えると、何をどうほめてもらったのか、具体的な点はさっぱり想い出せなかった。デザイン画が県のコンクールに入選し、美術館の壁に私の作品が張り出されたのもこの頃で、たいへん嬉しかったのを覚えている。しかし、勉強の方は全然駄目で、箸にも棒にもかからなかった。教室以外では教科書を開いたことがなく、ひまさえあると遊び呆けていたのだから、これも当り前の話かも知れない。
将棋との出逢い
高校に入ってからも私の遊び癖は一向に改まらず、よく学校をサボっては繁華街の今池で友達とビリヤードをやったりしていた。
だが、ほどなく私は将棋に強い興味を抱くようになった。
というのも、高校生になったばかりの時に、父から将棋の手ほどきを受け、最初は父を相手に遊んでいたのだが、いつの間にか父に勝てるようになり、何となく物足りなさを感じていた。
たまたま本屋で将棋雑誌を見つけ、頁をペラペラめくっていると、偶然に名古屋市内の将棋クラブの広告が目に入った。それがキッカケで板谷道場へ通うようになり、しまいにはカバンの中に教科書の代りに着換えを入れて、学校へ行かないで道場へ日参するほどイレ込んだ。
そうこうしているうちに、高校二年の春、愛知県下の学生選手権があり、自分でも不思議なくらい勝て、思いがけなく学生チャンピオンになってしまった。新聞には写真入りで記事が掲載され、校長先生からはおホメの言葉を頂戴した。まさか学校をサボって道場に行っているため強くなったのです、とも言えず、ひたすら恐縮した。棋力は二段を公認された。
自分でも短期間の間によく強くなったものだと思うが、板谷道場ではその頃席料の他に、盤駒使用料という名目で対局者の敗者から若干の経費を徴収していた。私は当時一日千円の小遣いをもらっており、高校生としては決して少ない方ではなかった。しかし、道場に通いはじめた頃はやたらに将棋が弱かったから、誰とやってもコロコロと負けてばかりいた。そうすると、盤駒使用料の方もかさみ、馬鹿にならない金額になった。そこで段々と本気になりはじめ、少々戦局が悪くても、歯をくいしばって頑張るようになった。
いわば一種の真剣勝負で、負けたときの痛みと勝つことの価値を痛切に思い知らされたのである。後年私が真剣勝負で生活をしのぐ時期がくるが、その原点となるものは実は初心者のこの頃の将棋にあったのではないかと思えるのである。
折しも旧中村遊廓から五、六分の場所に西田さんの経営している太閤クラブがあり、私は何時しかそちらの方へ通うようになっていた。私は中学の頃からすでに喫煙の習慣が身についてしまっていたから、高校で煙草検査が厳しくなるにつれ、ますます学校嫌いになってしまった。勢いとしてその分だけ将棋熱に拍車がかかるようになり、腕前の方もメキメキ上達した。高校二年の時に県下の学生チャンピオンとなり、二段を公認されたのが、その後半年余りの間に実力四段となり、大ていの人には勝てるようになった。
西田さんは、そんな私にずいぶんと目をかけて下さった。
そして、花村先生の門下に入り奨励会に行かないかと、熱心にすすめられた。この時はじめて将棋にプロの道があることを私はハッキリ認識したのだった。しかし、多少不良っぽく、ヒネたようでいても、本質的に一人っ子で甘えん坊だった私は、両親の元を離れて東京へ行くのは嫌だからと、よく考えもしないでその話をアッサリ断ってしまった。小学生の頃東京の親戚に預けられた苦い体験によるのか、その時の私の心境は、とにかく一人で上京するのが心細く、嫌で嫌でたまらなかった。
人間の運命かなんてどう変わるか全くわからない。後年プロ入りを熱望し、あれこれスッタモンダの末、その絶望の果てに数々の不祥事を惹き起し、将棋界全体から指弾を受けることになった私だが、あの時プロ入りを決意していたら、あるいは私の運命は百八十度変って、もっと明るい建設的な方角に向いていたかもわからない。女々しいと笑われようと、安っぽい感傷と嘲られようと、それは私の哀切な実感である。
しかし、とにかくサイは投げられたのである。あれもこれも身から出たサビ、第三者に責任はない。すべて私の不徳のいたすところ、取り返しのつかない不始末を仕出かした責めを逃れるつもりは毛頭ない。これから永い時間をかけて、私の人生に記された汚点を、ひとつひとつきれいに拭っていかねばならない。そのことだけが、私のために多大な迷惑を蒙られた先輩友人諸氏に対する償いであり、また陰陽にわたって私に期待し、声援してくださった多くの将棋ファンの方々に対して報いる道だろうと思う。
さて、こうして半生の一部分を振り返ってみても、馬鹿なことばかりしてきた私だが、この際できるだけ忠実に過去の悪業愚行の数々を洗いざらい告白してしまうつもりである。皆さん、小池という人間のアホらしさ、無恥で、厚顔で、傲慢で、ケチ臭く、間の抜けた面を思い切り笑い飛ばしてください。もし、私に現在何らかの存在意義があるとしたら、それらの批判、嘲笑のすべてを甘受してじっと噛みしめ、耐え忍んでいくことしかないのです。
高校二年の二学期に入ったある日、私は大醜態を演じてしまった。
悪童連に誘われて、それこそ生まれてはじめてアルコールを飲んだ。ウイスキーをコップに二杯、それも当時の悪ガキ共の間で流行っていた、睡眠薬のハイミナール四錠入りを飲んで、たちまちダウン。両側から友の肩に支えられて、小便をたれ流しながら、アパートまで送ってもらった。
父は怒るまいことか、即座に高校をやめさせられてしまった。現在なら、その時の父の怒り、父の哀しみがよく理解できるのだが、当時はまるで無鉄砲だったから、何ら反省することなく、さっさと高校を中退してしまった。
(つづく)
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小池重明氏の幼年・少年時代。切ない話が続く
職業云々は関係なく、昭和20年代、皆が生きるのに必死だった時代だ。
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小池重明氏が育った名古屋市中村区牧野町は、現在はJRなどの鉄道敷地部分のみとなっており、住宅はないという。
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負けると道場が盤駒使用料という名目で一敗局あたり若干の費用を徴収するシステム。
たしかに、辛いけれどもこれなら実力はいやでも上がっていくに違いない。
来なくなってしまうお客さんが増えるなどの副作用もあるが、かなり斬新なシステムに感じられる。
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「ハイミナール」は睡眠薬で、処方箋なしで買える薬として承認を受けていた。
ところが、この薬は飲むと、酩酊感や高揚感を味わうことができたため、1960年代初頭、少年の間で睡眠薬遊びが流行り、多くの少年が補導された。現在の脱法ドラッグのような位置づけだ。
1962年に、ハイミナールに代表される睡眠薬は劇薬に指定さ
れ、要指示薬になった。
とはいえ、1963年に乱用がピークだったという記録もあり、小池青年がハイミナール入りのウイスキーを飲んだのも、まさにこの1年後の1964年。