奨励会幹事が見た1983年度奨励会一次試験

近代将棋1983年12月号、滝誠一郎六段(当時)の「駒と青春 奨励会一次試験」より。

 10月9日、10日に1983年度奨励会一次試験が東京将棋会館でおこなわれた。

 受験者数82名。内訳は、関東68名〔うち女子二人=中井広恵(佐瀬勇次八段門下)・山田久美(西村一義七段門下)〕、関西14名であった。

 今年は一次、二次、三次と3回に分けておこなわれる。今までと違う点は関東関西を合同で行ない、技能試験(対局)では成績さえよければ入会させていたのを20名にしぼるということであろう。

 これについては棋士の間でも評価が別れる。勝負の世界なのだから将棋さえ強ければどんどん入れるべきであるという意見と、実力プラスその素行態度のしっかりした者でなければいけない等いろいろな意見があった。

 このような意見が多くかわされる中、試験が始った。

 10月9日。朝9時より開始なのだが受験生と父兄は30分も前に全員集っていた。

 そこで東西の奨励会幹事、東京は私と松浦四段、関西は東五段と森四段が自己紹介及び受験者に対する注意事項を一言づつ述べた。

 そして最後に武者野担当理事より将棋界のことなどの説明があった。

 9時。筆記試験(将棋に関する問題)

 ちなみに満点は90点で数名。女流の中井二段は80点で山田初段は84点の好成績であった。平均はだいたい40点から50点ぐらいで問題は例年になく難しかったようだ。

 10時。受験生同志の対戦(持時間チェスクロック使用で1時間切れたら1分将棋を3局戦う)今年は受験者の大半が去年落ちた者で占めたので対局態度は例年になく素晴しかった。終局より13時迄休憩(昼食時間も含む)。

 13時より2局目、15時すぎより3局目を行なった。

 筆記試験に始まり1日3局と過酷な条件であったが皆、疲れもみせず打ち込んでいた。

 ただし初日に全敗すると失格であるため、残念ながら9名の者が明日を待たずして去っていった。

 注目されていた中井さんは2勝1敗、山田さんは1勝2敗と初日は通過した。

 10月10日。対局は前日とほぼ同じような形で3局指した。2日目の通過ラインは、初日と合せて4勝2敗となっているために1勝2敗できたものは一局も負けられないので見ていて気の毒なほど真剣な顔をして戦っていた。

 対戦と取り組みは、原則として勝ち勝ち負け負けであてるようにした。このため2日目の途中で帰らなければならない者が40名弱いた。

 3局目を戦う段階では、36名となり、すでに4勝した者には余裕がみられたが、3勝2敗できている者は、最後の対局にすべてをかけて戦った。

 私でも3勝2敗同志で戦っている姿をみるのは忍びなかった。

 特に私が印象に残った勝負は、中川大輔(米長邦雄王将・棋王門下)4勝1敗と脇田栄一(長谷部久雄八段門下)3勝2敗の一戦であった。

 この勝負は、中川君も大事な一番であるには変りがないが、脇田君の場合はこの将棋に負けると失格となる重要な一局だった。

 演出された訳であろうはずもないが、受験者全員が対局をすませ、いなくなった後も勝負は部屋の片隅で続けられ、大熱戦の末中川君の勝ちに終った。

 この将棋を観戦していたある棋士は、「とてもあの将棋は側で見ていられない」と言っていた。私も負けた脇田君の会館を去って行く姿がとても悲しくみえた。

 女流の二人は、中井さんが4勝2敗で通過したが、山田さんの方は残念ながら5局目で失格してしまった。

 今回の一次試験を通じて感じたことは、年々受験者が増えていくなかで棋力の水準が高くなり、しかも対局態度もそれに比例してよくなってきている。そんな中での戦いは、非常に厳しく思えた。

 棋士を目差す者が年々増えていく現在、連盟として昔の奨励会初等科に匹敵する会を作る案があって近い内に実現されるであろう。その内容は、年令が若くて奨励会員(6級程度)に準ずる棋力を備える者同志が戦う場を作るということと、若手棋士による指導が得られるというものである。

 私もこの会が一刻も早く実現することを期待している。

(以下略)

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筆記試験がかなり難しいうえに、2日間で4勝2敗以上なので、想像以上に厳しい。

奨励会入会試験問題(1983年版)

この時に不合格だった受験者の中に丸山忠久少年がいる。

丸山少年は、このすぐ後に設立される研修会に入会し、1年数ヵ月後には研修会Aクラス経由で奨励会に入会することになる。

丸山忠久九段の研修会時代