振り飛車をめぐる戦法の変遷(1976年~1981年:居飛車穴熊登場以降)

近代将棋1982年7月号、小林勝さんの「棋界パトロール 振り飛車をめぐる戦法の変遷」より。

居飛車穴熊登場

 せっかくの位取りも相手にクマられてはあまり効果がないと判断した居飛車陣営。ついに、目には目をの居飛車穴熊をひっさげての挑戦となる。敵さんが頭を低くして玉をガチガチに囲うんならこっちだってやってやろうじゃないかの心である。この、玉の固さで勝負の思想は左美濃作戦と全く同種のものだが

2日目は左美農作戦と全く同種のものだが、現在の流行度と実績、また、考えの極により近づいているの意味で、本項では左美濃にはふれず、居飛車穴熊中心で話を進めて行く。

 次に示すは、昭和51年から現在までの振り飛車対居飛車穴熊の戦績である。

居飛車穴熊戦績(対振り飛車)
1976年度 5勝6敗(0.445)
1977年度 67勝42敗(0.615)
1978年度 50勝44敗(0.532)
1979年度 92勝65敗(0.586)
1980年度 73勝52敗(0.584)
1981年度 47勝19敗(0.721)
総計   334勝228敗(0.594)

 なお、先後別に見ると居穴先手勝率5割8分1厘。居穴後手勝率6割1分5厘となる。

 居飛車穴熊全体の勝率もさることながら、後手番での勝率の良さも注目に値しよう。これは先に述べた急戦策のように、先番ならまだしも後手番では一手の差が、その作戦自体に大きな影響を与えたことを考えると、居飛車側にとって実にたのもしい限りである。

居飛車穴熊の優秀性

 数字の上でなく、具体的かつ理論的にイビアナの優秀性を述べてみよう。

 5図は、昭和51年枻誌指定局面戦=谷川浩
司四段対田中寅彦四段戦(便宜上先後逆)。

 別にどうと言うこともない局面と映るが、ことプロの眼にかかると次のようなことになる。

  1. イビアナ側は、8五まで歩が伸びていることにより、この筋に関して一方的な開戦の権利をもっている。
  2. 前線に出ている銀の位置を比べると、振り飛車側の銀よりイビアナのそれの方が王様に近い。
  3. 振り飛車側の角は固定されているが、イビアナ側は角銀の進退に融通性があり、攻撃性に富んでいる。

 以上、玉の固さなど、他の点は互角なのだから、これらの差が必然的に勝率に現われるわけである。

 5図以下、田中四段は△2四角~△3五銀以下、先手の4六歩を目標にすることで、2,3の利を用い勝利を得ている。

真部流

 イビアナの出現により、振り飛車側は、これに立ち向うべく、さまざまな指し方を試みることになった。

 6図は、昭和55年昇降級リーグ2組=真部一男六段対北村昌男八段戦。

 図で注目すべきは振り飛車側の左銀の活用法である。4六の銀は元の7九よりナナメ一線に上がってここまで来た。序盤において▲6八銀~▲6七銀と普通に運んではこうはいかない。6図以下実戦の経過は△8六歩▲同歩△5五歩▲8八飛△7三桂▲5四歩△6五桂▲5五角△8六飛▲同飛△同角▲8五飛と進み先手優勢となる。

 真部流は、左銀を攻防にフルに使おうとの戦い方であり、対イビアナの有力な戦法と見られた。が、逆にイビアナ側から見れば、6図では自陣は一つの理想型であり、ここまで組み上げれば不満はないという見方もまた成り立つ。味方も十分だが、敵もまた十分ということで、本戦法も、有力対策と言うにはどうもイマイチという感じである。

急戦法

 7図は、今年のNHK杯戦より山口千嶺七段対田中寅彦六段戦(便宜上先後述)。

 イビアナを目指す後手に対し、振り飛車側が▲6五歩と挑発的態度に出た場面である。これは、イビアナが完成する前に決戦にもち込んでしまおうというもので、以前の居飛車対振り飛車戦で、居飛車側が急攻しようとしたことの全くのウラ返しである。

7図以下の指し手
△4四歩▲6七銀△1一玉▲6六銀△2二銀▲7五銀△4二角▲5八金左△3一金▲4六歩△5二金▲3六歩△8五歩▲3七桂△7四歩▲△(7-1図)

 以上の指し手は、手っとり早く言えば、振り飛車側の急戦策は不発に終った、ということを示している。△2二銀はともかく、△3一金と締まる余裕を与えては急戦の意味がないといえる。

 無論、本型でも振り飛車側としては改良の余地もあろうが、現段階ではどうも、うまくないの観が深い。

固さと広さ

 8図は、昭和56年第22期王位リーグ=土佐浩司四段対脇謙二四段戦。

 後手陣はいわずと知れたイビアナだが、先手の玉型は何と呼べばいいのだろう。まったく人を喰ったような囲い?である。一体、土佐の頭はどうなっているのだといぶかるむきもあろうが、どうかご心配なく。8図は大胆な発想の転換の産物である。土佐の意図はこうだ。

―居飛車穴熊は確かに固く、攻撃力も相当なものがある。尋常に固め合っての勝負に分がないとすれば、もう王様を固め合うことはよしにして、守備力の大部分を玉側でなく攻められそうな所に結集・配置して押さえ込みを計り、全局的な戦いを目指してはどうだろう―。

 玉の固さでなく、玉の広さを武器に戦おうとするこの態度は、まさにプロならではの頭の切り替えである。

 さて、この戦いの結果がどうなったか?というと………

 投了図をごらん下さい。

 広さというもののもつ恐ろしさを知っていただければ幸いである。

 大海を泳ぐ先手玉に対し、金銀4枚に囲ったイビアナは何の威力もない。姿焼き一丁上がりの図である。

風車戦法

 玉の広さと全局的守備力を武器に戦うということで忘れてならないのが、伊藤果五段用いる「風車戦法」である。

 9図(昭和54年王将戦予選=伊藤果四段対鈴木輝彦四段戦・先後逆)が、風車戦法の基本形であり、紹介順が前後したが、前述の土佐流と思想は全く同じである。伊藤は本戦法で対イビアナ勝率7割の好成績をあげている。

 投了図▲7八玉まで。広さの威力を十二分に発揮した勝ち方が本戦法の真骨頂である。

 土佐・伊藤流の難を言えば、玉が薄いため、受けを一歩誤ればたちまちにして奈落の底に転落、ということと、開戦の機をつかむことが大変難しい、の二点にあるのであるが、勝率や成功率から見ると、今のところ、本戦法がイビアナに対し一番善戦しているようである。

歴史は繰り返すか

 思い起こせば、戦後まもなくの頃、5五の位は天王山と言われ、広さを重視する思想が支配的であった。それが、升田幸三九段の出現によりスピード重視の流れとなり、現在は次第に玉の固さで勝負の風潮が高まりつつある。

 現代将棋の申し子ともいえるイビアナに、もし、土佐・伊藤流が有力な戦法であるとすれば、広さ→速度→固さ→広さという流れに興味深い符合を見るような気がする。

* * * * *

田中寅彦九段の居飛車穴熊が登場してから、振り飛車対居飛車の構図が全てが変わってしまった。

居飛車穴熊の威力は物凄く、振り飛車がなかなか勝てなくなり、振り飛車党から居飛車党に転向する棋士も多く出たほど。

居飛車穴熊の登場以降、振り飛車の冬の時代が長く続く。

この状況を打破したのが1990年代後半の藤井システムの登場。

それほど藤井システムは革命的だった。

 

振り飛車をめぐる戦法の変遷(1957年~1975年:居飛車穴熊登場以前)

近代将棋1982年7月号、小林勝さんの「棋界パトロール 振り飛車をめぐる戦法の変遷」より。

 現在、棋界はアマプロを問わず「居飛車穴熊』なる戦法が大きく幅を効かせている。その隆盛ぶりは、居飛車対居飛車における『矢倉』戦法と並んで、居飛車対振り飛車の戦いの主流を占めるほどの勢いである。

 今月は、振り飛車をめぐる「戦法の変遷」と題し、昭和30年代から現在までの戦型の移り変わりと、その土台となる考え方についてふれていきたい。ちょっと大また気味ではあるけれど、『振り飛車にはイビアナ、これが最善、これしかやらない、これしか知らない」という御人は、特に、是非とも目を通していただきたい。さすれば、わずか30分程の努力で、将棋がもう一回り大きくなる……かもしれません。

 さて、1図は、昭和33年第8期王将戦挑戦手合=大山康晴王将対高島一岐代八段戦。

 居飛車の高島陣は、”天王山”と言われる5筋の位を占拠し、いわゆる全面戦争での振り飛車陣攻略を目論でいる。しかし、1図をよくよく見てみるに、振り飛車側の玉営の良さがまず目に止まる。そして、高美濃から▲3七桂の起用が実に自然で、以後の戦いでこの桂の活躍が大いに見込まれる。また、互いの角の位置も、後手の角の効きが、先手玉から大きくそれているのに反し、先手のそれは後手の玉頭へとニラミを効かせている。などなど、理屈から言って、どうも、本戦型は居飛車に分がなさそうであり、実際の戦績も芳しいものではなかった。そこで、ジックリ行くのはよしにして、スッパリ切りに行ってはどうかの思想がクローズアップされてくる。

山田定跡

 部分的早期決戦策の旗頭となったのは、今は故人となった山田道美九段である。

 2図は、昭和40年第24期名人戦挑戦手合=大山名人対山田八段戦(便宜上先後逆)。

 図での△5三銀左(先番ならば5七銀左)が、急戦策の眼目手であり、以下、期を見て、△7五歩▲同歩△6四銀と戦端を開いて勝負と出るのである。

 本戦法は、振り飛車側に高美濃に組む余裕を与えぬ点と、好位置に頑張っている振り飛車側の角を攻撃目標にしようとしたもので、銀の出足の鋭さを利した、まさに、理論家・山田八段ならではの将棋の組立てである。

 また、急戦をネラう戦法として、他にも、右銀を△7三~8四とするいわゆる棒銀戦法や、やはり右銀を△5三~△6四と活用する戦法も流行したが、これらの急戦策はいずれも玉の固さの点で大きな不安があり、実戦的に見て勝つのは大変という欠点がある。加えて、振り飛車側の対策も進歩したことや、先手番ならば効く仕掛けも、後手番となると一手の違いで成功がおぼつかなくなったりなどの事情があって、急戦策の決定版は今だに現われていない。山田道美九段存命でありせばと、残念に思うのは筆者だけではなかろう。

玉頭位取り戦法

 持久戦がうまくなく、といって急戦策ももう一つ決め手にかけるとあって、居飛車側は勝負と出「うーん」と唸ったが、窮すれば通ず。昭和40年代に入って、荒法師の異名をとる力戦家・灘蓮照九段が多用していた「玉頭位取り戦法」が、新たに注目を集め始めた。

 3図は、昭和44年第13期棋聖戦挑戦手合==大山名人対中原誠棋聖戦(便宜上先後述)。

 △3五歩と玉頭の位を占めるのが本戦法の骨子。この位を取ることにより、振り飛車側の理想型を阻止するとともに、中終盤の戦いでこの位の威力を発揮させようとの考えである。本型は、7~8筋方面の戦いで桂香が手に入ることが想定されるが、居飛車側は△2五歩~△2三香や、△2五歩~△2四桂~△3六歩など、位を活かした自然な攻めが期待できる。

 3図は、振り飛車側としても相当にうまく立回っている感じだが、何と言っても玉頭の位を張られたうっとうしさは隠せない。

 と、今度は「玉頭位取り戦法」の出現により、振り飛車側が頭を悩ませるハメとなった。

囲いから戦法へ

 4図は、昭和50年第34期名人戦挑戦手合=大内延介八段対中原名人戦。

 後手の中原名人が、2・3・4筋にズラリと位を張ったのに対し、先手の大内八段は、その名も高き穴熊に玉をおさめている。この図、前例の美濃に囲った王様と比べてみれば、位の威力が半減してしまっているの感がある。元来、穴熊囲いの欠点は手数のかかることにあって、そこを急戦によって衝かれると困る意味があったが、居飛車が急戦を捨てて、持久戦の「王頭位取り」で来ればその弱点も相殺され、間合いはピッタリである。「穴熊という囲いを、「穴熊」という戦法にまで昇華した、大内八段を始めとする振り飛車側の工夫により居飛車陣営は再び、被告の立場となった。

 この、「振り穴」について付記すると、振り飛車の大御所である大山名人が穴熊を多用するようになった時期と玉頭位取り戦法全盛の頃が一致しているという事実に気づく。また、位取り戦法流行の初期の頃、位取りで、振り飛車をバッタバッタと当たるを幸いなで切りにした西村一義七段が、位取りの流行に火がつくや、大内八段と共に穴熊を連採し、逆に位取りを相手に戦い”穴熊党幹事長”の座に就いたというのも面白いことであった。

(つづく)

* * * * *

振り飛車と居飛車の戦いの歴史。

江戸時代の振り飛車は、受けに徹して、相手の間違いを待つような非常に消極的な戦法だった。

これを革命的に変えたのが、大野源一九段。

戦後、大野流の攻める振り飛車、捌く振り飛車で、振り飛車の概念が大きく進化した。

1950年代後半からは、大野九段の弟弟子の升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人も振り飛車を指し始めるようになり、プロ、アマチュアを問わず、振り飛車が非常に多く指されるようになった。

その頃が、有効な対策がなかった時代→山田定跡→玉頭位取り戦法の時代。

そして、大内延介九段の振り飛車穴熊の採用で、また新しい時代へと向かっていくことになる。

(つづく)

奨励会で3番目に強いと言われていた先崎学3級(当時)

近代将棋1982年7月号、片山良三さんの「駒と青春 新星ひとつ」より。

 奨励会員との練習対局にも気さくに応じ、情報にも詳しい某四段に言わせると、今奨励会(関東)で一番強いのが達、森下の両三段で、その次はなんとこれから紹介する先崎3級なんだそうである。

 先崎学君。昭和45年6月22日生まれの11歳、東西を通じての最年少である。昨年の11月の奨励会試験に最高の成績で合格、5級で入会した。以来、半年を経過したところで早くも二度の昇級を重ねて現在3級、引き続き好成績を残しているようで、たしかに「ムムッ、只者ではないな」と感じさせるものがある。茨城県水戸市の出身。

 3年前、小学3年のころから米長棋王宅の内弟子生活に入っている。奨励会の入会試験は二度失敗して、三度めの受験での入会である。若いわりに、勝負に対して辛いところを持っているのは、案外、入会試験の失敗が良い方に作用しているのだろうか。

1982年5月6日奨励会例会対局
▲3級 先崎学
△1級 斎藤一弘(香落)

(中略)

 上手斎藤1級が採用した作戦は、△6四銀型の中飛車。そして、さらに△7二飛と袖に振って玉頭での乱戦に持ち込む腹づもりだ。

 先崎3級の対抗策はといえば、それが実に素直そのもの。ただ、1図を見ると、少し素直に指し過ぎた感じがあり、1筋が甘くなってしまったように思う。もっと前に1筋の仕掛けを工夫すべきだったろう。もっとも、そんな細かいことにこだわらずに指しているところに、先崎3級の将棋の大きさがあるのかもしれないが……。

1図以下の指し手
▲6六歩△3二金▲3六歩△4三金▲4六歩△9二香▲6七銀△7五歩▲同歩△同銀(2図)

 ▲6六歩は、「玉頭で強く戦うぞ」の構えで妥当だ。ここで▲1四歩△同歩▲同香と行く手は、△7五歩とされて香を渡すと味が悪いだけに指し切れない。

 ただ、続く▲3六歩、▲4六歩は急ぐ必要のない手で疑問だった。ここは▲6七金から▲7七銀とすべきで、これなら後に▲6五歩(△同銀なら▲1四歩から歩を持って▲6六歩がある)から▲6六銀左(右もある)と厚みを築いて、あとの手に困らない。

 △9二香は、穴熊に組みかえようというもので、この型の上手の常套手段。これにあわてたか先崎3級が指したのは▲6七銀というとんでもない手。斎藤1級に機敏に△7五歩と動かれて、早くもピンチに立った。

2図以下の指し手
▲6五歩△9一玉▲6八金直△6四銀▲7七桂△7五銀▲6六銀右△同銀▲同銀△4五歩▲5五歩△7六歩(3図)

 このままでは△6六銀とされて歩損してしまう。といって▲7七歩と弱気にでると、上手から△9一玉~△8四歩~△8五歩~△8二飛とされて参ってしまう。

 ▲6五歩が最強の応手だ。玉頭戦はひるんだ方が負けとばかりに、先崎3級の強気の手が目立つ。特に▲7七桂という手は、まさに師匠譲りの気合いの良さが感じられる。

(中略)

3図以下の指し手
▲8五桂△8四歩▲8三銀△4二飛▲7三桂成△同桂▲7四歩△6二金▲6七金右△4六歩▲7六金△4七歩成▲7五銀(4図)

 ▲8五桂といったんは逃げて、△8四歩を誘って(△4六歩の方が良かったようだ)▲8三銀と打ち込み、△4二飛に▲7三桂成がちょっと気付きにくい成り捨てだった。△同桂と呼んでおいて▲7四歩。一瞬のうちに上手陣は気持ちの悪い恰好にさせられてしまった。

 ▲6七金右から▲7六金と歩をはらい、さらに▲7五銀と圧力をかけて4図。4筋にと金を作らせたものの、玉頭に築いた勢力が絶大で、上手が勝てない局面になっている。先崎少年の非凡な大局観が指し手に活き活きと現れている場面だ。

4図以下の指し手
△6五桂▲同金△7六桂▲9六桂△8二銀▲8四銀△7二歩▲6六角△6八桂成▲同飛△5三金寄▲8五桂(5図)

 ▲9六桂では、すぐに▲8四銀の方がわかりやすかった。△8八桂成▲同玉△3九角と来ても▲7五桂でガッチリ勝てる。△8二銀とされ、8四に銀が進まざるを得ないようでは▲9六桂が甘い駒になったと言える。

 しかし、上手も甘い手でお付き合いをしてしまう。△5三金寄がその手で、すかさず▲8五桂と詰めろに打たれて(▲9二銀成△同玉▲9三銀成以下)シビレてしまった。△5三金寄では届かぬながらも、△5七銀とカラんでおくところだったか。

5図以下の指し手
△8一玉▲4三歩△1二飛▲7五角△6四歩▲同金

(中略)

 △8一玉の早逃げに▲4三歩が痛烈な利かし。△同飛なら▲7三歩成で容易な必至がかかる。しかし、これを△1二飛と逃げざるを得ないのでは勝負ここであった。前譜の△5三金寄がなんの意味もない手になってしまった。

 以下は危なげのない先崎3級の寄せを待って終局となった。

(中略)

 本局、敗れた斎藤1級としては不満の残る内容だったろうが、先崎3級の力強い駒さばきが印象的な好局と思う。序盤の雑なところも、逆に、伸びる余地十分と感じるのは、私の思い込みだろうか。天性の勝負勘を持つ、楽しみな少年である。

* * * * *

11歳(小学6年)で奨励会3級なのだから凄い。

藤井聡太七段が奨励会3級になったのは10歳(小学5年)の時なので、同じようなスピード感だ。

この年の12月に、先崎学3級(当時)と同じ学年の羽生善治少年、森内俊之少年、郷田真隆少年、一学年上の佐藤康光少年が奨励会に入ってくる。

* * * * *

3図から4図にかけての玉頭の厚みの作り方に唸らされる。小学生とは思えないようなベテランの味の指し回し。

* * * * *

序盤が雑でも中・終盤が滅法強いというのは、奨励会時代の羽生善治竜王も同じ傾向。

* * * * *

将棋の神様が現れて、「序盤、中盤、終盤の三つのうち二つだけ強くしてやる。どの組み合わせを希望するか?」と聞かれるようなことがあったら、迷わず「中盤と終盤」と答えておくのが良さそうだ。

 

「死と乙女」と名付けられた詰将棋

近代将棋1982年6月号、福永望さんの初心者のための詰将棋入門「名作『死と乙女』鑑賞」より。

芸術としての諸将棋

 今回は、芸術的香り高い詰将棋を紹介したいと思います。

 詰将棋は、解く人にとっては、実戦の終盤に強くなるための一手段であり、また無聊を慰めてくれる良質のパズルです。が、これからご紹介する「死と乙女」を並べていただければ、詰将棋の別の面にも気づかれるかと思います。

 先日、短篇詰将棋作家A氏が編集部を訪ねてくれました。色々話していて、話題が山田修司氏作の「死と乙女」に及んだ時、A氏は次のように語ってくれました

「あの作品を初めて見たのは昭和35年頃でした。古本屋で買った『詰将棋パラダイス』の一冊にのってました。解説を読み詰手順を並べた時は泣きそうになりましたネ。その時は多分、解説の方に感動したんだと思います。それから一年くらいたって、今度はあの作品を自力で解いてみたんです。解き終わって、あふれる涙を止めようがありませんでした。自分でもビックリしましたよ、諸将棋で泣いてしまったんですから……ウェルテルを読んで感激し、太宰治に熱中していた18歳でしたから、あの涙も、青春という得体の知れないもののせいなんでしょうね」

 A氏のこの言葉がきっかけで。今回、「死と乙女」を紹介してみたくなったのです。世に「芸術」と呼ばざるを得ない詰将棋は他にもあります。たとえば伊藤看寿の図巧第一番とか北村研一氏の「槍襖」とか奥薗幸雄氏の「新扇詰」です。ここで、あえて山田修司氏作の「死と乙女」を選んだ理由は。この作品の易しさからです。易しさは優しさでもありましょうか。この作品は、2、3級の方でも解くことができます。では。さっそく語手順を追ってゆきます。

詰手順

 なお、解説は名解説者といわれた故・土屋健氏のものを、「詰将棋パラダイス」昭和26年10月号より、そのまま引用させていただきました。

▲7四銀成△8二玉▲8一と△同玉▲7一と△同玉▲7三香△6一玉▲7二香成△5一玉▲6二成香△4一玉▲5二成香△3一玉▲4二成香△同玉▲4三銀△3一玉▲3二金△同金▲同銀成△同玉▲2四桂△4一玉▲3二桂成△5一玉▲4二成桂△6一玉▲5二成桂△7一玉▲6二成桂△8一玉▲7二成桂△同玉▲7三金△8一玉▲8二金打△同金▲同金△同玉▲9四桂△7一玉▲8二桂成△6一玉▲7二成桂△5一玉▲6二成桂△4一玉▲5二成桂△3一玉▲4二成桂△2一玉▲3二成桂△同玉▲3三銀△2三玉▲3五桂△同歩▲3四金△1二玉▲2四桂△1一玉▲2二銀成△同玉▲3三と△1一玉▲1二桂成△同玉▲2三金△1一玉▲2二金まで71手詰

『選者 何んと云ふ美しい旋律に満ちた作であろう、小さな駒が奏でる悲しい迄に麗しい調べは魂を揺り、見る者をして恍惚と酔はさずには置かない。手順が面白い、最初の駒配りに無理がない、詰上り亦美しい、二回注復する玉の画く軌跡を夫々妙手に見たい、など言ふ事は駄足である、まして平易であるの妙手が無いのと論ずるに至っては烏滸の沙汰である。現在迄に発表された山田君の数ある作中でも突兀として聳ゆる最高峰である、長さに於ても純然たる小駒図式(合駒に大駒を使用しない)としては日本新記録であろう。

 が、より重視しなくてはならぬのは、この作が醸すアトモスフェアであり歌ふ詩である。予言者イザヤではないが、かつてこの事あるを予言した選者の言は適中した、山田君はまづそれを為した。小さな駒々が織りなす階調と色彩は永遠の栄光と生命を唱い尽る所を知らない。山田君が本作品に「小独楽」と題したのは、小駒作品である事と独り楽しむと言ふ点より名付けたものだが、楽しむ事は詰将棋の本質だ、然し本作は独り楽しむ境地を遙かに脱し、解く者総てに楽しみを与えずに置かない、その点不適当であると考え、図面に傍註しなかった。「死と乙女」これこそ題するとすれば最もふさはしくはないだろうか。選者はロマンチストではないが反射的にこの題が脳裡に閃めいた、と云ふより全身を以って感得したのである。「死と乙女」これはシューベルトのクワルテット(四重奏)であるが、セロは常に死の如く甘く、低く誘ひ、バイオリンは不協和音を以って、乙女の儚い抵抗をすすり泣く如く亦訴へるが如く救ひを求める、遂に死の勝利の円舞曲で終る。本図では香と桂が取れ取れと玉を誘惑する。取れば即ち死を意味する。右に左に救ひを願ふ玉の悲しい反抗も、勝利の円舞曲を表現する右側に於ける折衝で死の凱歌を以って終る。簡単な序曲より直ちに主題に入り軽快なワルツで幕となる本作品に陶酔したのは選者独りではあるまいと思ふ。近代詰将棋中のロマンスを代表する佳作である。某作家が本題に酔ひ軽い眩量を感じて、己が作品に思ひを致し、「止んぬる哉」の一言と共に駒を投じた、と言はれて居るが、選者は決してそれが誇張とは思へない。再び言ふ、この傑作を題して「死と乙女」』

 土屋健氏の名筆ですべてがつくされています。つけ加えるべき一言もありません。編集子がすることは、変化手順に触れることくらいでしょう。

(中略)

終りに

 作者の山田修司氏は昭和7年生まれ、北海道開発局勤務です。氏は、本作のほか、「禁じられた遊び」や四桂連続中合の名作などの傑作を数多く発表されました。いつの日か、氏が新作を発表され詰将棋界に戻ってこられるのを心から願うものです。

* * * * *

この詰将棋の途中図と変化(中略の部分)は次の通り。

▲7四銀成△8二玉▲8一と(途中1図)

△8一同金なら▲9四桂△9一玉▲8二銀以下詰み。

(途中1図以下)
△同玉▲7一と△同玉▲7三香(途中2図)

△7二歩なら▲同香成△同玉▲7三銀△8一玉▲8二金で、作意の37手目に飛び、作意手順より20手以上短く、歩余りで詰む。

(途中2図以下)
△6一玉▲7二香成△5一玉▲6二成香△4一玉▲5二成香△3一玉▲4二成香(途中3図)

△2一玉は▲3二金△同金▲同成香△同玉▲3三銀△2三玉▲2二金△1四玉▲2四銀成の詰み。

(途中3図以下)
△同玉▲4三銀△3一玉▲3二金△同金▲同銀成△同玉▲2四桂△4一玉▲3二桂成△5一玉▲4二成桂△6一玉▲5二成桂△7一玉▲6二成桂△8一玉▲7二成桂(途中4図)

△9二玉なら▲8二金△同金▲同成桂△同玉▲7三金△9二玉▲8三金打以下詰み。

(途中4図以下)
△同玉▲7三金△8一玉▲8二金打△同金▲同金△同玉▲9四桂△7一玉▲8二桂成△6一玉▲7二成桂△5一玉▲6二成桂△4一玉▲5二成桂△3一玉▲4二成桂△2一玉▲3二成桂△同玉▲3三銀△2三玉▲3五桂△同歩▲3四金△1二玉▲2四桂△1一玉▲2二銀成△同玉▲3三と△1一玉▲1二桂成△同玉▲2三金△1一玉▲2二金(詰上がり図)まで71手詰

成香が左から右に、成桂が右から左に、別の成桂が左から右に、後手玉を追っていって、最後は1一で後手玉が詰む。

* * * * *

作者の山田修司さんが「小独楽」と名付け、選者の土屋健さんが「死と乙女」と名付けた詰将棋。

この近代将棋の記事を見た時は、「小独楽」なら空中の細い紐の上を回転しながら左右に往復運動をする独楽が連想されてピッタリの作品名ではないか、「死と乙女」だと、じりじりと嫌がらせをされて最後は殺されてしまう少女を連想してしまい、味が極めて悪い、土屋健さんの解釈は、それは一つの偏った感じ方なのではないか、と思った。

念のため、シューベルトの「死と乙女」を調べてみると、「死と乙女」は歌曲で、Wikipediaによると、

病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いた作品。乙女は「死」を拒否し、死神に去ってくれと懇願するが、死神は、乙女に「私はおまえを苦しめるために来たのではない。お前に安息を与えに来たのだ」と語りかける。ここでの「死」は、恐ろしい苦痛ではなく、永遠の安息として描かれている。ドイツでは、昔から「死は眠りの兄弟である」とよく言われており、ここでの「死」も一つの永遠の安息として描かれている。

と解説されている。

なるほど、シューベルトの「死と乙女」の世界観なら、この詰将棋を「死と乙女」と名付けるのも大いに納得ができる。

とはいえ、シューベルトの「死と乙女」を聴いて2分で寝てしまったほどの芸術性とは縁遠い私なので、「死と乙女」というタイトルはまだ自分の中では消化しきれていない。

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山田修司さんの詰将棋作品集『夢の華』は1998年の将棋ペンクラブ大賞著作部門大賞を受賞している。

夢の華

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「塚田君、怖いんですよ。小さいころの話をすると……」

近代将棋1983年2月号、金井厚さんの第6回若獅子戦1回戦〔武市三郎四段-塚田泰明四段〕観戦記「武市がいたんじゃ俺は名人になれない」より。

 3階の事務室は閑散としていた。時刻は12時40分。ちょうどお昼どきである。手合課の小倉主任だけがひとり机に向かっていた。そこへ眼鏡をかけた一人の青年が近づいて来て言った。

「12月7日から14日まで対局つけないでください。期末試験なんです」

 青年の名は塚田泰明。青山学院高等部の2年生。学生でありながら棋士。四段。どちらも本業である。将棋のほうの成績は抜群で、本局の前まで21勝7敗。ことしになって長いこと勝率トップを続けていた。

「日曜日はいいだろ」

「いえ、勉強がありますから」

「一つぐらい不戦敗にしてくれよ」

 小倉主任はわざと不機嫌な顔を装って言った。

「いえ、絶対駄目です。勝率が関係してきますから」

「じゃ、内藤九段負かしてくれよ。そうすれば塚田君のいうことならなんでもきく」

 3日後に塚田は、全日本プロトーナメント戦で内藤王位との対戦が決まっていた。

「そんなにお忙しいんですか」

「でなかったら、東京へ来るわけないだろ」

「じゃ、がんばります」

「うん、がんばってくれよ」

「はい」

「頼むぞー、ガンバレヨー」

 小倉主任は塚田が去ったあとも、いつまでも声援を送っていた。勝ちまくるオイソガ氏にはいつも泣かされるのが手合係。とはいえ、まさかこんな密約があるとは内藤王位もしらない。とんだところにおもわぬ伏兵がいたものだ。手合係は中原前名人が負ければ手をたたいて喜び、大山王将がとりこぼせば祝杯をあげるのかもしれない。ま、これは冗談だが、互いの要望を聞き入れ、調整しながら年間2,000局もの手合をつけるのは大変な作業だろう。

 4階の対局室へ行くと、武市がすでに端座していた。今年度、9勝7敗。だが昇降級戦では、塚田とともに4連勝と絶好調。昇級候補同士の一戦だ。

「閉めてもいいですか」

 ふすまに手をかけたのは神田真由美女流1級。隣室では女流対局が2局。ともに中盤戦。塚田とは同門の中瀬奈津子女流初段の顔もあった。二人はベテランを相手にしていた。

(中略)

「きょうは塚田君の誕生日ですよ」

 と教えてくれたのは中瀬奈津子さん。18歳になった。が、まだ2年生。かれは1年をうらおもて経験。出席日数が足りなかったのが一因だが、「ことしはもっと危ない」という。対局のたびごと休まなければならず、勝てば勝つほど欠席が増えるという悪循環。なにごとも両立はむずかしい。だがこの日は学校の創立記念日でちょうどお休みだったのはさいわい。

「塚田君、怖いんですよ。小さいころの話をすると……」

 女流対局終了後、中瀬さんにインタビューを申し込むと、奈っちゃんは、両手の人差し指をこめかみのあたりでたてて、しかめ面をしてみせた。

「わたしも聞きたいわ」

 と神田さん。ちょうど居合わせた蛸島彰子女流名人とともに、階下のレストランへ。

「3つ違いなんです。妹の尚美が塚田君と同い年なんですが、4ヵ月早生まれなんですね。小さいときは妹とよく背比べしてました。”わたし何歳になったのよ””じゃ、背比べしょうって”」

 中瀬さんの父君、俊三氏はアマ四段。志木市の自宅を開放して、近在の子供たちに将棋を教えていた。”と金の会”は有名である。隣接の朝霞市在住の塚田が、初めて参加したのが小学4年の夏。

「さいしょ来たときはひと目かわいくない。将棋強かったからじゃないですか」

「いまかわいいね、素直でね」

 神田さんが首を突っ込む。

「……」

「あんまりいい男は強くならないんですってよ。みんな言ってますよ。谷川さんみたいなのがいいんですよ」

「塚田君っていい男?谷川さんいい顔してるじゃない」

「うーん、そうだけど」

「内藤さん、強いじゃない」

 どうも話が横道にそれますね。

―どっちが早いんですか。

「それが悔しいことに2ヵ月ちがいで兄弟子なんです」

 奈っちゃんはゲンコツを作ってテーブルをたたいた。コップが3メートルほど宙に浮く。

「あら、奈っちゃん、どちらを望むかっていうとね、妹弟子のほうがいいわよ。わたしもよく訊かれるんだけどね、中原さんとどちらが入門が早いんですかって。名人の姉弟子なんていったら、すごーく年上にみられるでしょ」

 蛸島さんのあんな真剣な目つきははじめてだった。

「そうか。将来のことを考えれば妹弟子のほうがいいか」

 奈っちゃんは額に手を当て、頬杖をついた。目が虚ろである。

 あーあ、インタビュアー失格だな。

 対局場へ戻ろう。

(中略)

 奈っちゃんも知らない、塚田の学生生活は友人に語ってもらうのが一番。中等部の1年のときから現在も同級生という立花君は、「数学は強いけど、英語は弱いって言ってましたね、彼は。ことしも危ないんじゃないですか。勉強は一生懸命やってるみたいですよ。たまに試験が終わってから飲みにいくときがあります。あの人もお酒が好きなもんですから、それにお金持ちですから資金源になるんですよ。ガールフレンドは結構たくさんいるみたいですよ」

 と語る。担任の波多江幸枝教諭は英語の先生だ。(小倉主任じゃないけど、ガンバレヨ)高校生といえども、少々のお酒はいまどき珍しくない。対局で休むのはしかたがないが、それ以外に欠席はない。まじめな青年だ。もっとも小学生時分はもっと優等生だった。

(中略)

「挑戦者決定戦ですか?」

 神谷四段が入室し、一言いい置いて、すぐ退散した。二人は笑顔で見送っている。本局の勝者が次に神谷とぶつかるのだ。

「塚田とやりたい」

 神谷はそう言っていたが、はたしてどうなるか。

(以下略)

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このほぼ2年後、中瀬奈津子女流初段(藤森奈津子女流四段)とアマ強豪の藤森保さんが結婚して、さらに2年半後、藤森哲也五段が生まれている。

藤森哲也五段は塚田泰明九段門下。

「中瀬さんの父君、俊三氏はアマ四段。志木市の自宅を開放して、近在の子供たちに将棋を教えていた。”と金の会”は有名である。隣接の朝霞市在住の塚田が、初めて参加したのが小学4年の夏」

のような歴史があっての塚田泰明九段門。

「さいしょ来たときはひと目かわいくない。将棋強かったからじゃないですか」

「あんまりいい男は強くならないんですってよ。みんな言ってますよ。谷川さんみたいなのがいいんですよ」

のような中瀬奈津子女流初段の会話が面白い。

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中瀬奈津子女流初段と藤森保さんの結婚披露宴(近代将棋1984年11月号)
近代将棋1984年11月号グラビア、撮影は弦巻勝さん。