近代将棋1985年3月号、「関東奨励会」より。
奨励会では、昇級を争う月2回の例会のほかに、毎月1回「講習会」が行われている。1月の講師は田中寅彦八段。修行時代の話の中で非常に興味深いものがあったので、ご紹介しよう。
寅彦少年は奨励会員時代、通いの内弟子として、師匠のお膝元の高柳道場に日参し、手合係などをしながら将棋に打ち込んでいた。道場には、兄弟子の宮田四段(当時)がよく顔を出していて、ちょくちょく寅彦少年は稽古をつけてもらっていた。ある日、「おい、トラ。これからケイコをつけてやる。ただし、お前が負けたらオレにコーラをおごれ」ということになった。当時、コーラ1本50円也。50円でバリバリのプロ四段が一番教えてくれるなど、一般の人なら、おいしくてヨダレがこぼれてしまいそうな話である。が、寅彦少年にとっては、事は重大であった。
その時、寅彦少年の全所持金は100円足らず、そこから50円取られてしまうと、渋谷から下宿のある祐天寺間の電車賃がきわどく足りなくなってしまうのであった。
兄弟子の強腕にかなうわけもなく、将棋は当然敗北。寅彦少年は、うまそうにコーラを飲む兄弟子を横目でニラミつけるしかなかった。
初めての夜道をカンを頼りにトボトボと歩いた。間の悪いことにドシャ降りの雨が降ってきた。途中、道が分からなくなる。交番のあかりをみつけ、ホッとして立ち寄ったが、警官の姿はなかった。おそらくパトロールにでも出ていたのだろうが、この時は、『オレがこんな目にあっているのに、サボッていやがって』と無性に腹が立ち、交番のドアに立ちションをして先を急いだ。ようやくにして、三畳一間の下宿にたどり着いた。着替えをするのももどかしく、壁を背にヘタリ込んだ。と、その瞬間。寅彦少年は、今まで経験したこともないほどの血の逆流を覚えた。さっきの交番でのそれとは比べものにならないエネルギーの量であった。『何でオレはこんな目にあわなければいけないんだ』……心底、兄弟子の仕打ちをうらみ、憤った。
『追いつき、追い越すしかない』……いい知れぬ怒りと戦った末、寅彦少年はそう結論した。
「私が、ここまで来れたことの何分の一かは、あの時の決意のおかげです。宮田さんは、あの日私がお金を電車賃分しか持っていないことをあるいは知っていたのかもしれません。おそらくわざとヒドイ目にあわせてくれたのでしょう。兄弟子の愛のムチに感謝しています」と田中八段は結んだ。
環境の良し悪しを決めるのは、実は、その環境の中にいた本人次第であるのかもしれない。
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渋谷から祐天寺まで、東横線で3駅。
調べてみると、徒歩では2.8kmなので時速4kmで歩いたとして42分ほど。
しかし、この2.8kmはナビゲーションシステムが導き出した最短ルートなので、なかなか気が付きにくい道路が続く。
渋谷から恵比寿へ出て駒沢通りを祐天寺に向かうというわかりやすいルートで4.6km。歩いて1時間6分。
15歳を過ぎた田中寅彦少年なので、徒歩1時間はそれほど厳しくない行程。
しかし、道に迷い雨も降ってきたのだから、かなりの苦行になってしまった。
道を知っていて1時間の歩きが苦でなかったとしたら、田中少年のような思いはしなかったことだろう。
そういう意味では、道を知らなかったこと、途中から雨が降ってきたこと、が田中少年にとって幸運に働いたということになる。
もっとも、田中少年が根っからの勝負師魂を持っていたからこそ『何でオレはこんな目にあわなければいけないんだ』と強く感じたわけで、良い方向に全ての条件が整っていたのだと考えられる。
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近代将棋1985年2月号、田中寅彦八段(当時)の第17回連盟杯戦決勝戦〔宮田利男六段-田中寅彦八段〕自戦記「同門の対決」より。
私が将棋に熱中し、渋谷の高柳道場に行き出した頃、宮田さんはもう四段に昇っていて、まだまだ可愛げの残っていた私をいろいろと鍛えてくれました。
これは後になって聞かされたことですが、私が今の師匠に「奨励会の試験を受けたい」と、プロ棋士になりたいとの意志を告げた時、師匠は内心「年がなあ……」と思ったとのことでした。何しろ、高柳門は10歳ソコソコから面倒を見るというのが普通でしたから、私の15歳という年齢は大オソの部類に入ります。師匠が二の足を踏んだのも無理はありません。ところが、このピンチに、宮田さんが「しかし、あれは根性があるから大丈夫ですよ」と口添えしてくれたのでした。
(以下略)
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「あれは根性があるから大丈夫ですよ」
宮田利男四段(当時)も、充分に田中寅彦少年向きの教育的効果を読み切っていたのだろう。