将棋世界1989年11月号、青島たつひこ(鈴木宏彦)さんの「駒ゴマスクランブル」より。
「ライターです。ちょっと専門的な」
初対面の女性に自分の職業を話すときはこう言うことにしている。決して格好をつけて相手の気を引こうとしているわけではない。
「将棋の観戦記者です」
こういう言い方をしたって、大方の女性には分かってもらえないからだ。
(中略)
それでなくたって、昔から、女性と将棋というのはいまいち相性のよくないものとされてきた。なのに、最近のワンレンボディコンギャルに将棋の話をしてもてようというほうが無理である。将棋が強いということだけで女性にもてた経験のある人いますか? そんな人いるわけないでしょう…と、記者は長いことそう思って生きてきた。ところが……。
9月、とある飲み屋で偶然話をした女性。棋士の友人でも、家族でも、女流棋士でもない、ごくごく普通のOLの女の子。だが、その女の子の口からは意外なお言葉が。
「将棋?知ってる。私、羽生君のファンだもん。あの、羽生にらみにしびれちゃう。羽生君、大山名人に勝って、今度竜王戦の挑戦者になりそうなんでしょ。もし挑戦者になったら、衛星放送でしっかり見なくちゃ」
これ、作り話じゃありません。こっちだって驚いた。たまたまテレビで見た羽生が、加藤一二三九段や大山名人をにらみつけるシーンにジーンときたのだそうだ。それだけじゃなく、「羽生君は今、C級1組だから、あと4年は名人になれないのね」なんてことまで。その女性はおっしゃる。
考えてみれば、記者の考えが時代錯誤だったのかもしれない。将棋に対する偏見だったのかもしれない。
あとで羽生五段にこの話をしたら、フフフと笑うだけである。「若い女性からファンレターなんて来るのかな」と聞けば、これまたやっぱり、黙ってフフフである。(来てるナ、あれは)
竜王戦の挑戦者に羽生がなった。超天才の羽生を迎え撃つのは、ファッションセンスでは将棋界一を自負する島。これ以上はないというくらいに役者はそろった。しかもタイトル戦の模様は衛星放送でばっちり中継される。今、将棋界を売らなければ、売るときはないと思う。
(以下略)
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「将棋?知ってる。私、羽生君のファンだもん。あの、羽生にらみにしびれちゃう。羽生君、大山名人に勝って、今度竜王戦の挑戦者になりそうなんでしょ。もし挑戦者になったら、衛星放送でしっかり見なくちゃ」
現代ならば全く不思議ではない女性の会話だが、この頃は書かれている通り、作り話としか思えないほどの世界だった。
このような世界が明らかに変わったのは、2010年前後からだと思う。
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「今、将棋界を売らなければ、売るときはないと思う」
羽生七冠誕生の頃も同じような雰囲気だったと思うが、このようなことは一朝一夕で急に空気が変わるものでもない。(日本中に大フィーバーが起こったが、実際にはその年に将棋マガジンが休刊し、翌年には近代将棋の経営母体が変わっている)
1990年代半ばに、SMAPが将棋をやってくれれば一気に将棋ファンが増えるのに、と考えたこともあったが、それで多少増えたとしても一時的なものだっただろう。
現在の多くの人に注目をされている将棋界を見るにつけ、将棋とネットの相性が良かったという追い風があったことを考慮したとしても、羽生九段をはじめとする多くの棋士が将棋と真摯に向かい合ってきたこの20~30年の積み重ねが、今の姿に結びついた最も大きな原動力になったのだと思う。
直近で見れば藤井聡太七段の活躍も大きい。
「学問に王道なし」の言葉と同様、「将棋の普及や業界としての売り込みに王道なし」と思う。