将棋マガジン1992年1月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。
勝負師の真価は、逆境にどう対処したかで決まる。
いささか旧聞になるが、琴錦の優勝は、その点で印象的だった。
大関候補と期待されていたとき、女性をめぐるスキャンダルが発生した。スポーツ紙はいっせいにこれを叩いたが、見出しを見ると、破門か引退か、という有様だった。
私はあまり愉快でなかった。力士はいい相撲をとるのが第一であり、だらしない相撲をとって批判されるのは当然だが、プライバシーをとやかくいわれるのは、ちょっと筋ちがいのように感じるからである。
そういう状況で、琴錦は優勝した。
マスコミはどう言うか、新聞をていねいに読んだ。手のひらを返す、とはこのことか。スキャンダルは忘れられ、なかには、男の甲斐性みたいに書いてあるのもあった。
勝負師は勝たねばならぬ、の鉄則をあらためて痛感させられたが、それにしても琴錦は偉い。
スキャンダルにしたって、彼には彼なりの言い分があろう。それをいっさい口にせず、マスコミを恨まず、甘えずに、いまに見ていろ、と歯をくいしばった。
もし、言い訳したり、被害者意識を持ったりすれば、今頃は幕尻か十両に落ちているだろう。
ずいぶん昔の話だが、大山にも同じような事件が起こった。こちらはまったくの誤解だったが、それでも、書かれてしまえば痛手はのこる。それを払拭するには勝たねばならない。大山はすぐそれをやってのけた。
棋士が、大山を史上最強の棋士、と買うのは、逆境における強さをよく知っているからである。
(以下略)
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ワイドショーの基本は「他人の不幸は蜜の味」。
視聴率を稼ぐための安易な方法で、昔から続いている。
ワイドショーではないテレビ番組のプロデューサーが公の場で話している(現状を嘆いている)のを聞いたことがあるが、「社会的に成功している人が何かのスキャンダルに巻き込まれ、そのことによって、どんどんその人が失墜すること」がワードショー制作者の大好物であるという。
どこかの週刊誌が載せたネタなどを大きく取り上げ、各局がその人に対する一斉攻撃を始める。
それが本当にあったこと(琴錦の例)の時もあるが、ガセの場合も多い。本当にあったことでも、10のことを20に増幅することだってある。
さんざん、あることないこと悪口を言っておいて、誤報だったとしても、訂正や謝罪などほとんどなし。
あったとしても、視聴者はそのようなことにはあまり興味はなく、強く報じられた誤報の方ばかりが頭の中に残ってしまう。
なんとも、やるせないことだ。
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三浦弘行九段の冤罪事件の時に実証済みだが、ワイドショーでは初めからどのように報じるかのシナリオ(三浦九段を叩く)ができており、事前に取材を受けて、そのシナリオと反することをコメントしても、そのコメントはまず取り上げられることはない。取り上げられるのはシナリオの意に沿ったコメントばかり。
これでは、ワードショーの姿を借りた、創作のドラマと言われても仕方がないだろう。