内藤國雄九段「真剣師は真剣の道ではプロであり、その土俵で戦ったのではプロ棋士もカモにされるのである」

将棋世界1992年8月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「真剣勝負の話」より。

 宮本武蔵は一生の間に50数回の決闘をし、敗れることなしと自ら語っている。

 そのうち幾度かは木刀や薪、船の櫓などいわゆる真剣でないものも用いている。しかしそれで相手を叩き殺しているから真剣勝負の名にはじない。真剣勝負とは生命を賭けた勝負のことで本当の真剣、つまり切れる刀を用いるかどうかは問題でない。

 以前、ある雑誌社が全国のアマ将棋強豪に「将棋が強くなる方法」についてアンケートをとったことがある。なかに「真剣をすること」という回答があった。武士の真剣勝負は命を賭けることだが、将棋の場合は金銭を賭けることである。金銭が賭けられると真剣さが加わるという意味合いから、この言葉が使われるようになったものと思われるが、正しい由来はつかめない。

 この真剣の意味は将棋だけのものらしく、囲碁や花札などでは用いられていないようだ(因みに国語大辞典を引いてみたが、賭け事の意味は見いだせなかった)。

 今回は将棋と真剣の話をとりあげたい。

 賭け将棋を生業とするか、生活の足しにする人を真剣師という。一般にセミプロとも言われるが、ここからプロになったりアマ名人になる人も出ている。

 木村名人に見込まれて付け出し五段でプロ入りし最高の段位まで昇った故・花村九段の話は有名だ。最近亡くなった元アマ名人の小池重明氏にも一時プロ入りの話があったが、実らなかった。最期は貧窮のうちに若い生命を終えている。

 現在、賭け将棋だけで生活している純粋な真剣師がいるだろうか。パチンコではそれだけで生活している人もかなりいるように聞くが、将棋の方は難しい環境になっている。

 かつて師匠がまだ存命のころ、兵庫県の職域団体戦で主将を除いて副将から五将までそうそうたる真剣師を揃えた団体があった(今は1チーム3名だが当時は5名であった)。それは港湾関係の会社で、真剣師たちが臨時に沖仲仕として働きにくることがあるので、その会社のチームに出場しても不法ではないというわけである。トップに出場するのはそこの重役ではじめからアテ馬のつもり。いわばセミプロで固めたこのチームは、知る人が見れば優勝は確実と思われたのだが実際には、毎回出場するのに殆ど優勝したことがなかった。真剣師の特徴は序盤が雑で、一番勝負に弱いというところがある。また独特の妖術も大会のような雰囲気では通用しないということもある。そういうところから、意外に勝てなかったようである。真剣師の数は多かったが、もう真剣では食っていけない時代になっていたことが、職団戦からも推察された。

「賭けないと面白くない遊びはいくらでもあるが、将棋はそれだけで十分楽しめる。将棋に賭けを持ち込んではいけない」。これが私の師匠の持論であった。

 それだけで楽しい将棋に賭けを加えたら余計楽しいものになるのではないかという人もいるが、そうはならない。賭けには麻薬の要素があって、いったんこれにはまるとそれなしには済まされなくなる、また次第に量(金額)が増えるなどの恐ろしい傾向がある。

 私と仲良くしていた数人からなる紳士のグループがあった。たまにその人達の同好会に呼ばれたり食事をしたりして良い関係が続いたのだが、ある時期からなんとなく私を避けるようになり疎遠になった。その人達が指している雰囲気も以前の和やかさがなくなり、なにかぎくしゃくしたものが漂うようになった。指し手が早くなり落ち着きのない品の悪い将棋になってきているのが傍目にも感じられる。

 後に分かったのだが、実はそのときグループ内で真剣がはやっていたのである。金額がどんどん増え、負けるとそれを取り返そうとして早指しになるという真剣おきまりのコースを辿った。

 最近スポーツ関係の著名人を交えたグループが自宅で花札賭博をしていて検挙された。「私らの安月給でも麻雀であれに近い金額までいきましたからね。稼ぐ人ならあの程度は不思議じゃないでしょう」と私の知人は言っている。この場合は誰かの警察への密告でちょんとなったが、将棋のグループは次のような途をたどった。

 中の一人が、賭金の取立を執拗に迫り相手の会社まで押しかけていった。やられた人はついには会社を辞め退職金で負け金を支払うという悲劇的な結果となったのである。

 こういうことで、もとは仲のよかった趣味グループは崩壊した。

 ちゃんとした職業があり収入もある人がどうしてヤクザまがいの取立をするのかと、当時若かった私には解せなかった。師匠が強く賭けをいさめたのは、真剣華やかな時代に幾多の悲劇をみてきた故に違いない。

 真剣はほんとうに将棋を強くするのだろうか。そういう点は確かにあるだろうが、逆の要素がそれ以上にあるのを痛感する。将棋の筋と人間の筋と、この双方を歪めてしまうのである。かつて有望視された奨励会員が真剣の深みにはまって駄目になった例もある。東大出の教師が質のよくない真剣師になりかけた例もある。

大阪在住の大先輩、故・O八段は晩年といってもいい60歳ごろから連続2回昇級を果たした。年齢を加味すれば、今後ともなかなか破れそうにない新記録といえよう。一体どのような一念発起があったのであろうか、私もあやかりたいものである。

 C級1組からB級1組まで上がったのだが、B1においても最初に2連勝し、この快進撃はまだ続くかと思われた。しかしここから急におかしくなっていく。その原因になったのが次のような出来事からであると言われている。

 Oさんは普段から真剣師相手によく指していた。それは小遣い稼ぎよりはむしろ腕を鍛えるという意味があったのだと思う。真剣師から金を巻き上げるというのはプロといえども容易なことではなく逆にやられることも少なくないのである。このとき、Oさんは相手に24倍層という極端な賭率をふった。よほど相手を弱いとみたのであろう。普通大駒一枚の差で倍層(2倍)、二枚で5層というのがこの世界での相場となっている。

 バイソウ、或いは単にソウともいうのは真剣用語で、これは競馬でいうオッズ(賭率)のことである。ちゃんとした手合いで指せばこれは生じないのだが、平手で指すところから大きなオッズが生じる。それにしても24倍層は目茶苦茶といえる。もし一局落としたら、あと24局を全勝しなければ元がとれない。焦るとどんなポカが飛び出すか分からないのが人間というしろものである。この勝負で、なんと2局目にOさんは負けてしまった。そしてその次に5局目にまた負ける。賭金がどの程度だったかは知らないが、とにかく24倍となると大きくなる(噂では負けた1局がB2の年収くらいであった)。

 すぐに清算するのがこの世界の習いである。家に金を持ってくるよう電話を入れる。貯金全部はたいても足りない、そこで奥さんは駆けずり回って……。

家庭不和や生活不安は棋士にとって最大の敵である。Oさんは酒におぼれるようになり対局は全敗、引退をして幾年もしないうちに亡くなった。「惜しいなあ」と関西棋士は呟きあったものである。真剣が棋士生活と寿命を葬り去ったといって過言でないだろう。

 妖術という言葉を先に使ったが、質の悪い真剣師は勝つためにあらゆる妖術を用いる。

 手合い(強さ)を見誤らせる(ごまかす)というのもその一つ。私の想像だが、Oさんはこの妖術にひっかかったのではあるまいか。相手はせいぜい5層までの手合いだったのでは、という気がするのである。真剣師は真剣の道ではプロであり、その土俵で戦ったのではプロ棋士もカモにされるのである。

 最後につけ加えておきたい。これまで真剣師のよくない面をとりあげたが、全部がそうであるというわけではない。一般の賭博の徒と違って、将棋の真剣師にはほんとに将棋が好きで、将棋さえ指せればあとはなにも要らないという純粋な人もいる。通常の仕事が手につかないので、収入を得るためにやむを得ず真剣師になっているに過ぎない。

 こんな人こそプロ棋士として一生を過ごさせてやれたら―。もし私が神様ならそうするのになどと思うのである。

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駒音コンサートでの内藤國雄九段。将棋マガジン1992年3月号、撮影は弦巻勝さん。

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凄惨な話が続く。

内藤國雄九段の師匠の藤内金吾八段が亡くなったのが1968年(昭和43年)なので、これらのことは昭和30年代のことだと思われる。

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「兵庫県の職域団体戦で主将を除いて副将から五将までそうそうたる真剣師を揃えた団体があった。そは港湾関係の会社で、真剣師たちが臨時に沖仲仕として働きにくることがあるので、その会社のチームに出場しても不法ではないというわけである」

この当時、神戸港の船内荷役業は山口組などが仕切っていたので、その港湾関係の会社もそのような系列だったのだろう。

ちなみに、日本の侠客の元祖は幡随院長兵衛とされているが、幡随院長兵衛は口入れ屋(人材斡旋業)を営んでいた。

山口組の船内荷役業という正業の部分のビジネスモデルは、幡随院長兵衛のそれと同じアプローチだったことになる。

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「中の一人が、賭金の取立を執拗に迫り相手の会社まで押しかけていった。やられた人はついには会社を辞め退職金で負け金を支払うという悲劇的な結果となったのである」

この当時の世相ということではないと思う。賭け将棋に狂って、その人の魂まで狂ってしまったのだと思う。とにかく悲劇的なケースだ。

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「それにしても24倍層は目茶苦茶といえる。もし一局落としたら、あと24局を全勝しなければ元がとれない」

平手の24倍層、例えば1局10万円ならば、強い側から見て、勝てば10万円、負ければ240万円ということになる。

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「家庭不和や生活不安は棋士にとって最大の敵である。Oさんは酒におぼれるようになり対局は全敗、引退をして幾年もしないうちに亡くなった」

O七段(当時)がB級1組から降級したのは1964年度(昭和39年度)。

東京オリンピックがあった年度だった。

 

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