羽生善治棋王(当時)「ガリガリいく」

将棋世界1992年6月号、朝日新聞の谷口牧夫さんの第10回全日本プロトーナメント決勝五番勝負〔羽生善治棋王-森下卓六段〕観戦記「羽生快勝、最終決戦へ」より。

将棋マガジン1992年7月号より、撮影は中野英伴さん。

 羽生善治棋王VS森下卓六段。いまやトップ棋士と目される二人の棋士が激突した五番勝負は、森下が2勝1敗とリードして第4局を迎えた。五番勝負が始まるまで二人の戦績は羽生の9勝3敗。竜王戦挑決、天王戦決勝など大事な対局では羽生に名をなさせて、”準優勝男”というありがたくない異名までもらった森下。しかし、昨年の本棋戦初優勝、竜王戦七番勝負では谷川浩司竜王と七番(1持将棋を含む)まで戦い、すっかりたくましくなっていた。一方、第2、第3局では不発だったものの羽生のパンチが健在であることは、初の棋王防衛、2度目のNHK杯優勝などで立証済みだ。

 第4局の対局場は神奈川県秦野市鶴巻温泉の「陣屋」。昭和27年2月、升田幸三八段(当時)が木村義雄名人との対局を拒否して大騒ぎになった「陣屋事件」で有名なところ。それからちょうど40年、木村十四世名人も升田実力制第四代名人もすでに亡い。

 陣屋の人たちは快く、そして温かく我々を歓迎してくれた。若い二人の棋士は、未来に向けて力いっぱいの将棋を見せた。昔ばなしも交えてその熱戦譜をお届けする。

(中略)

 対局室は2階の「松風」の間。階段のところに看板があり、「升田幸三九段が対局を放棄した『陣屋事件で……」と説明がある。つまり”升田指さずの間”というわけ。もともと明治天皇をお泊めするため黒田藩主が大磯に建てたものと説明は続く。欄間などには桐や菊の装飾がほどこされていた。対局室としては申し分がない。

 陣屋での対局を思い立ったのは、やはり升田九段(肩書が長いのでこう書く)のことが頭にあったからである。昨年の4月5日、ちょうど桐山清澄九段と森下六段の決勝五番勝負第4局の日に急逝。その2、3ヵ月前、升田九段が突然「陣屋に行こう」と言い出したと静尾夫人から聞いた。しかし、風邪ぎみとかで中止。結局行かないままになった。「そのときおいでくださればねえ」と陣屋専務の紫藤邦子さんは残念がった。

 ゆかりの場を一度訪ねてみたいという我々の意をくんで、いまは伝説の場となった「松風」の間が対局室に選ばれた。ロビーの壁には囲碁・将棋棋士の色紙が何枚も飾ってある。真ん中に「強がりが雪に轉んで廻り見る 升田幸三」があった。事件の後、升田九段が陣屋を訪れて残したものだ。肩書もなく「廻り見る」に九段の心情があるように感じた。

 40年も経てば、事件も当事者たちの思いもすべて霧の彼方だ。羽生、森下など若い棋士たちが新しい歴史を刻んでこそ意味があるだろう。

(中略)

 前夜は対局関係者だけで、お狩場焼を楽しんだ。途中、餅つきの余興があったが、立ち会いの加藤一二三九段「対局者は腕に力がなくなるといけないから、私が代わりにやりましょう」と赤いハッピを着込んで怪力?を披露した。

 対局の朝6時半ごろ、大浴場にいくともう森下が入っていた。6時に起きて散歩してきたという。「途中くさむらがありましてね。マムシが出てきそうな気がして、引き返してきました」「いや、この辺りは開けているから、マムシは出ないでしょう。ハブが出ますけど」

 どうも口が軽くていけない。

 その羽生が起きたのは8時過ぎ。早寝早起きの森下とは対照的。共通しているのは、対局前夜は絶対に無駄な遊びに加わらないこと。こちらのヘボ将棋を羽生に観戦されて弱った……。

(中略)

 ひねり飛車と決まり、駒組みは急戦含みから少しゆるやかになった。4、5年前には大流行した戦法だ。

 △3三金に加藤九段、「上がらないのもある」といいながら、興味深そうに進展を見守っていた。自分でもひねり飛車は相当多く指しているからだ。

 ▲9七角は丸田流。丸田祐三九段が昭和30年代の後半に公式戦で指し始めた。ご存知の通り、△8九飛成なら▲8八角とふたをし、▲8六飛~▲6八金~▲6九金~▲7八銀で飛車を召し捕る。

 ところが加藤九段はこれより10年近く前、初段のころにすでに奨励会で用いたことがあるという。「何局か指して、稼がしてもらいました」。升田式石田流もアマチュアが指したのを参考にしたのだと紅記者(東公平氏)に聞いたことがある。戦法に名前を残すのには強くなくてはならないというわけだ。

(中略)

 羽生、▲4四歩とたたき、

△同金に▲6五桂。

 対局室に入っていた紅記者が戻ってきて「軽やかに跳ねました」と報告した。羽生、自慢の一手だった。これで森下陣は崩壊していた。

 森下も「これでしびれました」。△6三銀で指せると思っていたのが、あっという間の転落。▲6五桂を放っておくと羽生は「がりがりいく」。森下「そのがりがりで困る」。

 つまり、▲7三銀と打ち込み△同桂▲同歩成△同銀▲同桂成△同金。続いて▲7四歩△7二金▲7三銀までの浴びせ倒しがある。

 森下、せっかく打った6三の銀で△7四銀と歩を取る一手となった。羽生の△5三銀はノータイム。

 森下もノータイムで△同角と取る。ここにもう一つ大きな穴が空いていた。

 ▲5三同桂不成。これがまた森下の盲点となっていた。

 控え室で加藤九段が、「これは後手が駄目」と研究からはずしていた図だった。次に▲4一角の王手銀取りがある。△6三金としても、▲6四飛△同金▲6一桂成で、「後手がお手上げ」と加藤九段。本当に手を上げた。

(以下略)

* * * * *

「その2、3ヵ月前、升田九段が突然『陣屋に行こう』と言い出したと静尾夫人から聞いた。しかし、風邪ぎみとかで中止。結局行かないままになった」

亡くなる少し前に、升田幸三実力制第四代名人がこのように話していたことを、初めて知った。

「陣屋」は、升田実力制第四代名人にとっては、いろいろな意味での思い出があるところ。

虫の知らせ、のようなことがあったのかもしれない。

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「対局者は腕に力がなくなるといけないから、私が代わりにやりましょう」

加藤一二三九段は、後年も、タイトル戦の立会人の時に、前日の検分をはじめとする様々な場面で、気配り・心遣いを見せている。

加藤一二三九段の餅つきは迫力がありそうだ。

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「こちらのヘボ将棋を羽生に観戦されて弱った」

これは、どんなに将棋が強い人でも弱ってしまうと思う。

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「ところが加藤九段はこれより10年近く前、初段のころにすでに奨励会で用いたことがあるという」

ひねり飛車丸田流を、加藤一二三九段がもっと前に指していたというのも、新しい情報。

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途中1図からの羽生善治棋王(当時)の攻めが、あまりにも絶妙。

途中2図からの変化(▲6五桂を放っておいた場合)は、アマチュア好みの猛攻で、羽生棋王の「がりがり」という表現がピッタリだ。

▲5三同桂不成(途中4図)も、ドキッとするような凄い一手。

途中4図以下は、△6五銀右▲同飛△同銀▲4一桂成△同玉▲7五角、までで羽生棋王が勝っている。