将棋マガジン1993年4月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:関根茂 役どころを心得たベテラン」より。
「ベテラン」が多すぎる
10代棋士が旋風を巻き起こしたあたりから、やけに「ベテラン棋士」がふえてきたような気がする。最近は、観戦記などで、真部一男八段、青野照市八段クラスまで、ベテラン扱いされかねない。米長邦雄九段、中原誠名人あたりは、もう押しも押されぬベテランにされている。30代の半ばを過ぎたばかりの田中寅彦八段までもが「もたもたしていると、ベテラン扱いされてしまう」とボヤいたそうな。
これは、どう考えてもおかしい。真部、青野は、れっきとした「中堅」である。米長、中原をベテランと呼ぶのにも、私は異論がある。加藤一二三九段、内藤國雄九段にしても、私の語感でいえば、ベテランではない。
英語のVeteranには、たしかに「老兵、老練家、古強者」の意味があるけれど、同時に”退役”というニュアンスもこめられている。現にアメリカでは「Veterans Day」といえば、「復員軍人の日」を意味する。「ベテラン」という言葉は、和製英語化しているから、もとの意味にごだわるのは野暮くさいけれど、少々、安直につかわれすぎているきらいがある。
米長は、今期順位戦の成績をみるまでもなく、バリバリの現役である。研究量豊富な若手を相手に、正々堂々の戦いを挑む。いざとなれば、「泥沼流」の奥の手も出す。棋士のだれもが、米長の将棋を「ベテランの芸」などとは思っていないはずである。
中原が昨年の名人戦でみせた気力も、ベテランどころではない。ベテランなら、1勝3敗になったところで、もっと脂っ気が抜けるのではないか。たとえはわるいけれど、あれは、中年男が自分の女を奪いにきた若者を、土壇場にきて力づくでネジ伏せたようなものだろう。気力はもとより、腕力も強くなければ、とうていあんな芸当はできない。
加藤には毛ほどの妥協も忌避する求道者のストイシズムが漲っている。”永遠の求道者”がベテランであろうはずがない。
前々期のA級順位戦最終局で、米長-内藤戦は、控え室の検討陣が身を乗り出すような激闘を演じた。芹沢博文九段は「駒をして舞わしめよ」という表現を好んでつかった。シロウト目にも、米長と内藤の駒は、華麗に舞っているように思えた。あんな華麗な舞いを演じられる内藤には、ベテランという呼称はふさわしくない。私には将棋の内容をうんぬんする資格はないが、だいいち、内藤には「老兵」のイメージを寄せつけない艶っ気がありますよ。
私は、まだいちども観戦したことがないけれど、有吉道夫九段は、50代半ばを過ぎて、なお”桃太郎”みたいな若々しさを感じさせる。この人は、都会のチリアクタに染まらない、独特の生活術を身につけているとしか思えない。
ほかにも、ベテラン扱いされてはおかしい棋士が何人もいる。大内延介九段、然り。大内はタイトル戦の立会人席にいるより、腕まくりでもして、盤の前に坐っているほうが、ずっと似合っている。桐山清澄、森雞二、勝浦修、森安秀光―こういった面々は、ベテラン扱いされたら、怒るにかぎる。
まあ、オールドファンの身びいきといわれてもいい。このクラスが、生きのいい20代棋士たちの前に立ちはだかれば、将棋界はだんぜんおもしろくなる。
そこへいくと、やはり大山康晴十五世名人は頼りになった。私は、むしろ大山名人が負けた将棋を観戦した回数のほうが多いのだが、衰えたとか、弱くなったとかの印象を受けたことがない。だれがぶつかっても、同じように撥ね返すゴムの壁があるような感じがした。とうぜんのことながら、私が抱く「ベテラン」のイメージとはかけはなれていた。
”将棋ゴロ”のおかげで
関根茂九段は、安心してベテランと呼べる棋士のひとりである。丸田祐三九段につぐ現役最古参で、しかも、A級経験者だから「古強者」であることも保証されている。ただいま63歳。現在の社会常識でいえば、けっして「老兵」ではないけれど、まずはベテランの典型といえそうだ。
将棋も一筋縄ではいかない。前期のB級2組順位戦の初戦で、昇級候補の森下卓七段が関根に負けて、つまずいた。最終局では、中村修七段がもっと痛い目に遭っている。関根に勝っていれば、中村は昇級できたのに、大魚を逃した。余談ながら、数ヵ月後に結婚を控えていた中村は、昇級で挙式に花をそえることができなかった。
結局、森下も中村も、ふたりして関根に頭を叩かれた。関根は、しっかりとベテランの役目を果たしたともいえる。
もっとも、私が関根にいちばん興味をもっているのは、そういう「ベテランの味」ではない。前々から、関根の経歴に注目していた。『将棋年鑑』の「棋士名鑑」には、こう出ている。
<昭和4年11月5日、東京都葛飾区の生まれ。公務員(農林技官)を勤め、アマ強豪として有名だった。26年、1級で山川次彦八段門。(以下略)>
役人から将棋指しへ―もっとも堅い職業から、語弊があるのを承知でいえば、ヤクザな職業に身を投じた。いくらアマ強豪で鳴らしたとはいえ、これは大転身である。それまでのいきさつを、私は、いちど聞いてみたいと思っていた。
関根はプロ棋士にしては、将棋をおぼえるのが、意外なくらい遅かった。子どものころ、近所で縁台将棋はよく見かけたが、だれも教えてくれなかった。旧制中学2年のころに、ようやくおぼえたという。
夏休みに近くの小学校で、将棋の講習会があった。土居市太郎門下で区役所に勤めている人が、講師にきていた。その人に六枚落定跡の手ほどきを受けた。関根はこういっている。
「それが熱中するきっかけでしたね。戦争も終わりのころだから、遊ぶものもなかった。1年後に、その講師の人に会ったときには、平手で教わってましたから、自分でいうのも変ですが、将棋の素質はあったんでしょうね」
戦争が終わってからも、ほかにすることがないので、近くの将棋クラブにせっせと通った。その主に腕を見込まれて、当時、水道橋・後楽園にあった将棋連盟の道場に、連れていかれた。これがプロの世界に触れるきっかけになった。
プロ棋士になりたかったが、とりあえずは食わなければいけない時代だった。両親が将棋指しになるのを許してくれるはずもなかった。旧制中学卒業と同時に、東京食糧事務所に就職した。そのかわりに、両親を説得して、将棋を指すのに都合がいいように、自宅に将棋クラブを開設した。もっとも、そのために将棋界に入るのが遅れたようなふしもあるという。
当時は将棋クラブで小遣いを稼ぐ、いわゆる”将棋ゴロ”がいて、関根のクラブにもきた。関根は笑いながらいっている。
「けっこう名の通った連中がきたんですよ。私が相手して、負ければ、帰るときに電車賃を持たせるんですが、もっていかれた記憶はほとんどないですね。それはよかったんだけれども、困ったことにもなった。私は勤めてからも、いずれプロになるつもりでいたら、そこへ”将棋ゴロ”みたいな連中がくるでしょう。将棋にたいする親のイメージがよくないんですよ。私が棋士になりたいといっても、親が絶対に許してくれない。そういう連中を見てれば、あたりまえだね。将棋界自体が、まだ貧弱な時代でもあったんです」
元食糧検査官の嘆き
勤め先の東京食糧事務所は主要食糧の管理を業務にした。なにしろ食糧難時代だから、この役所は、たいへんな権力をもっていた。ヤミ米の摘発も、ここの仕事だから、一般市民からみれば、その影響力は税務署に匹敵した。
関根はそこの食糧検査官になった。こう聞いて、ピンとくる人は、たぶん50代半ばから上の人だろう。さらに、農家出身の人なら、如実に思い当たるふしがあるにちがいない。早い話が、農家にとっては、税務署の役人以上に恨めしい存在だった。私は農家に育ったから、そのへんの事情はよくおぼえている。
当時、1億国民の食扶持を確保するために、国家は農家に米の供出量を割り当てた。食糧検査官は、稲の生育状態を調べて供出量の査定をする。査定が甘ければ、ヤミ米を売る余裕ができる。逆に査定が辛ければ、農家は供出に四苦八苦する。
つまり、食糧検査官は農家の生殺与奪の権をにぎっていた。
戦後、ヤミ米肥りした農家もあったが、それは、ごく一部にしかすぎない。大方の農家は供出に泣かされた。私の家は、東京から移住した”にわか農家”だったので、毎年、供出量が決まるたびに、溜め息をもらした。
供出を完納しない農家には、食糧事務所は”キョウケンハツドウ”をすると脅しをかけた。強権発動―家宅捜査をして、米をもっていく。そのころ、中学生だった私まで、そんな言葉をおぼえた。
検査官のサジ加減ひとつで、供出量が決まるのだから、とうぜん、検査官を抱き込もうとする農家も出てくる。関根も、あっさりと認めている。
「稲の生育を調べて査定するのを”坪割り”といってたんですよ。”坪割り”のあとで、たいてい、農家の人が”よろしくお願いします”といって、一杯出すんです。そうすると、先輩が酔っ払って”このくらいのご馳走で、偉そうなこというな”ってなもんで、大げんかになったこともありますよ。そういうのを見ていると、若いわれわれは耐えられなかったですね」
こんな職場にいたことが、また、将棋との縁を深めたともいえるらしい。
「そりゃあ農家の人には嫌われたからね。中学校の友だちに、税務署に勤めたやつがいたんですよ。そいつと、おたがいに、いつまでもやる仕事じゃないな、ってよくこぼしてた。だから、よけいにプロの将棋指しになりたいという思いがつのったんですね。居心地のいい職場だったら、案外、途中で気が変わっちゃったかもしれない」
後楽園の道場で、永井英明氏(現「近代将棋」社長)と知り合った。永井さんは、アマチュア強豪が集まる「青棋会」という会を主宰していた。誘われて、関根は渡りに舟と入会した。
すでにそのころは、東京に関根あり、と名を馳せていたが、強い相手と指す機会に恵まれなかった。アマチュアの強豪が腕を競う大会も、年に1回か2回しかない。青棋会にはいり、さらに、永井さんの幹事役で月1回開かれる将棋会にも出るようになった。関根は懐かしそうにいっている。
「遊びたくてもカネはないし、おまけに、なんにもない時代ですからね。あのころは、みんなそうですが、腹をへらしながら、将棋に青春を燃やしたんですよ」
将棋会の講師には、故塚田正夫実力制第二代名人と山川次彦八段がきていた。関根は一計を案じた。
「とにかく強い人と指したかった。そのためにはプロになるしかないわけですが、親が承知してくれない。”将棋ゴロ”のイメージがわるすぎたんだね。そこで、本当の将棋の先生は、こういう方なんだってイメージアップをするために、山川先生に特別にお願いして、葛飾のわが家までお越しいただいたんです。さすがに親も折れて、奨励会入りを許してくれたんです」
二足のわらじの損得
1級で入門―関根から一言あった。
「ほんとは初段でも二段でもよかったんですよ。なぜか意地悪されたんだね。私より何年かあとになると、木村義徳君(八段・退役)は三段ではいってるんだもの」
ほぼ同期に津村常吉六段(退役)、木村嘉孝六段(同)、宮坂幸雄八段、芹沢博文九段、北村昌男八段などがいる。同じ釜の飯を食った仲ということになるが、関根は食糧検査官と奨励会と二足のわらじをはいた。公務員には年間24日の有給休暇があったし、同僚も助けてくれたので、なんとかやりくりできたという。
このへんも、ふつうの棋士とはちがう。関根は、その感想をこういっている。
「年齢が同じなんで、宮坂君とはいちばん仲がよかったんです。彼は中学生(旧制)のときに体をこわして、進学をあきらめた。卒業してから、将棋が強かったんで奨励会にはいった。だから、勤め人の世界に憧れをもったというんですね。私は、憧れてもらえる職業じゃなかったけれども、勤め人の世界も経験したわけです。損得両方ありますね。やっぱり、奨励会にはいるのが遅れたのは大きいと思いますよ。勤めがあるから、将棋を勉強する時間がすくないということもあったでしょうね。そのいっぽうで、外の飯を食ったというプラスもあると思うんです。将棋界とちがって、勝ちゃあいいんだろう、という世界じゃないわけでしょう。職業柄、いやなことも見てますよ。そういう経験は直接、将棋には関係ないけど、どこか、自分にもわかんないところで、プラスになっているような気はしますね」
昭和28年12月、四段昇段。ようやく食糧難時代も過ぎて、米の統制が有名無実化しつつあった。食糧事務所も人手が余って、人員整理をはじめた。そのさい、希望退職者には外交官並みに特別待命制度を適用することにした。つまり、退職後も1年間は給料がもらえる。まことにタイミングがよかった。さっそく名乗り出て、一足のわらじを脱いだ―<33年、〔高松宮賞〕を受賞。第4期〔棋聖戦〕=39年度=では初の七段からの挑戦者で大山五冠王に挑戦した>(「棋士名鑑」より)
全盛期の大山に2勝3敗で敗退した。当時を振り返って、
「自信にはなったと思うけどねえ。そのあとは大した成績を上げてないねえ。やっぱりAクラスに定住することが、トップ棋士の条件ですよ」
最後に若手棋士にたいする印象ないしは注文を訊いてみた。
「若い連中を理解できるほど、たくさん指してないんですよ。勝負にたいする真剣さは、むかしもいまも同じだと思いますね。ただ、私たちのころとちがって、優等生タイプばっかり目立つようで、ちょっとさびしい感じはするね」
そういう優等生の頭を叩くことを、ベテランの役割と心得てください。期待してますよ。
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「あれは、中年男が自分の女を奪いにきた若者を、土壇場にきて力づくでネジ伏せたようなものだろう」
この表現は絶妙だ。
たしかに、ベテランという言葉の使い方は難しい。
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「前々期のA級順位戦最終局で、米長-内藤戦は、控え室の検討陣が身を乗り出すような激闘を演じた」
内藤國雄九段が後手番で、筋違い角坂田流向かい飛車を採用。非常に華々しい将棋で、内藤九段が勝っている。
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旧制中学は修業年限が5年間で、現在の高校2年生の年齢で卒業だった。
当時、旧制中学まで行った棋士は少なかった。
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終戦直後はかなり混乱した時代。
この当時の米の供出は、農家の自家消費用以外は政府の定める条件で強制的に政府に売り渡す制度。引き取り価格が非常に安かったので、農家からの反発は大きかった。
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「居心地のいい職場だったら、案外、途中で気が変わっちゃったかもしれない」
将棋クラブをやってプロ棋士への道が遠のき、国家公務員になったらプロ棋士への道が近づき、本当に、何が幸いするのかわからないものだ。
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「そのいっぽうで、外の飯を食ったというプラスもあると思うんです。将棋界とちがって、勝ちゃあいいんだろう、という世界じゃないわけでしょう。職業柄、いやなことも見てますよ。そういう経験は直接、将棋には関係ないけど、どこか、自分にもわかんないところで、プラスになっているような気はしますね」
幼い頃から関根茂九段のエピソードを聞かされていた関根九段のお嬢さんの千恵さんは、父親のように夢を諦めずに努力し、自身の生涯の仕事にしていくことに大きな憧れを持っていた。
千恵さんは大学卒業後、製造業でSEをやっていたが、本当にやりたかった自然化粧品の仕事と出会い転職。そして現在では自然化粧品の企画・開発、販売、卸し等を行っている会社を経営している。
関根九段は、外の飯を食べたことが「自分にもわかんないところで、プラスになっているような気はしますね」と述べていたが、お嬢さんのプラスにもなっていたことがわかる。
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