羽生善治竜王、田中寅彦八段、森下卓七段、佐藤康光六段による座談会

将棋世界1993年8月号、座談会「米長邦雄新名人を大いに語る」より。

出席者は、羽生善治竜王、田中寅彦八段、森下卓七段、佐藤康光六段。(タイトル、段位は当時)

将棋世界同じ号より。

―今日は米長新名人誕生に関して大いに語っていただくということで、皆さんに集まってもらいました。新名人誕生にまつわる秘話など、興味深いお話が出てくることを期待しています。

田中 見事でしたね。挑戦者側の4連勝というのは名人戦では初めてのことだったですからね。

羽生 どちらが勝つにしても、一方的になるとは思っていませんでした。中原名人が波に乗れなかった、という感じがしました。

森下 逆に、米長先生が波に乗った。

(中略)

羽生 米長先生は、ここ3年か4年くらいでずいぶん将棋が転換したという感じがします。以前は、自分なりの将棋を押し通すという指し方だったように思いますが、最近はそれとは逆になってきたような感じがします。

田中 方向転換といえば、中原さんもしてきたですよね。加藤さんに、それまで9期続けてきた名人を取られた時。また、谷川さんに名人を取り返された時。その都度、私の想像するところでは、おそらく引退を考えたほど思い悩んだのではないかと思います。でも相掛かり▲5六飛や、▲3七桂から▲3五歩と突き捨てていきなり▲4五桂とか、次々に新しい戦法を引っさげてカムバックしてきました。

佐藤 確かにそうですね。ごく最近でも、相掛かり戦の中原囲いに代表されるように、新戦法をどんどん発表してますものね。

森下 周りの状況に即応して自分のスタイルを変えていけるというのは、さすがに凄いですね。あまりに現状に適応し過ぎると環境の変化についていけなくなってしまい、真の繁栄はありえない、という説もありますからね。

佐藤 今、気づいたんですが、二人の方向転換の仕方っていうか、今の中原対米長戦て、それまでの戦い方の質というか傾向が全く逆になっていますね。

羽生 そうですね。2年前、4年前くらいの名人戦だと、米長先生は「米長矢倉」とかに固執してた感じですね。それが、今度の名人戦は、逆に中原先生が自分の形に凄い固執していたような印象ですね。

田中 中原さんが流行型の最先端を行ってて、それに米長さんが独自の指し方で対抗してた。そういえば、その頃、米長さんがポロッとこぼした言葉があって、それがいまでも頭に残っています。こう言ったんですよ。「中原誠という男は、初めての局面では異様に弱いけれども、同じ将棋を二度やったら異常に強い」と。

森下 それは、米長先生らしい鋭い視点に立った言葉ですね。

田中 自分で序盤の二ヘタ、なんて言ってましたからね。ところが、今ではヘタどころか、序盤で作戦負けになっているのを見たことがありません。

羽生 最近の中原先生は、流行に対して全く別の路線である中原流の相掛かりをやったり、矢倉でも独自の道を開拓していこうとしていますね。二人とも、最先端を行こうとする気持ちは同じなんですけど、向かっていく路線が全く正反対みたいになっているのが面白いですね。米長先生が舗装されている道路を走っているとすると、中原先生は、全く未開のジャングルを切り開いていってる、という感じがします。

田中 中原囲い、対森下システム△2二銀型とかね。それに対する対抗策を一緒に練ったのが、ここにいる皆さんの羽生、森下、佐藤と、そして中原名人の弟弟子である島七段なんだから、中原ファンが聞いたら怒るぞぁ(笑)。

佐藤 いえ、それじゃなんだかボク達悪いことしてるみたいじゃないですか。

田中 あれっ。そうじゃないの(笑)。

森下 そんなに突っ込まないで下さいよ。ボク達は、米長先生に味方しようとか、打倒中原を目指すだとか、そういう気持ちで研究してきたのではありませんから。

―名人戦の七番勝負の対局の合間に、米長先生が島七段の研究会に参加したという話がありますね。

佐藤 あれば、確か2局目が終わった後でしたかね。米長先生から電話があったのは。

羽生 そうそう。ゴールデン・ウィークの前でしたから、そうですね。

佐藤 朝8時に電話で起こされました。

―棋士は総じて夜型ですから、対局のない日の朝8時は、かなりの早朝に当たりますね。

田中 一般のサラリーマンの方達の時間感覚では、明け方の4時か5時というところでしょう。

佐藤 ええ(笑)。それで「今日は、何してるのか」と、聞かれて「島先生の研究会があります」って答えると、「じゃあ、そこに行っていいかな」と。

田中 米長さんの夢枕に、亡くなったお父さんが立ったという日のことですね。それは。

―島研究会に米長先生が来て、どんな将棋の研究をしたのでしょうか。

羽生 第1局の将棋を並べて、どこが悪かったのかと皆でいろいろ調べたり、例の森下システムに対する△2二銀の将棋を調べたりしました。

田中 その他にもいろいろやったんでしょうが、その二つの研究が結果的には図に当たった形になったんですね。

佐藤 第4局の1日目の日は、対局で大阪にいて、ホテルのテレビで局面を見ていたのですが、将棋が対森下システムの△2二銀だったのでビックリしてしまいました。

森下 ああ、あの将棋ですね。ボクも、(1図から)先手の3六銀を▲3五歩と合わせて△同歩▲同銀△3四歩▲2六銀というふうにわざと悪型に持っていくという指し方をされたときは驚きましたよ。いや、驚いたというより、へえー、そんな指し方があるのか、っていう感じでしたかね。

photo_15

羽生 そうですよね。2六銀の形は、第一感、次に▲2五歩と合わせて▲3六銀と形を良くしたいと思うところですから。

森下 研究会の10秒将棋で、後手番を持って森内さんに指されて負かされましてね。3六の銀が移動したあとに桂を打って、2筋と4筋からごりごりやってくる手が相当厳しいんですよね。家に戻ってからも、一人でああでもない、こうでもないと、いろいろやってみたのですが、やはり、あの形は後手がやや苦しい形勢のようですね。

(中略)

―米長道場には、大勢の出入りがあったと聞いています。その中でも、主だったのが森下さんであるとのことです。

森下 いえ、私が特別ということではないです。

田中 また、そんな謙遜して。知ってるんだよ。米長さんが、若手の研究仲間に入れて欲しいって言ってきたとき、君がなんて言ったかって(笑)。まず、最初、若手棋士に米長さんが、「ボクの将棋をどう思うか?」って聞いたら、「先生の将棋は立派です」と答えるんで、米長さんは、これは本当のことを言ってないなって見抜いて、お酒をうんと飲ませた。それで、頃合いを見て「ところで、ボクの将棋はどうかね」と聞いたら「じゃあ、正直に言います。先生の将棋は、古いです」って言ったそうじゃないか(笑)。

森下 いえ、古いです、と言ったのは私ではありません。

一同 (笑)。

田中 それじゃ、その後、米長さんが「どうしたら新しい将棋を教えてもらえるか」と言うのに「それには条件があります」って言ったのは、だれ?威張らないこと、とか、ご馳走をしてくれること、とか。

森下 いえ、そんな条件は、私は出した覚えがありません。

佐藤 でも、確か、二つの条件を森下さんが出したという話を聞いていますけど。

田中 ほらほら

森下 いえ、私は条件は出しませんでした。「一緒に将棋をするには審査があります」と、言ったんです。

田中 うわーっ、それも凄いね。

羽生 米長先生と言えば、当代の超一流棋士ですものね。

田中 その先生に審査がある、というのはさすがですねえ(笑)。で、なんて言ったの。

森下 「二つの審査があります」と、言いまして、「一つは、将棋がボク達よりも強いこと。もう一つは、将棋に情熱を持つこと」です。「この二つのうち、どちらか一つなければだめです」と、言いました。

佐藤 一つじゃなくて・・・

田中 二つともあったんだ。考えてみればそうだよね。熱意がなくっては若手は一緒になって汗を流そうとはしませんよ。

佐藤 米長先生の熱意が我々に伝わってくることはいつも感じますね。

羽生 森下さん達が集まる時間は、とても朝早くて、ボクはとてもついて行けませんでしたけど、なんでも、米長先生は名人戦の対局時間に合わえて、生活のサイクルにもずいぶん気を使っていたそうですね

佐藤 コンディション作りですね。名人戦は朝9時から対局が始まるから、その時間には頭がいつでもフル回転できるような状態にしておくということですね。

田中 棋士はどうしても、朝弱くて夜になると目が爛々と輝いてくるという夜型の体質になりやすいですからね。それを意識して変えようとしたというのには頭が下がりますね。並みの思いでは、そうはできないですよ」

羽生 そう思うこともさすがですけど、やはり、それを実際に成し遂げたというのが、なお凄いですね。

(以下略)

—–

名人になるのがいかに大変なことかが実感できる。

歴史的な証言が凝縮されている座談会と言えるだろう。

—–

日経BP社が2005年に行った東京・大阪圏の若手社員200人に対する調査によると、平均起床時刻は6時43分とのこと。

棋士にとって対局のない日の朝8時が一般のサラリーマンにとっての明け方の4時か5時に相当するということは、棋士が起きる時刻は9時43分~10時43分と計算されることになる。

現代はもっと早起きになっているのかもしれないが、棋士の平均起床時刻、平均睡眠時間という調査があっても面白いかもしれない。