ヒューマンファイリング「SMの帝王といわれて・・・」(前編)

団鬼六さんへのインタビュー記事。

週刊将棋1985年9月25日号、湯川博士さんのヒューマンファイリング「SMの帝王といわれて・・・」より。

 団鬼六という名には魔力がある。数あるペンネームの中でも傑出したもので、どんな文学賞をもはじき飛ばす妖力が潜んでいる。『団鬼六』は、はじめ小さな鬼火であった。それが今では、主人である黒岩松次郎でさえどうにもならぬ、巨大な化生に成長してしまった。

救われること三度

 松次郎は早熟の子で、十六歳(関西学院高校一年)のとき、藤原義江歌劇団公演を見て感動し、オペラ歌手になる決心をする。生家が映画館(彦根の金城館)を経営していたせいか、演劇に情熱を燃やした。

 高校で生徒会長になるや演劇部を創設、自ら脚本を書き主役を演じた。その脚本は兵庫県コンクールで第一位に。大学に進み、劇団を創立し創作劇を続々と発表した。

 ところが尊敬する劇作家はと聞かれ、長谷川伸、岡本綺堂と答えたところ、先輩に程度が低いと笑われ、憤激する。大衆演劇をバカにする学生劇団に見切りをつけ、どさ回り劇団に入って地方巡業へ。その後軽音楽部に入ると、高島忠夫がドラムをたたいていた。

「学生時代は演劇やったり音楽やったりアルバイトやったりで、とうとう一年落第。卒業のときどうしても頑固な先生がいて、論文を通してくれない。それで友だちに相談したら、あの先生将棋好きやから一ぺん指してみたらエエ、いうんですワ。ボクの将棋は中学のころ家に出入りしていた真剣師の鶴次郎という人の仕込み。オヤジとも真剣ばっかりで覚えた柄の悪いもの。大学でも将棋部に顔出してましたから、ちょっとは自信あった。

 教授のところへ論文頼みに行きましたけど、やっぱりダメ。先生、将棋一局いかがですかと切り札を出したんですが、何いっとると一喝されまして。それで肩落として帰りかけたら、君ィ、将棋するんかネ、と声がきた。しめたとばかり十局ぐらい指しました。そしたら、君、明日も来なさいって、それで卒業OKです。それからは将棋が吉の神になったようです」

 鬼六先生、テーブルの冷茶がなくなるや、スイと立って冷蔵庫から缶ビールを出してくる。無造作にみえる一連の動きに、人をリラックスさせ、なにもかもまかせてしまいたくなる雰囲気がある。

「将棋では一命をとりとめたこともあるんですよ。忘れもしません。昭和三十四年ですよ。そのころまだ二十八でしたが、小説が当たって映画化される金は入るで、面白半分に新橋でバーを開いたんです。女の子を何人も置いてね。そこへ当時二枚目俳優の高橋貞二が遊びに来た。飲んで騒いでいるうちに盛り上がっちゃって、横浜へ繰り出そうということになった。ところがちょうどそこにボクの将棋友達が入ってきて一局指すことになった。連中もはじめは待っていたけれど、将棋が長びいているんで先発することになった。

 そうしたら、ナントその車が大事故を起こして、高橋貞二は死んだ。あのとき将棋が長びかなかったら・・・まずあの世に行っていたでしょうね」

 命の次は金である。

「だいたい、バーを開いたことはボクにとって非常なマイナスでした。せっかく作家として軌道に乗りかけていたのに、無駄なエネルギーをとられて。目をかけてくれた文春のK氏にも絶縁されて、酒と女で破滅的になりまして。むろん原稿なんか書けない。詐欺には引っかかる、酒場は赤字で苦しむ。それである月どうしても金が要るので、いつも面倒みていた金融屋に都合つけてもらうことになった。

 ところが月末の当日になって、できないという電話です。裏切られてガックリ。ぼんやり店の隅でたばこを吸っていると、いつも空きビンを買いにくるクズ屋が入ってきた。

 このクズ屋は将棋が好きで、ボクが二枚落ちで教えていた。ダンナ将棋指しましょうというから、冗談やない、それどころじゃないと。どうしたと聞くから、こうこうだと答えた。そしたら、いくらだと聞くんですよ。五十万円(現在の五百万円以上)だっていうと、サッと出てってすぐに帰ってきた。それで新聞紙に五十万円包んだのをポンと置いて、さあダンナ、これで将棋指せるでしょ。思わず唖然としました」

 このシーンは映画になりそうだ。借りた松次郎も大物になったが、このクズ屋もきっと成功したであろう。

つづく

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「さあダンナ、これで将棋指せるでしょ」

全身に鳥肌が立つほど格好いい。