郷田真隆五段(当時)「京都のお寺をお参りして帰ります」

将棋マガジン1993年11月号、高林譲司さんの第34期王位戦 シリーズを振り返る「短かった夏」より。

王位戦第3局。将棋世界1993年10月号より、撮影は弦巻勝さん。

 今年の夏は短かった。吐く息まで燃えるように暑い日は、ほんの数日。のどもと過ぎれば何とやらで、今となれば、そんな暑い日はあったかなと首をかしげるほどである。

 むしろ雨天の記憶ばかりある。

 王位戦を担当して以来、七番勝負が私の夏になった。

 開幕時、今年はどんな勝負が見られるかと、期待に胸はふくらむ。子供のころの、夏休みを向かえる時の高揚感と根っこは同じだろう。

 七番勝負の間はそれなりに忙しい。忙しさはまた楽しさである。原稿、酒、余暇のゲーム。すべて仕事といえば仕事、遊びといえば遊びで、睡眠不足までが愉快である。何より最高峰の将棋を現場で、同時進行で見られる喜びは格別。

 しかし、やがて勝負がつく。夏の間、行動をともにした対局者が勝者と敗者に分かれる時である。気候とは関係なく、私にとってその時点で夏が終わる。

 破れた棋士との別れに伴う寂寥感。将棋会館に行けばいつでも会えるし、その後も酒を飲んだり、ゲームをしたりはできる。それとは別の話である。

 今期、その棋士は、いうまでもなく郷田真隆前王位だった。

 昨年、この涼やかな棋士はさっそうと谷川王位に挑戦。見事に初タイトルを奪取してみせた。郷田新王位の誕生で、将棋界がいかに活気づいたか。

 しかし1年後、羽生善治竜王の挑戦を受けて失冠した。力が出ぬままの4連敗。

 今期王位戦は雨に始まり雨に終わったが、その雨の記憶とともに、今年の夏は確かに、あまりにも短かったのである。

 しかし一方で、若き大棋士、羽生五冠王の誕生が、今期王位戦の大収穫であった。

 羽生竜王が挑戦権を得たのは6月25日。挑戦者決定戦に勝利したあと。

「今までタイトル戦はすべて先輩が相手でした。同年代とは初体験で、大いに楽しみにしています」

 と羽生竜王。

 郷田、羽生ともに22歳。このフレッシュさが、今期の最大の売り物であった。

 5日後の30日には、新聞特集用の取材と撮影で郷田王位と会ったが、

「過去3回のタイトル戦はすべて谷川王将が相手。羽生さんは初めての違う対戦相手であり、違う部分が出て来そうで楽しみです」

 と、ほぼ羽生と同じ感想を述べていた。

 二人の口から同時に「楽しみ」という言葉が出たのは偶然ではない。

 タイトル戦といえば、中原であり、米長であり、加藤だった。続いて高橋であり南であり、誰よりも郷田と羽生にとっては谷川だった。

 今回、初めて同年の棋士とタイトルを争う。先輩が相手なら、それなりに気を遣う。相手に敬意を覚えれば覚えるほど、そうである。

 その抑圧感がない初めてのタイトル戦。「楽しみ」という言葉の中に、二人の晴れやかな開放感が表れている。

 第1局は7月13、14日の両日、岐阜県・下呂温泉の「水明館」で行われた。

 雨の対局となったのは前にも触れた。この時季、日本列島はようやく夏を迎えようとしていたが、岐阜県上空にはまだ、頑固な梅雨前線がはびこっていた。

 雨は前日の下呂入りの列車に乗っている時から激しくなり、終局まで降り続いた。

 先手をひいた羽生はヒネリ飛車を王位戦デビューの戦型とした。▲7七桂を決めるまで、それほど時間を使っていない。先手番ならヒネリ飛車と、すでに決めていたようである。

 対する郷田、2筋の歩を早くに突き出す独自の構想を披露したが、その後の指し手がやや暴走気味。それを的確にとがめたのは、さすがに羽生というべきである。優位をつかんでから勝ちを決めるまで、羽生は完璧であった。

 郷田王位は第1ラウンドで急所にパンチを浴びた格好になった。

 帰途、不思議にも見事に晴れ上がり、両者の顔はさわやかだった。羽生はもちろん、郷田も負けのショックをいつまでも引きずる性格ではない。

 第1局と第2局の間はちょうど1週間。この短い間に、将棋界では大きな出来事が3つあった。

 まず7月17日の土曜日には森下卓七段と佐藤康光六段による第5回IBM杯の決勝が行われ、佐藤六段が優勝を決めた。

 そして翌週19日の月曜日。谷川棋聖に挑戦していた羽生竜王が、ついに棋聖を奪取して四冠王となった。これにより、王位戦の方は単に22歳同士のフレッシュな対決というだけではなく、羽生が史上最年少の五冠王になるかどうか、そちらの興味で一気に注目を集めることになった。

 時の勢いというものがある。郷田には今期、不利な条件がそろってしまったというしかない。

 翌20日は、将棋界はじまって以来の2,000人という大人数を集めた米長新名人の就位式が行われた。郷田も羽生も端正なスーツ姿で出席。人気ものらしく、二人の周囲を常にファンが取り巻いていた。

 その翌日、21日が王位戦第2局の移動日である。羽田から飛行機で千歳へ飛び、そこからは車。夏の緑に覆われた日高山脈を突っ切り、一大リゾート地、占冠のアルファリゾート・トマムへ。山中、突如あらわれた高層ビル群に、羽生は「近未来都市のよう」と感想を述べた。

 先手の郷田王位は矢倉に誘導。羽生四冠王を相手に2連敗はあまりに厳しく、郷田にとっては早くも正念場の一局である。矢倉の選択は、存分に力を出そうとの思いからだろう。

 まず郷田玉頭の周辺で小競り合いがあった後、郷田は羽生陣めざして力強く反撃。しかし羽生はここでも冷静に指し回した。二度出現した△3七角がいずれも急所で、郷田は窮地に追い込まれた。

 双方玉が堅く、長い中盤戦が展開。その後半、郷田に一瞬チャンスが到来した。それを逸し、以下は羽生の一気の寄せを見るばかりとなった。

 羽生は七番勝負に入る前の決意表明の中で「いつもスタートが悪い。1、2局を乗り切れば、何とか―と思っています」と語っている。

 それが実現した。

 また予想対談に出席した中原前名人は、

「私は七番勝負の場合、どちらかが2勝した時点で前半戦終了。次からは後半戦と考えています」

 と独自のタイトル戦観を語った。

 とすれば、今期王位戦は第2局終了の時点で、後半戦に突入という異例の早い進行となった。

 月が変わり、8月3、4日が第3局の対局日。場所はおなじみの有馬温泉「中の坊瑞苑」である。

 第2局に続いて矢倉となり、「行くしかない」と、郷田が△5五歩と中央から戦端をひらく将棋となった。しかしすでに王位奪取の感触を自分のものにしている羽生は巧みに応戦。逆に▲5四歩と郷田陣を圧迫する形を得て優位に立った。

王位戦第3局。将棋マガジン1993年10月号より、撮影は中野英伴さん。

 対する郷田は2時間29分のまさに大長考で△8二飛と戻ったが、他人が立ち入れない、孤独な苦考だったはずである。その後、やはり一瞬のチャンスはあった。しかし勝負の流れはすでに完全に羽生のものとなっていた。

 翌朝、事故で新幹線の東京-大阪間が長時間にわたって全面ストップするというハプニングが起きた。第2局でも対局中に停電するなど、今期王位戦は事件続きだったが、これが極めつけである。

 夜になり、ようやく乗れた新幹線の中で、郷田はただ一人別の車輌へ移って疲労に耐えていた。

 8月17、18日、福岡市「セントラーザ博多」での第4局が、ついに最終局となった。この対局も雨が降り続いた。

 三たび矢倉。長考派といわれる郷田がノータイム指しの連続で果敢に戦いを起こした。過去にも数局実戦例がある戦型。

 終盤の攻防は、今シリーズ随一というべき難解な白熱戦が展開した。しかし郷田はついに及ばなかった。18日午後6時40分、郷田が投了を告げると、待機していた報道陣が対局室になだれ込んだ。

 両者は淡々としていた。

「第1、2局でお粗末な将棋を指し、課題を残しました。また出直します」

 と郷田。

「ここ1年調子がよく、王位戦でも持続することができました」

 と五冠王になった羽生。

 いずれも冷静にインタビューに応じ、やがて感想戦に移行した。

 羽生五冠王の誕生は三社連合系のみならず、各紙が社会面で報じた。米長名人誕生もしかり。将棋界は続けて二つの大きなニュースを全国に提供した。

 こうして第34期王位戦は秋の声を聞かぬうちに終了した。

 しかし夏は終わった。

 翌朝、多忙な羽生五冠王は朝一番の飛行機で一人で帰京。郷田前王位も「京都のお寺をお参りして帰ります」と、朝われわれと別れた。ホテルの前まで我々を見送った郷田、微笑とともに「大丈夫ですよ」とうなずいた。

 郷田はきわめて近い将来、必ず王位戦七番勝負に出て来るだろう。

王位戦第3局。将棋世界1993年10月号より、撮影は弦巻勝さん。

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「しかし、やがて勝負がつく。夏の間、行動をともにした対局者が勝者と敗者に分かれる時である。気候とは関係なく、私にとってその時点で夏が終わる」

「破れた棋士との別れに伴う寂寥感。将棋会館に行けばいつでも会えるし、その後も酒を飲んだり、ゲームをしたりはできる。それとは別の話である。今期、その棋士は、いうまでもなく郷田真隆前王位だった」

夏の終りという言葉とともに、切なく、感傷的な思いが迫ってくる。

やるせないことだけれども、避けては通れないタイトル戦の宿命だ。

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「今までタイトル戦はすべて先輩が相手でした。同年代とは初体験で、大いに楽しみにしています」

この後、羽生世代同士のタイトル戦の方が当たり前という世界になっていく。

将棋史的には、この期の王位戦七番勝負が、狭義の意味での「羽生世代の時代」の始まりだったと考えることもできる。

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「これにより、王位戦の方は単に22歳同士のフレッシュな対決というだけではなく、羽生が史上最年少の五冠王になるかどうか、そちらの興味で一気に注目を集めることになった」

どちらが勝った方が大きなニュースになるか、という視点がある。

この時まで五冠王の実績を持つのは、大山康晴十五世名人と中原誠十六世名人の二人だけ。(大山五冠は通算で1,280日、中原五冠は連続で367日)

普通なら、22歳同士のタイトル戦ということだけでも大きなニュースだったのに、五冠王になるかどうかが加わると、どうしても五冠王の方がクローズアップされてくる。

「時の勢いというものがある。郷田には今期、不利な条件がそろってしまったというしかない」

となってしまうのも無理はない。

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「翌朝、事故で新幹線の東京-大阪間が長時間にわたって全面ストップするというハプニングが起きた。第2局でも対局中に停電するなど、今期王位戦は事件続きだったが、これが極めつけである。夜になり、ようやく乗れた新幹線の中で、郷田はただ一人別の車輌へ移って疲労に耐えていた」

3連敗となった翌日、負けを引きづらなかったとしても、やはり新幹線長時間ストップは心理的に辛すぎる。

郷田真隆王位(当時)が本当に気の毒になる。

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第2局のハプニングも、かなり大きかった。

災難が続いたタイトル戦

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入試合格発表の掲示板に自分の名前が無かったことを知った直後、あるいは失恋をした直後、とにかく、ずっとずっと歩きたくなることがあるものだ。

「京都のお寺をお参りして帰ります」

福岡から歩いて帰るわけにはいかないが、郷田五段(当時)も、飛行機に乗ってまっすぐ東京へ帰るという気持ちにはならなかったのだろう。

自分の中で一区切りをつけたい、このような時に京都はとても向いている街かもしれない。

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「ホテルの前まで我々を見送った郷田、微笑とともに『大丈夫ですよ』とうなずいた」

郷田九段らしさが溢れる気遣い。