旧・東京将棋会館娯楽室の深夜のラーメン

近代将棋1994年4月号、武者野勝巳六段(当時)の「マリオ六段の棋界奔走記」より。

 東西ともに鉄筋コンクリートの5階建てビルになった、今の将棋会館しか知らない人には信じられない話でしょうが、マリオが奨励会に入った23年前には関西会館は酒屋の路地を入った借家。自前で建てた東京の将棋会館だって、木造2階建てのちょっと大きな家という程度の寂しい規模でした。

 高校を卒業しての奨励会入会と、遅い将棋修行のスタートとなったマリオは、師匠・花村元司九段の口利きで将棋会館の塾生として将棋のプロを目指す生活を始めました。塾生というのは将棋会館に寝泊まりしながら将棋を修行する奨励会員の呼び名で、内弟子制度がなくなりかけた頃、これに代わって塾生制度が地方出身者の生活を支え、将棋修行を受け入れる手段となっていたのです。マリオが塾生に入ったとき、この先輩に青野照市二段と鈴木輝彦2級がおり、しばらくして香川県出身の小林健二6級が入ってきました。

 塾生の一日は朝7時半頃に起き、対局室や玄関、事務所などの掃除から始まります。9時頃になり記録係の奨励会員が到着すると、一息入れて食事。その後に新聞の将棋欄の切り抜き、対局用のお茶の補充、昼食の注文、配膳、その片づけ。自分たちの昼食がすむと、3時のおやつの買い出しをし配ります。合間をみて宿泊室と風呂の掃除をし、床を敷いた頃には、もう夕食の注文と配膳の時間…と、まったく目の回るような生活。

 マリオは「これほど大変な仕事なら、全寮制で飯の心配がないとはいえ、給料日が楽しみだなあ」と思った記憶がありますが、やがて貰った給料袋の中には、千円札がわずか4枚!しかありませんでした。これではマリオ高校生の小遣いより少ないではありませんか!?さすがに何かの間違いではないの?と塾長の青野さんに訊いたのですが、「だって新四段の給料が15,000円だもの、これだって貰いすぎだよ」にはギャフン!!もっともそれでプロ棋士になりたい希望が微塵も弱まることはないのです。なぜって、「一生将棋に関わりながら飯を食っていきたいなあ」が、あの頃の奨励会員に共通する心情だったから。

 それが証拠に、当時の奨励会員は商売人の息子が多く、マリオ家の家業は八百屋、青野家の家業は海産物問屋、鈴木家の家業は洋服屋と、将棋界を追い出されても何とか飯の種にありつけそうな連中だけがプロ入りを許されたんですね。

「あの頃はおもしろかった」と昔をなつかしむようになると年老いた証になってしまいますが、腹を抱えるような愉快な記憶は、塾生だった頃にばかり集中しているんですから、そう言ってしまうのも仕方ありません。

 この欄でときおり1970年代の将棋界の様子について触れていこうと思いますが、今の将棋会館の「と金倶楽部」通称・記者室にあたるのが、木造当時の将棋会館では「娯楽室」でした。なにしろここで若手棋士が「食えないから、4人分の給料を一人にまとめる」とか言って、ひっきりなしにやっていたのが麻雀で、少し裕福なベテラン棋士の対局日には、子羊に群がる狼よろしく一同集合となったものでした。

 対局後の麻雀となれば徹夜となるのは必定で、やがて誰かが「腹へったなあ」とつぶやくと、決まったように塾生が呼びつけられるのです。「あーマリオ君、夜遅く悪いけどねえ、金魚湯の隣のスナックに行って、おにぎり4人前買ってきてくれる」コンビニエンスストアなどない時代のことですから、深夜に食事がしたいとなればこんな手段でも使うしかありません。

 これが塾生にとっての最大の悩みだったようですが、しかしそこは八百屋の息子のマリオ、あらかじめ買い置きをして、こんなときに「野菜入りの温かいラーメンなら300円で作れますが…」と切り返すことにしました。この深夜のマリオラーメンは大好評で、月の総売上が2万円、なんと塾生の給料の5倍!も稼いでしまったことがあるのですから、創意と工夫次第でいかなる難局も打開できることがあるものです。もっともマリオは「卵も入った小林ラーメンはいかがですか」などという意外なライバルが出現して、売り上げが激減してしまう憂き目も見ましたので、「好事魔多し」こちらの方も座右の銘としています。

 新会館ができてから泊まり込む塾生制度はなくなり、わずかに対局雑務係を奨励会員が日替わりで務める一日塾生制度だけが残ったのですが、このことが地号出身者の就業機会を大幅に狭める結果になってしまったと考えています。マリオの場合など両親が奨励会入りを許してくれただけでも大変でしたから、さらに東京での生活費を支援してくれと言えたかどうか?将棋会館ならばプロ棋戦の棋譜は身近にあふれて研究材料にはこと欠きませんし、上達のエキスになる公式棋戦の感想戦だって毎日見ることができる。ときには先月に紹介した森安九段のように、プロ棋士から「塾生君一局指そうや」という夢のような声だって掛かることもあるのです。

 あの頃から「奨励会入りした中でプロ棋士になれるのは5人に1人」と言われていましたが、当時の塾生が全員一人前のプロに、ましてマリオのような非才な者が六段までなれたのは、すべて塾生制度のおかげだと感謝しています。

(以下略)

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空気を吸っているだけで将棋が強くなるような環境の塾生制度。

業務が標準化された内弟子のような雰囲気でもある。

灯台下暗しなのは、住み込みの塾生は記録係を行わないということ。

そのかわり、終電を気にすることなく感想戦を見ることができる。

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「だって新四段の給料が15,000円だもの」

国家公務員初任給の変遷の資料を見ると、武者野勝巳七段が奨励会に入会した1971年の国家公務員の初任給に比べて現在は約5倍になっている。

1971年の4,000円は現在の20,000円、1971年の15,000円は現在の75,000円となる。

この当時の四段の給料は順位戦の対局料に相当するような金額で、これ以外に順位戦以外の棋戦の対局料が加わった。

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「それが証拠に、当時の奨励会員は商売人の息子が多く、マリオ家の家業は八百屋、青野家の家業は海産物問屋、鈴木家の家業は洋服屋と、将棋界を追い出されても何とか飯の種にありつけそうな連中だけがプロ入りを許されたんですね」

昭和40年代頃までの奨励会は、現在に比べれば入会が簡単だった分、全員ではないとしても、このようなことも考慮されていたことがわかる。

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関西将棋会館では、森信雄七段が奨励会員時代に塾生だった。

森信雄六段(当時)「村山君は弟子というよりも肉親に近かったです」

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「野菜入りの温かいラーメンなら300円で作れますが」

「卵も入った小林ラーメンはいかがですか」

この当時の袋入りインスタントラーメンは約25〜35円。

まさしく、タイミングと付加価値を生かしたビジネスモデルと言えるだろう。

ところで、カップヌードルが発売されるのが1971年9月(希望小売価格100円)。

当初は販売が不振だったものの、1972年2月のあさま山荘事件が起きた時に、機動隊員達がカップヌードルを食べる場面が日本全国に生放送され(マイナス15度の寒さでほとんどの食べ物が凍ってしまったため、カップヌードルが導入された)、それ以来、認知度が飛躍的に高まった。

カップヌードルの普及がやや遅れたから成り立ったマリオラーメンと小林ラーメンだったのかもしれない。

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「自前で建てた東京の将棋会館だって、木造2階建てのちょっと大きな家という程度の寂しい規模でした」

近代将棋の同じ号に、千駄ヶ谷の旧・将棋会館の玄関の所の写真が載っている。

これだけではイメージがつかめないので、もう1枚。

将棋世界1972年1月号に掲載された玄関前での写真。

1971年11月3日の「表彰感謝の日」。

後列左から敬称略で、秋沢三郎(産経新聞)、五十嵐豊一八段。前列左から天狗太郎、関本源治、日色恵(観戦記者)、賴尊清隆(東京新聞)。

たしかに、ちょっと大きな家という表現がピッタリだ。