羽生善治四冠(当時)「もし、私が挑戦者になっていなければ2ヵ月も対局がなくなるところだった」

将棋マガジン1994年7月号、羽生善治四冠(当時)の「今月のハブの眼」より。

 4月、5月は棋士にとってオフシーズンで、対局も少なく、のんびりすることが多い。

 私もその例にもれず、毎年、1週間~10日間ぐらいの旅行をしている。今年は残念ながら(?)行けそうにない。まあ、この時期に忙しいことは棋士冥利に尽きるのだろう。

 という訳で、今月は名人戦特集。他には対局がなかったので、これしかない。

 もし、私が挑戦者になっていなければ2ヵ月も対局がなくなる所だった。ちなみに私の今までもっとも間隔があいたのは、四段に昇段してまもなくの頃の中42日というのがある。この時は学校に通っていたので、それ程苦にはならなかったが。

 さて、今月の1局目は4月11、12日、倉敷市芸文館で行われた名人戦第1局から。

 私は岡山には何度か行ったことがあるものの、倉敷は初めて。

 流石に観光都市とあって、街並みは美しかった。特に美観地区は昔ながらのたたずまいがあって、何ともいえない雰囲気がある。

倉敷美観地区の羽生四冠。将棋マガジン1994年6月号より、撮影は弦巻勝さん。

 対局場となった倉敷芸文館は美観地区から歩いて2、3分の場所にあり、1Fには大山十五世名人の記念館がある。

 当然、ここを訪れるのも初めてであり、私にとっては初めてづくしの名人戦初舞台となった。

 私が特に驚いたのは報道陣が多かったことで、自分はこれでも慣れているつもりだったが、今回は少し戸惑った。

 しかし、対局が始まってからはいつも通りに集中することが出来た。

 振り駒で私の先手となり、5筋位取り中飛車を目指す。

 この形を指すのはかなり久し振りだが、以前に何局か指している。

 通常の振り飛車は相手が攻めて来るまで待っていなければならないが、この戦法は自分からも動ける攻撃的な振り飛車で、それが大きな魅力だ。あと、居飛車側が居飛車穴熊に組みにくいということもある。

 もっとも、最近では振り飛車側の対策が進んで、以前ほどの猛威はふるっていないようだが。

 いずれにしても、一局はこの形を指そうと思っていた。

 1図はその序盤戦。

 私はこの対局の前にケーブルテレビの棋戦で解説をして、その将棋が1図になったのだ。

 その時から疑問になったことがあったので、本局で採用した。

 机上の研究と実戦は全く異なる。

 どんなに長時間研究したとしても実戦でしか得られないものがある。

 事実、1図からの進展は自分にとっては全く考えもしない展開となった。そして、この形の知識は得たが、それでますます混乱している。

 まだまだ、この形は研究の余地があり、奥が深そうだ。

(中略)

 今月の2局目は4月25、26日、愛知県西浦温泉「銀波荘」で行われた名人戦第2局。

 私はこの地を訪れるのは2回目。

 前回は今年の1月、棋聖戦で訪れている。

 その時は49手という自己最短手数で負けてしまった。

 さすがに今回はそれより手数が延びるだろうと思った。

 対局前日、早めに対局場の検分が終わり、夕食まで時間があったので、1時間あまり散歩に出かけた。

 銀波荘は三河湾に面しており、海沿いに遊歩道がある。

 日曜日ということもあってか、多くの人が釣りなどで休日を楽しんでいた。

 時間帯が良くないのか、収穫はあまりなさそうだったが、退屈そうな顔の人はいない。

 この中で自分だけが仕事で来ているのかと思うと少し気が重くなったが、広々とした海を眺めている内にそうした気持ちも徐々に薄れていった。

(以下略)

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「もし、私が挑戦者になっていなければ2ヵ月も対局がなくなる所だった」

この当時、羽生善治四冠(当時)が保持していたタイトルが、王位、棋聖、王座、棋王。

この4つの棋戦については番勝負以外は対局がないので、このようなことも起きてくることになる。そのかわり対局が集中する時は集中する。

六冠以上になると、移動日も含め、毎月対局数が多い状況が続く。

五冠は、保持しているタイトルの組み合わせによって変わってくるのだろう。(羽生四冠が竜王位を防衛していたとしても、やはり同じように春の対局がなかったはずなので)

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「私が特に驚いたのは報道陣が多かったことで、自分はこれでも慣れているつもりだったが、今回は少し戸惑った」

この当時の羽生四冠でも、このように感じることがあったとは意外なことだが、羽生四冠が名人位を奪取しても大ニュース、50歳の米長邦雄名人(当時)が防衛しても大ニュースということで、どちらに転んでも大ニュースになると踏んだマスコミが、これまでよりも数多く駆けつけたのだと考えられる。

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「私はこの対局の前にケーブルテレビの棋戦で解説をして、その将棋が1図になったのだ。その時から疑問になったことがあったので、本局で採用した」

名人戦という舞台であることはあることとして、それとは別に、純粋に将棋で起きた疑問点を追求したいという探究心と好奇心。

この姿勢こそが、羽生九段の素晴らしいところだと思う。

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「机上の研究と実戦は全く異なる。どんなに長時間研究したとしても実戦でしか得られないものがある」

この言葉も名言。

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「この中で自分だけが仕事で来ているのかと思うと少し気が重くなったが、広々とした海を眺めている内にそうした気持ちも徐々に薄れていった」

日曜日、午前中は良いとしても、午後になると「明日は月曜日なんだ」と少し憂鬱になってきて、夕方の『笑点』のテーマ曲を聞くと更に憂鬱になり、『サザエさん』のテーマ曲で憂鬱さが最高潮に達する、という人も多いと思う。

そういう意味では、釣りなどをして楽しそうに見える人も、実はどんどん憂鬱な気持ちになっていっている確率が高い、と思えば、「この中で仕事で来ている自分だけが、笑点症候群、サザエさん症候群とは無縁」と逆に気持ちが軽くなることができるかもしれない。