将棋マガジン1994年7月号、谷口やよいさんの「オンナの直感インタビュー 杉本昌隆四段の巻」より。
朝10時の東京将棋会館。眠たそうな顔。今起きたばかり、今顔を洗ったばかりという感じの杉本昌隆四段が現れた。でもそこが、若者って感じだ。杉本さんは、名古屋に住んでいる。前日に対局があったので、上京し、昨夜は、将棋会館に泊まっていた。朝、バタバタと身支度したはずなのに、きちんと、ネクタイをしめている。
話しやすそうだなと思った。
(中略)
杉本昌隆四段は、将棋連盟の関西本部に所属。対局のほとんどは、大阪である。しかし、現在は対局のないときは名古屋の実家に住み、大阪のワンルームマンションとを行き来する日々だ。
「大阪での生活は、将棋の研究にしても、遊びにしても、いろいろな刺激がありますね」
トーナメントで勝ち進んでいれば当然、大阪での滞在が長くなる。ご本人が日常とは違う、緊張した精神状態で過ごしているから、すべてのことが、刺激的に感じられるのだろうか。
「対局の後は興奮して眠れないんです。だからつい、大阪での夜は、飲むか、カラオケか、麻雀。大阪には、棋士仲間が大勢いますからね。もちろん、大阪での研究会も刺激になってます」
将棋の上でも、遊びの面でも大阪の方がメリットがあるという。なのに、なぜ、生活の大部分を名古屋で過ごすのだろう。
「アマチュアに教えるのも、棋士の仕事ですから。名古屋には、中田章道さんと僕の二人しか現役プロがいないんです」
と、名古屋から離れない理由を教えてくれた。将棋の普及に心をくだく若手棋士は、珍しいのではないだろうか。
「師匠が、普及に熱心な人だったんです。『本来、棋士は地方にいてファンに密着するべきだ』とおっしゃっていました」
杉本さんは、四段になる前、18歳から21歳まで大阪で独り暮らしをしていたことがある。
「やはり、強くなるためには、身近に研究相手がいなければと思いまして。師匠は『プロになったら、名古屋に帰って来いよ』と、大阪に住むことを許してくれました。今、名古屋にいるのは、その約束を守っているんです」
その師匠・板谷進九段は、杉本さんが20歳のときに亡くなってしまった。
「当時、修行中の身の上だったから、とても辛かった。プロになった姿を見せたかったです。生きているうちに恩返しができなかったのが残念で…」と。
師匠の遺志どおり、名古屋の将棋ファンに密着する生活。それもまた楽しいそうだ。
「アマチュアの方と指すときは、勝負とは全然違う将棋なんです。相手に強くなってもらい、かつ、楽しんでもらう。頭の使い方が違って、楽しいものなんです」
両親と柴犬と暮らす名古屋での生活は、のんびりと、健全そのものだと笑う。
どんな職業でも、どこかに厳しい面がある。だが、棋士の厳しさは、24時間戦うジャパニーズ・ビジネスマンのそれとは明らかに違う。
「楽をしようと思えばいくらでもできるのが、逆に怖いですね」と、杉本さん。つまり、強くなるには、自己管理しかないわけだ。自分を甘やかさない方法を聞いた。
「身近な人を目標にするんです。『この人には負けないぞ』というライバルを心の中に持つ。本人には、そんなこと言いませんよ。対局もしない。ただ、ライバルを決めると、負けないためにどうするかを考えることができます。そのライバルは、時によって変わるのですが」
ライバルを設定することで、闘志を日常でもなくさないように心がけているそうだ。「なるほど」と感心した。私のような、自由業者にも当てはまりそうな方法だ。さっそく、真似しようと思う。
感心しながらした次の質問は、超定番のお決まりフレーズ。『今後の抱負』である。(ああ!この質問をするたび、自分のインタビューセンスのなさを感じて恥じ入るのだ。それでも、とりあえず…)
「そりゃあ、将来は昇段もしたいし、タイトルも取りたい。でも、今はまだ無理ですから、一番、一番、勝っていくことですね。将来、もし僕がタイトルを取ったら、ポルシェを乗り回して、棋士でも稼げるところを見せたい。子ども達が、野球やサッカーに憧れるように、将棋にも魅力を感じてほしいんです」
(いやあ、ホントに、また感心した。ダッサイ質問なのに、ちゃんと原稿に書ける答えをしてくれるなんて、感謝、感謝!)
杉本さんの頭の中には常に、将棋の普及のことがある。将棋にも、もっとミーハーなファンを増やしたいという。そのためには、棋士自身が魅力ある人でなければとも、
「そういう意味で神吉宏充さん、林葉直子さんは、貢献度が高いと思います。僕もインタビューなどで、ちゃんと話さなくてはと思っているんですが、口下手で…。FMラジオのトーク番組に出演したときは、声が裏返ってしまいました」
以前、無人島に行くとしたら何を持って行きますかと聞かれ、ライターとナイフと答えた杉本さん。「でも今なら、携帯電話と車ですね」と言う。
杉本さんは、自分のことを口下手だと思っている。大勢で集まったときは、大抵、聞き役に回っているとか。そうかな、とても要領よく話してくれているのにと、信じられない感じ。
「話すのは苦手。特に、面と向かってがだめですね。でも、不思議と電話なら話せるんです。独り暮らしを経験してから、長電話の癖がつきました。30分、1時間はザラ。最高記録は5時間半でした」
えーっ。驚きである。私はおしゃべりな人間だが、長電話は苦手だ。やはり相手の表情を見ないことには、のらないし、間が持たない。5時間半も何を話せばいいのだ?
(以下略)
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「師匠は『プロになったら、名古屋に帰って来いよ』と、大阪に住むことを許してくれました。今、名古屋にいるのは、その約束を守っているんです」
「当時、修行中の身の上だったから、とても辛かった。プロになった姿を見せたかったです。生きているうちに恩返しができなかったのが残念で…」
杉本昌隆八段が四段に昇段したのは、師匠の板谷進九段が亡くなってから2年7ヵ月後のこと。
師匠との約束を守って戻った名古屋。
杉本八段自身も、トーナメントプロとして、そして普及の面でも、師匠への恩返しを果たし続けている。さらには、弟子の藤井聡太棋聖の大活躍で、恩返しに更に厚みが増した。
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「身近な人を目標にするんです。『この人には負けないぞ』というライバルを心の中に持つ。本人には、そんなこと言いませんよ。対局もしない。ただ、ライバルを決めると、負けないためにどうするかを考えることができます。そのライバルは、時によって変わるのですが」
勝負師にとっての自分を甘やかさないためのひとつの方法なので、勝負師以外の人がこれを実行するのは思いのほか難しいことだと思う。
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「ポルシェを乗り回して、棋士でも稼げるところを見せたい。子ども達が、野球やサッカーに憧れるように、将棋にも魅力を感じてほしいんです」
「将棋にも、もっとミーハーなファンを増やしたいという。そのためには、棋士自身が魅力ある人でなければとも」
当時はまだ、棋士という職業があるのかどうかさえ知らない人が圧倒的に多かった時代だった。
また、将棋に対しても、「暗い」「若々しくない」などのマイナスイメージを持たれていた。
そのような背景があったからこその、杉本四段(当時)の思い。
この2年後の羽生善治七冠フィーバーで、棋士という職業への認知度が大いに高まり、将棋に対するマイナスイメージも払拭される。
ただ、プラスイメージに転換して間がなかったので、子ども達にとっては野球やサッカーに対する憧れのほうがはるかに大きかった。
50年単位の歴史で見れば、羽生七冠フィーバーが第一段階(ホップ)、ここ数年の藤井聡太棋聖フィーバーが第二段階(ステップ)になると思う。
藤井聡太棋聖の活躍によって、「子ども達が、野球やサッカーに憧れるように、将棋にも魅力を感じる」時代がようやく到来したと言えるだろう。
杉本八段の四段時代の思いが、次々と実現されている。