佐藤康光竜王(当時)「前を走る羽生」

羽生善治新名人誕生の一局。

将棋マガジン1994年8月号、佐藤康光竜王(当時)の第52期名人戦第6局〔米長邦雄名人-羽生善治四冠〕観戦記「前を走る羽生」より。

<前日空港で>

 6月5日の朝、JR浜松町駅からモノレールに乗り換えて羽田空港に向かおうとしているとバッタリ羽生棋聖と会った。

 同じ便だとは聞いていなかったので、お互いにアレッ?という感じだったが、すぐに私がNHKの衛星放送の解説役と察し、いつもの明るく快活な羽生棋聖に戻っていた。

 3連勝後の2連敗。実際4、5局目は米長名人が本来の手厚くかつ鋭い指し回しで、羽生棋聖に全くつけ入るスキを与えずに完勝。

 これで流れは完全に米長ペース。

 星勘定では羽生リードだが内容が悪く、五分、もしくは米長乗りと見る棋士も多かった。

 実際イヤなムードが羽生棋聖自身にもあったと思うが、この時は全くそんな雰囲気は窺えなかった。

 第5局から第6局までの間隔が1週間もなく、いろいろと考える時間が殆どなかった事も少しは影響があったのではないかと思う。

 関係者共々の北九州までの道程はあっという間に過ぎて行った。

 ここ数日、ファンだけでなく、棋士の話題も名人戦の事でもちきりであったと思う。私の場合も人と会う度にそうだった。

 この第6局、本当の大勝負が見られそうな気がしていた。

 米長名人は単独で現地入りされていた様(今期のパターン)で対局室検分の時、やあやあとこちらもいつもの明るい米長名人が姿を現した。

 しかし眼はもう戦いに入っておられる。そんな風に見えた。

 第6局の対局場は北九州プリンスホテル。北九州の工業地帯から少し離れた広大な敷地をもったホテルである。

 前夜祭は大勢のファンの方も集まってにぎわい、華やかな感じになった。しかし前半戦と違い、星も煮つまってきているため、すぐに終わるかと思ったのだが約1時間半、両者ともファンサービスに努めていた。さすがという感じがした。

 前夜。羽生棋聖は控え室に少し姿を見せたが米長名人は見せず、このパターンは1日目も同じであった。

 私は立会人の原田先生と記録係の矢倉三段の対局を観戦。原田先生の若々しい指し口に感心(などと書くと先生のお叱りを受けそうだが)。

 私も寝ながら考えてみる。明日はおそらく米長名人が多用されている角換わりに誘導されるだろう。これに対して羽生棋聖の作戦は何か?

 この名人位が懸かった大一番で同型腰掛け銀が出現したら面白いなどと考えていた。

(中略)

<角換わりへ>

 朝、あいさつのため、対局室へ。米長名人は普段の感じだったが、羽生棋聖はやや青白く見える。

 第6局は米長名人の先手で▲7六歩。通常、カメラマンのために2、3度指すのだが本局は1回だけ。

 これも今期のパターンのようだ。

 これに対し羽生棋聖も一手一手に少考を重ねる。これも今期の傾向。

 しかし4手目の16分は大長考の部類に入る。米長名人の角換わりの誘導も、当然予想の一つにあったと思うからだ。

 そういえば羽生棋聖は「作戦は盤の前に座ってから考える」などと以前発言されていた事もあったがこの大一番、さすがにそんな事はなかったとも思えるのだが。

 こうして1図迄で早くも消費時間で約1時間の差がついた。

(中略)

2図以下の指し手
△5二金▲1五歩△7四歩(3図)

<羽生の柔軟性>

 2図からの△5二金。これで新しい展開に。過去の実戦例はいくつかあるが全て端を受けていたと思う。

 局後の感想は端を受けるのは後手が損です、という一言だけであった。

 たかが端の位と思われるかもしれないがこれがプロの生命線である。

 しかし、この場合の1筋の位はかなり大きいのではないか、というのが私の直感であった。

 理由は桂が2五~1三のラインでいつでも使える。矢倉戦と違って角換わり将棋は手得して金銀が盛り上がっても却って角の打ち込みの隙を作る可能性が高いと思えるからだ。

 実際、感覚的にこう考えるプロが多いと思う。

 既成のことにとらわれない。この辺りが羽生棋聖の柔軟性である。

 これに対し▲1五歩は受けなければの気合い。まして米長名人なら当然の一着である。

 △7四歩で1日目が終了。

(中略)

1日目の夕刻、封じ手のため米長名人が席をはずしている時の羽生四冠。窓から見えるのは製鉄所の煙と八幡港。将棋世界1994年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

<縁起のいい手>

 2日目の朝。さすがに今日で決着がつくので両者とも厳しい表情かと思ったが、お互いにそれ程でもなかった感じだ。

 封じ手は▲6六歩。米長名人は「これ以外は悪くなる」との感想。

 △7五歩なら▲6五歩と突き、あくまで本譜に見られる羽生棋聖の狙い筋を警戒しようとしたもの。

 羽生棋聖もそれを嫌って△6四歩である。これに対しなかなか動かなかった米長名人の玉がいよいよ動き、右玉に。

 この場合は戦場に近づくだけに▲6八玉とは上がれない。

 この▲4八玉で早くも昼食休憩。いよいよ戦機が高まった。

 そして△3五歩(途中図)。これが羽生棋聖の狙い筋でこのために△6四歩と突いたのである。

 これはA級順位戦のプレーオフ、対谷川戦でも出た、米長流に言えば「縁起のいい手」である。

(中略)

4図以下の指し手
△6三角▲4五歩△同歩▲5六銀左△4六歩▲同銀△4四歩(5図)

<狙いの妙手順>

 △6三角。決断の角打ちである。

 結果論になるかもしれないが名人位を決めた構想だった。

 考慮時間から推察してこのかなり前から、後のある妙手順が浮かんでいたのだろう。深い読みである。

(中略)

 △6三角に▲3六角もあった。△5四歩▲5六銀左となりどちらの角が働くかの勝負。

 4筋を突き捨て▲5六銀左、これに対し狙いの一着。△4六歩から△4四歩(5図)である。

 ちょっと見たことのない妙手順で何とこれで△3六歩が受けにくい。

 米長名人ピンチと思ったが。

5図以下の指し手
▲4七金△3六歩▲4五桂△同歩▲同銀直△6六銀▲2四歩△同銀(6図)

<鬼手▲4五桂>

 米長名人は5図の局面で長考。

 米長先生は2日間とも遂に一度も正座を崩すことはなく、殆ど席も立たず盤上のみに集中しておられた。

 50歳を過ぎてなおこの集中力、この対局姿に、プロ棋士なら当たり前なのかもしれないが、私は自分自身が情けなく思えてくる。

 今回一番勉強になった事である。

 5図で無理矢理受けるなら▲3四歩△同銀▲3六歩だが、尚も△3五歩と打たれ、以下▲同歩△4三銀▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2九飛に△8六歩▲同歩△同銀となり、3六の傷が大きく先手勝てない。

 米長名人の指が5八の金をつまんだ時はびっくりしたが、指されてからようやく狙いに気がついた。

 ▲4五桂が鬼手。桂損だが厚みでカバーしようとしている。

 しかし▲4五同銀直はややつらい手。本来なら形は▲同銀左なのだが△5四桂とわざと角道を止めて打つ手がうまい手で先手困る。以下▲5五銀は△6六桂の両取りで終わる。

(中略)

 こういう戦いになると羽生玉の位置が低くベスト。控え室も羽生良しの評判が高まってきた。

 △2四同銀で夕食休憩。

(中略)

7図以下の指し手
▲7一角△7二飛▲6一角△7一飛▲5二角成(8図)

 △8八歩(7図)が決め手。

 ▲同金は△4八とが好手で、▲6七玉は△4七とで長くはなるが勝ち目なし。また▲4八同玉は△8六飛▲8七歩△7七歩成でどう応じても寄り筋になる。

 これを見て名人最後の考慮に。

 負けを確認したつらい時間だったに違いない。

 ▲7一角からは勝負と言うより形作りに行った手である。

8図以下の指し手
△4八と▲6八玉△8九歩成▲5三馬△4二歩▲4四馬△7七角(投了図)  
まで、86手で羽生棋聖の勝ち

<羽生新名人誕生>

 控え室では羽生新名人誕生の興奮と米長名人の失冠と、どちらの空気も充満し、重く異様な雰囲気に包まれていた。

 △4八玉の王手。▲同玉は△3六角でほぼ必至。

 △7七角で米長名人投了。

 以下は▲同銀は△5八金。▲6七玉も△6六角成以下、手順が長いが即詰みである。

 終了直後、羽生さんの顔はすっかり生気が戻ったいつもの表情、米長先生の顔は朱に染まっていたのが印象的だった。

 しかし打ち上げでは米長先生はわざわざ羽生さんの席に出向き、新名人にお酒をつぎに行く。いつもの茶目っ気のある米長先生の表情に戻っていた。

 羽生新名人はこれで再び五冠王に。

 羽生さんとは奨励会同期で私、森内七段、郷田五段等棋士の数は多い方だが、いつもながら常に前を走る素晴らしさには驚かされる。

 皆いろんな感慨があると思うが、私もとり残されぬよう、やって行きたい。

 

将棋世界1994年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

感想戦。将棋世界1994年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

感想戦。将棋マガジン1994年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

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佐藤康光九段による観戦記はあまり見た記憶がなく、非常に貴重だと思う。

指し手の解説とエピソードのバランスが良く、また解説もロジカルで、とてもわかりやすい。

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「6月5日の朝、JR浜松町駅からモノレールに乗り換えて羽田空港に向かおうとしているとバッタリ羽生棋聖と会った」

この日に対局があるわけではないので、二人は羽田まで雑談をしながらモノレールに乗っていたのだと思われる。

どのような会話をしていたのだろう。

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「たかが端の位と思われるかもしれないがこれがプロの生命線である」

かっこいい。

「実際、感覚的にこう考えるプロが多いと思う。既成のことにとらわれない。この辺りが羽生棋聖の柔軟性である」

このような、多くのプロが考える感覚を通して、羽生四冠の柔軟性を具体的に浮き彫りにしているところが棋士ならではの観戦記。

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「△6三角。決断の角打ちである。結果論になるかもしれないが名人位を決めた構想だった」

「ちょっと見たことのない妙手順で何とこれで△3六歩が受けにくい」

△6四歩に秘められた構想と、△6三角からの仕掛け。△4四歩(5図)が絶妙すぎる。

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「終了直後、羽生さんの顔はすっかり生気が戻ったいつもの表情、米長先生の顔は朱に染まっていたのが印象的だった」

対局終了直後から、羽生名人(五冠)、米長九段(または前名人)となるわけだが、佐藤康光竜王(当時)はドラスティックに呼称を変えることはせずに、羽生さん、米長先生と気遣っている。

同時に、さん、先生、と変わることによって、熱い戦いが繰り広げられてきた七番勝負が終わったのだと、実感させられる。

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「しかし打ち上げでは米長先生はわざわざ羽生さんの席に出向き、新名人にお酒をつぎに行く。いつもの茶目っ気のある米長先生の表情に戻っていた」

その時の貴重な写真が残されている。

打ち上げが終わりに近づいた頃、米長九段が立会の原田泰夫九段、佐藤竜王を連れて羽生五冠の席へ身を寄せ、最後は万歳三唱をしたという。

近代将棋1994年8月号より、撮影は炬口勝弘さん。

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「羽生さんとは奨励会同期で私、森内七段、郷田五段等棋士の数は多い方だが、いつもながら常に前を走る素晴らしさには驚かされる。皆いろんな感慨があると思うが、私もとり残されぬよう、やって行きたい」

竜王でありながらも、このような決意。

羽生世代の切磋琢磨はこれからも続いていく。