初対面の棋士同士が対局する時の挨拶のしかた

将棋マガジン1995年7月号、中村修八段(当時)の第7回IBM杯昇級者激突戦(対 久保利明五段)自戦記「頑張りを見せた一局」より。

将棋マガジン同じ号より。

 数年前より、将棋の資料整理のためにコンピュータを使うようになった。

 将棋の研究にコンピュータを使うことについては、最初抵抗があったが、慣れてくると、これほど便利なものはない。

 但し、本当に勉強になっているかというと、大いに疑問が残る。

 やはり一番ためになるのは、将棋盤に並べる研究方法だろう。一手一手駒を動かしながら指し手の意味を考えれば、自然と頭に入っていく。

 ところが現在は、コンピュータ画面を見ながら1時間の間に50局ほど目で追う作業を続けている。これでは頭には入ってこない。

 それでも数多くの将棋を観ることによって勉強したような気持ちになる。錯覚と解っていても多少は自信につながるため、気分的には大きく役立っているのである。

 コンピュータと仲良くなった効果かどうかは解らないが、このIBM杯に出場することができた。昇級者だけの夢のトーナメント戦。夢ならば覚めないでほしいと思う。

(中略)

 関西在住の久保五段とは初手合である。東西に分かれていることもあり会うのも初めて。顔も写真でしか見たことはない。久保五段に対する予備知識といえば、昨年度順位戦で10戦全勝を飾り、年間勝率8割1分をあげ、全棋士中の勝率1位になったことだが、全棋士の7割以上が居飛車党の中にあって振り飛車を得意としてのこの高勝率は素晴らしい。将棋を並べてみても勢いだけではなく、しっかりとした実力を感じさせる内容が多い。

 当日、5分前に対局室に入るとすでに久保五段は着座されていた。

 ここで普通の社会だと、「はじめまして。今度C級1組に昇級しました久保と申します。よろしくお願いします」「いやいやこちらこそ、関東で奨励会幹事をしています中村といいます。どうぞよろしく」と名刺交換を交わすものだが、将棋界では違う。「おはようございます」の挨拶をかわした後は無言。結局、感想戦までは会話がなかった。

 自己紹介は盤上でというのが将棋指しらしい。

(中略)

 本局全体をみると、序盤戦での作戦負けはいただけないが、仕掛けてからは思いのほかうまく指すことができた。私にとって満足のいく一局だったということは久保五段にとっては不出来な将棋だったといえる。

 事実、初めて会話を交わした感想戦の時も、2手得を生かせない展開に納得のいかない様子だった。

 3図まで戻って、▲5八銀引以下の変化でようやく先手良しと、お互いに納得し、感想戦も終了。

 このトーナメントでは私が最年長らしい。そして最年少である久保五段に勝てたことは非常に嬉しい。

 いつの間にか、後輩の数がはるかに多くなり、20代の若手との対戦が半分を超えている。

 現在の将棋界は、先輩の貫禄を示すことがなかなか大変なので、これからも対抗心を燃やして頑張りたいと思っている。

将棋マガジン同じ号より。

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「数年前より、将棋の資料整理のためにコンピュータを使うようになった」

この当時のコンピュータ利用は、棋譜検索・局面検索など。

それまで連盟まで出掛けてコピーを取らなければ入手できなかった棋譜が、ネットを通して配信されてくるだけでも画期的なことだった。

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「コンピュータと仲良くなった効果かどうかは解らないが、このIBM杯に出場することができた。昇級者だけの夢のトーナメント戦。夢ならば覚めないでほしいと思う」

中村修八段(当時)はB級2組からB級1組に、順位戦では12年ぶりに昇級したばかり。

夢ならば覚めないでほしい、という言葉にも重みがある。

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「ここで普通の社会だと、『はじめまして。今度C級1組に昇級しました久保と申します。よろしくお願いします』『いやいやこちらこそ、関東で奨励会幹事をしています中村といいます。どうぞよろしく』と名刺交換を交わすものだが、将棋界では違う。『おはようございます』の挨拶をかわした後は無言。結局、感想戦までは会話がなかった。自己紹介は盤上でというのが将棋指しらしい」

日本将棋連盟は社団法人なので、個人企業の社長の業界団体のような位置づけだ。

初対面の社長同士が会えば、名刺交換から始まるのが定跡だが、棋士同士は違うということになる。

同じ会社の初対面の社員同士ともまた微妙に違う。

棋士だからこその初対面の世界。

たしかに、プロ野球の試合で初対面の投手と打者が名刺交換したりはしない。オリンピックの柔道の決勝戦で、初対面の相手でも名刺交換も自己紹介もなしに、試合は開始される。

そういう意味で、初対面の場面においては将棋とスポーツは似ているということが言えるだろう。

 

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