腹を立てた大山康晴十五世名人

近代将棋1988年2月号、大山康晴十五世名人の「将棋一筋五十年 内藤さんとの棋聖戦」より。

 昭和45年の7月、当時四冠王の私は内藤棋聖に挑戦した。誤解がないように書くが、内藤さんは中原さんから棋聖位を奪い、日の出の勢い。当然、若さは「強さの代名詞」と思っていたろうし、また周囲の人たちもそれを容認、イヤ、持ち上げていたと思われる。

 これは推測になって失礼だが、河口六段の書いた「周囲の気遣いがかえって、内藤を弱くしたのである。もし、そういうときに怒っても仕方がないのだぞ、ということを周囲の者が身をもって示していれば、内藤は名人になったであろう」(近代将棋62年12月号)という、内藤さんのことを真底から思う文章に全く同感である。

 この第4局の棋譜は将棋世界62年11月号に載っているが、肝心な所に解説がない。私が勝って”五冠王”に返り咲いたというごく一般的な記述もない。全く不思議な”解説”である。

(中略)

 ムツゴロウこと畑正憲さんは本局の観戦記で、心を打つ文章を書いていらっしゃる。

「私はこれまで、将棋の雑誌を読んで、いつも不思議に思っていたことがある。それは大山名人の自戦記が、常にキザなほど若々しいことだった。

『ベストをつくしてたたかうまで』

『常に前進し、力をふりしぼり』

『目標を目指し、高い山に登らねばならない』

 などなど、大山名人ほどの大きな人がとても言いそうもない生の言葉を連ねている」

『これが芹沢九段あたりだと、もっと大人びた屈折した心情を綴るのだが、名人のものはストレートであり、はっとするほど子供っぽい。その秘密がやっと解った。名人は、素朴な言葉で自らムチ打ち、勝ち飽きることのないようにしているのだ』

 だいぶ、ほめすぎの文章ではあるが、観戦記のひとつの行き方だと思う。できれば推測は避けたい。将棋世界の冒頭『おそらく、内藤は一睡もしていないだろう。人間観察に鋭い大山が、内藤の気持ちの揺れを見逃すはずはない』とあるが、全くの推測である。

 局面は、内藤さんの中飛車、私の居飛車という珍しい展開。もっとも、この当時の私は振り飛車を表芸にしていたが、相手が振ってくれば、居飛車を指すことにしていた。相振り飛車はあまり好きではない。

(中略)

 内藤さんは森九段と同じく、オールラウンドプレーヤーである。居飛車も指せば、飛車も振る。相掛かり戦での変型で”空中戦”と呼ばれる急戦を得意としている。

 その内藤さんが中飛車に振った。これは多分に、私が3手目に▲6六歩と角道を止め、振り飛車に行きますよ、という指し方に触発されたように思われる。これは私の好まない推測になって読者に申し訳ないが、実はこれが一つの伏線である。前に述べた将棋世界の”解説”の中で

『第1局(棋聖戦の)で先手番の内藤が7六歩と角道をあけ、大山が3四歩と指すと直ちに2二角成である。手損を承知の内藤の振り飛車封じ作戦である』とある。

 この後、しばらく私の感想を引用してから、つづけて、

『第1局の<2二角成>をみたとき、大山は内心で(こしゃくな)と思ったはずだ。そして第3局の同じ戦法。大山の意地で飛車を振っているが、内藤も意地を通しての再度の振り飛車封じである』

 と、同じ推測ながら、面白く書いている。一種の読者サービスといえるだろう。

この第4局は、内藤さんが私の振り飛車を封じる意味で中飛車に振った。振り飛車の逆用である。

(以下略)

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この大山康晴十五世名人の自戦記、後半で持ち上げてはいるものの、大山十五世名人が将棋世界1987年11月号の記事に腹を立てていることがわかる。

将棋世界1987年11月号の記事がどういうものだったのか。

将棋世界1987年11月号、故・福本和生さん(産経新聞)の「検証・素顔の棋士達 内藤國雄九段の巻」より。

その前夜

 内藤國雄棋聖とわたしは、東京駅から車で四ツ谷の福田屋別館へ向かった。昭和45年7月16日、大阪も暑かったが東京も暑かった。新幹線でホームに降りたとき、内藤とわたしは「暑いね」と顔を見合わせた。車内で飲んでいたビールが炎暑で汗となって噴き出してきた。夕刻のラッシュ時で混雑する人並みをかきわけながら、内藤は八重洲口のタクシー乗り場へ急いだ。

 弁慶橋そばの福田家別館に着いたのは午後6時半過ぎだったと思う。二階の部屋に案内された内藤は荷物を置くと、すぐに一階の会食場へと軽い足どりで階段を降りていった。

 会食場では大山康晴四冠王をかこんでマージャンが始まっていた。わたしは棋聖の内藤の到着を待ってのマージャンと思って「どうも遅くなりまして…」と挨拶して、内藤とともに食事の席についた。ところがマージャンは続行で、なんと女中さんがお膳を新しくしようとしてかたづけ始めたではないか。すでに食事は終わっていたのだ。内藤の顔色がさっと変わった。無言で立ち上がると足音も荒く階段を駆け昇っていった。大山はその足音を背で聞きながら牌を切っていた。事件である。わたしは内藤の”対局拒否”に思いをめぐらせて、どう対処したらいいのか周章狼狽していた。

事件の背景

 第16期棋聖戦は内藤棋聖に挑戦者が大山四冠王。前期に初タイトルの「棋聖位」を獲得した内藤は30歳の指し盛り。華麗な空中戦法をひっさげての登場で一躍花形棋士として脚光をあびていた。大山は47歳。第29期名人戦で故・灘蓮照九段の挑戦を退け通算17期の名人位を防衛、そして「棋聖位」奪取で4回目の五冠王を目指している。互いの闘志のぶつかりで、五番勝負は6月19日の城崎温泉「金波楼」の第1局から異様な雰囲気につつまれていた。

 第1局で先手番の内藤が▲7六歩と角道をあけ、大山が△3四歩と指すと直ちに▲2二角成である。手損を承知の内藤の振り飛車封じ作戦である。が、それでも大山は飛車を振った。序盤から双方が喧嘩腰である。大山2連勝のあとの第3局、内藤は再び▲7六歩△3四歩▲2二角成と挑戦した。大山は<△6五角>の筋違い角戦法であった。

「私の6五角は筋違い角といわれるもの。長い棋士生活での初めての試みだ。内藤さんは乱戦好みだから、あまり得な作戦とは思わなかったが、相手がそれほどまでに振り飛車をきらうなら、意地でも振り飛車にいってみるかという気になり、この戦法をとることにしたわけである」(昭和45年9月号の「将棋世界」から)。

 第1局の<▲2二角成>をみたとき、大山は内心で(こしゃくな)と思ったはずだ。そして第3局の同じ戦法。大山の意地で飛車を振っているが、内藤も意地を通しての再度の振り飛車封じである。

 大山の2勝1敗となっての第4局が四ツ谷・福田家別館での対決。この対局の4日後の7月21日に、大山の名人就位式が予定されていた。大山としては第4局に勝って「棋聖位」を奪取、五冠王となって名人就位に花を添えたい―。

 内藤が福田家別館に到着以前の状況はどうだったのか。当時、総務担当で現場にいた芹沢博文八段(現九段)はこう話している。

「内藤君の到着が少し遅れて、時間になったので食事を始めようとだれからともなく言いだして、例によって大山さんはさっと食べ終わってマージャンとなった。マージャン部屋は二階に用意してあったが、大山さんはここでいいということで会食の部屋に卓を運ばせて始まった。内藤君が箸に手もふれずに席を蹴って去ったときすぐに跡を追った。

夜の銀座へ

 芹沢八段とわたしが二階の内藤の部屋に踏み込むと、内藤は布団に入っていた。白い顔だった。芹沢さんが「とにかくここを出よう」と言っても内藤は目を閉じたまま。掛け布団をつかんでいる両手がこきざみにふるえていた。

 内藤は棋聖である。それが前夜祭の席でお膳をひかれるという乱暴な仕打ちを受けた。多分に悪い偶然が重なったのきらいもあるが、表面に現れた形は内藤無視があった。

 いやがる内藤をひきたてるようにして外へ連れだした。内藤、芹沢、わたしの三人で車で銀座へ出かけた。対局前夜、それもカド番の内藤を連れていくのは、担当者として不謹慎な行動だが、このままでは神経がずたずたになっていて、内藤はとても対局はできないと思った。

 銀座の電通のあたりで車を降りた。ばったり広津久雄八段(現九段)に会った。今夜が棋聖戦の対局前夜であることは広津さんも知っている。棋聖の内藤が夜の銀座へ出かけてきた。(おかしいぞ)と広津さんは思っただろう。が、すべては知らん顔で四人でバーへととびこんだ。

 内藤は急ピッチで飲んでいた。荒れる神経をアルコールで懸命に鎮めようとしていた。広津、芹沢、わたしの三人は、とりとめのない話で興じているふりをしていたが、なんとか早くこの場を切りあげたいと思っていた。このままでは内藤はつぶれてしまう!

 深夜になって福田家別館に帰った。芹沢さんが別のホテルを用意するから、そっちに泊まらないかといったが内藤は断ったそうだ。

勝負

 17日午前9時から対局開始。先手番大山の居飛車に内藤の中飛車から穴熊という展開。おそらく、内藤は一睡もしていないだろう。人間観察に鋭い大山が、内藤の気持ちの揺れを見逃すはずがない。圧倒せんとする大山将棋を内藤が気力でどうハネ返していくか。この勝負、死闘になると思った。

(中略)

 内藤は敗れた。持ち時間6時間を使い切っての1分将棋の果てに投了した。対局室の窓に映る赤坂の夜景を彩るネオンを、わたしはぼんやりと見つめていた。

 内藤はよく闘った。前夜のアクシデントを思うと、とても将棋が指せる状態ではなかった。感想戦のあと内藤は痛飲した。

神戸の夜

 翌朝、宿には内藤とわたしのふたりだけ。近代将棋誌の取材があって、内藤はインタビューをうけていたが、疲労の極で憔悴しきっていた。宿を出たのは午前11時ごろか。帰りの新幹線の車内で”敗将の弁”を聞いた。将棋世界誌の連載企画で、タイトル戦に敗れたものの心境を語らせるという内容であった。

「今期の棋聖戦では、第1局から4局まで、大山名人も私もいろんな”疑問手”や”悪手”を指しています。私なんかは悪い手を指すとそれが気になってまたポカをやってしまう。ところが大山名人は、悪手を指してもその被害を最小限にとどめる。キャリアの違いを感じました」

 ビールを飲みながら内藤は話し続ける。

「しかし、大山名人の将棋で全盛期のような底知れぬ強さ、迫力というものは感じられなくなった。おこがましい言い方だが力の差はなくなったのではあるまいか。棋力は互角でも芸の深さでおよばなかった」

 その夜、内藤とわたしは神戸で夜を徹して飲んだ。すぐ近くの西宮の自宅に内藤は帰らなかった。飲めば対局前夜の光景がよみがえり、酔えば敗局の無念が胸を刺す。

(中略)

「内藤さんの<2二角成>は、まるまるの手損だが私の振り飛車をきらう意味。一戦目も同じ指し方だったが、先手を後手の立場に変えるだけで現実にはなんの得もない。

 ことに内藤さんは、これからグングン伸びていく人。相手の得意なんかたたきのめしてやれ、ぐらいの気概を持ってほしかったと思う。勝たなければ花の咲かない勝負の世界ではあるけれど、常道を闊歩してたじろがない気迫も将来大を成す要因である」

 第3局に敗れたときの大山談話である。五番勝負の激闘中であることを考えると、その堂々たる自信は見事でさえある。

 血相変えて立ちあがる内藤、無言で背をむけていた大山―。この瞬間が”勝負”であった。勝負の修羅場をくぐり抜けてきた差が大きく明暗を分けた。このとき内藤がゆっくり構えて、周囲をやんわりたしなめていたら…。いまの内藤ならそうしただろうが、いかんせん客気盛んな時である。自制よりは怒りが先走ってしまった。

 この第4局、大山は対局室にこもりきりであった。

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大山十五世名人が具体的にどのような部分を気に入らなかったのかは、いろいろな解釈ができるが、どれも推測になってしまう。

この8年後、内藤國雄九段からこの時の真相が語られる。

(明日に続く)