森内俊之四段(当時)「二人ともまだ小学校4年生で、羽生五段は広島カープの帽子をかぶった小さな少年であった。外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた」

将棋世界1988年12月号、森内俊之四段(当時)の第19回新人王戦三番勝負第1局〔対 羽生善治五段〕自戦記「甘さを痛感した一局」より。

将棋世界同じ号より。撮影は中野英伴さん。

 10月5日、連盟の3階の手合課にいると、将棋世界の小泉さんが立ち寄ってきたので、原稿を頼まれるのではないかと嫌な予感がしていたのだが、その予感があたってしまった。手合の人に25日に対局があると聞いて、小泉さんはいやそうな顔をしたので、これはなんとか逃げられるのではないかと思ったが、(締切りの関係で1ヵ月掲載が遅れる)その考えは甘く、「大変申し訳ありませんが、27日迄にお願いできませんでしょうか」というお言葉。

 粘って28日までにしてもらったものの結局はものを頼まれると嫌とは言えない性格のためか?引き受ける事になってしまった。

(中略)

 朝9時40分頃連盟の前に行くと、NHKのテレビカメラが待ち構えていたので、少し緊張したが、新人王戦の決勝は去年もやっていて、だいたいどんな感じかわかっていたので、やりやすかった。

 9時50分頃、羽生五段も入室。

 駒を並べ終え、振り駒で、と金が4枚出て僕が先手になり、10時ちょうどに対局が始まった。

 将棋の方は予定通り矢倉に進めたが、1図の△5三銀はやや意外であった。

 というのは、10日程前に王座戦で同じ将棋を指しており、その時も△5三銀と上がられてので、今度は違う事をやって来ると思ったからだ。

 どうも勘がさえない。

(中略)

 今回、決勝で対戦する事になった羽生五段と初めて会って、将棋を指したのは確か昭和55年1月4日、新宿小田急の将棋まつりと記憶している。

 二人ともまだ小学校4年生で、羽生五段は広島カープの帽子をかぶった小さな少年であった。

 外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた。

 確かその時は勝ったが、3日後の準決勝で再び対戦して、しっかり負かされて、羽生五段が優勝、僕は3位だった。

 それ以来、羽生五段とはいろいろな将棋まつりで戦い、57年に二人とも奨励会に入った。

 常に、僕の少しずつ前に羽生五段がいた。

 それが僕にはかなりプラスであったと思っている。

 今回の対戦、6,7年前までは、デパートの将棋コーナーでやっていたのが、今回はこういった舞台でできて非常に嬉しく思っている。できる限りいい将棋を指したい。

(中略)

 △6七銀不成▲同桂△6八竜ともう一枚銀をもらっても、後手玉が全然詰まないのにはあきれた。

 以下数手王手を続けて投了した。

 まったくこの将棋は、駒に申し訳ない指し方をしたものだ。第2局ではもう少し人に見せられる将棋を指したい。

 追い込まれた事のない自分が、次にどんな将棋を指せるのか自分でも興味がある。

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森内俊之九段の四段時代の自戦記は、初々しさに溢れ、非常に味がある。

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「外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた」

下の写真は、1982年、羽生善治九段が小学生名人位なった時のもの。

どうみても、将棋が強そうに見えるのだが……

近代将棋1982年6月号グラビアより。小学生名人戦で優勝した時の羽生少年。

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「常に、僕の少しずつ前に羽生五段がいた。それが僕にはかなりプラスであったと思っている」

感動的な言葉だ。