NHK将棋講座1996年1月号、鈴木宏彦さんの「今月の話題 東京」より。
七冠へのハードル
ずばり結論から言おう。羽生が七冠王になるためには、残り3つのハードルがある。
- 竜王を防衛する
- 王将戦の挑戦者になる
- 王将を取る
例年だと、これに棋聖の防衛戦がからむのだが、今期から棋聖戦のタイトル戦が1期制になったため、この冬のタイトル戦はなくなった。羽生にとっては思わぬ追い風といっていいだろう。
羽生が残り3つのハードルを跳び越す可能性はどのくらいあるか。
まず1の竜王戦。これが大きな関門である。11月22日に行われた第4局は羽生が勝って2勝2敗のタイに持ち込んだ。ここまで内容的には全く五分と五分。羽生が負けた第1局と第3局はいずれも終盤の競い合いになってから佐藤が突き放している。羽生マジック不発の状況が続いているだけに、羽生も大変だと思う。ここまでくると、防衛の可能性も五分というしかない。
次に2の王将挑戦。3回戦を終えたところで、順位1位の羽生は村山、森内、丸山を破って3連勝。これを順位5位の有吉九段(2勝1敗)と順位3位の中原永世十段(2勝1敗)が追う展開。次の4回戦で有吉-中原のつぶし合いがあるため、羽生はかなり有利な状況だ。竜王戦の状況にもよるが、羽生の挑戦確率は70パーセント以上と思う。
最後に3の王将戦。これは羽生が竜王を防衛するかどうかで、がらりと状況が変わってくる。
はっきり言って、最近の谷川王将はあまり調子がよくない。夏の棋聖戦や王位戦で挑戦を逃したのが尾を引いているようで、今シーズン残る見せ場は王将戦だけという状況である。もちろん、そのラストチャンスに懸ける意気込みは十分にあると思うが…。羽生の勢いか谷川の意地か。これは前期王将戦と同じ状況である。ただ、もし羽生が竜王を防衛して王将に挑戦するようなことになれば、客観的に見て、羽生有利の線は動かないと思う。
というわけで、七冠王の誕生がなるかどうかは、竜王戦の結果が非常にでかいという結論になる(考えてみれば当たり前の世界だ)。七番勝負の後半戦は第5局=11月30日・12月1日。第6局=12月12・13日。第7局=12月20・21日という日程。羽生にとって、ここからが正念場である。
(中略)
話題の焦点を羽生から佐藤康光前竜王に移そう。
七冠王になろうかという人間からタイトルを奪うためには、大変なエネルギーがいる。これは容易に想像できることだ。この半年間、森下八段、三浦五段、郷田五段、森雞二九段という、それぞれ「そのときどきでいちばん勢いのある棋士」が羽生に挑んだが、みんなその壁に跳ね返されている。王座戦の森九段など、2度もひどい逆転負けを喫したが、羽生と戦う棋士は、どうしても意識過剰になる(させられる)面があるようだ。
「それでも佐藤は有望」。だが、竜王戦に関しては、こう見る関係者が多い。なぜか。
- 理由その1 佐藤がB級1組順位戦で快走していること(現在8連勝)竜王戦はでかい勝負だが、佐藤の目標はそれだけではない。順位戦の全勝はいい意味でのゆとりを呼ぶと思う。
- 理由その2 佐藤には羽生マジックが通じにくい。
羽生マジックの正体は対戦相手の自己暗示だと、記者は思っている。その点、佐藤という棋士は見た目以上に太い神経の持ち主だ。
長野で行われた今期竜王戦の第2局。前夜祭で地元テレビのアナウンサーが、こんな質問を二人にした。
「お互いのどんなところをいちばん欲しいと思いますか」
羽生は真面目に「集中力ですね」と答えたが、佐藤は「羽生さんみたいにきれいな婚約者が欲しいです」とやって場内をわかせた。突然の質問に、すらりとジョークが出る。それもふだん、あれだけもの静かな男の口から。この余裕が他の挑戦者とは違うのだ。
(以下略)
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羽生善治七冠誕生3ヵ月前の頃の雰囲気が伝わってくる。
竜王戦七番勝負と王将リーグの激戦の真っ只中なのに、それでも、これから襲ってくる嵐の前の静けさのように感じてしまう。
それほど七冠達成がものすごい出来事だった。
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「お互いのどんなところをいちばん欲しいと思いますか」
非常にユニークな質問で、なかなか考えつかないようなアプローチ。
一般的に考えても、すぐには思いつかない、答えるのに苦労しそうな質問だ。
佐藤康光前竜王(当時)の「羽生さんみたいにきれいな婚約者が欲しいです」は、まさに当意即妙。
この頃の佐藤前竜王は、まだ結婚願望はそれほどなかったと思うが、素晴らしいサービス精神だと思う。