NHK将棋講座1996年2月号、畠山直毅さんの竜王戦七番勝負「覇者の条件(2)」より。
竜王戦が終わった。佐藤のリードを追い上げ、結果は4勝2敗で羽生の竜王初防衛。両者の戦いは、特に最終局となった第6局は、凄絶を極めた。
この2人の「対話」をわれわれ将棋ファンにもわかるように翻訳してみたい―前号でこう書いたが、今回は、この今期竜王戦の集大成ともいうべき第6局を、僕なりの工夫で翻訳してみることにした。
翻訳のブレーンを務めてくれたのは、第6局の現場にいた行方尚史五段、棋譜を徹夜で並べてくれた三浦弘行五段、田村康介四段の3人だ。この3人を選んだ理由は、
- 将来、タイトル戦を争うだけの高い素養を秘めている(三浦はすでに棋聖戦で羽生と戦っている)
- 3人ともに無頼派というか、自分だけの価値観で歯に衣着せぬ言葉を持っている。
羽生や佐藤のライバルになる直線で、両雄の存在を「今に見ていろ」という気概で凝視している。そんな若者が竜王戦第6局の棋譜をどう感じ、どう読み取ったか。
(中略)
▲8四銀(1図)軽視した俗手
羽生、佐藤ともに勝算があっての5五局地戦だったが、素人でも浮かぶ俗手、▲8四銀を佐藤は軽視していたのだ。
佐藤「他の手(▲8三角など)かな、と思っていて……打たれてから痛みに気づきました。この先はちょっと苦しくなってる。とすると、△3五同歩が問題だったか……」
佐藤が長考に沈む。苦悶の表情。
行方「羽生さんは、素人っぽい俗手で相手にダメージを与えることが多い。プロ棋士は一瞬で『こう指す一手』『これは絶対にない一手』と決めつけるのが普通なんですが、羽生さんの感覚は違う。どんな手でもあえて必ず疑ってかかり、あってはならないはずの手を平然と指す。そして、それが『何を指されるかわからない』っていう強烈な”羽生ブランド”につながっているんです」
△7二銀(深い傷跡)
少ない残り時間から49分を消費して、佐藤が苦渋の表情で銀を引く。この長考といい表情といい、佐藤の素直な性格が手に取るようにわかる。
控え室「羽生さんだったら、ノータイムで△7二銀と引いたかも。『そんな手は成立しませんよ』って顔でね」
(中略)
▲7三銀不成(2図)最も激しい一着
佐藤の勝負手(△5五歩)に対し、羽生、最後の長考37分。しかも弾けるような指先で、指した手が斬り合いの過激手▲7三銀不成となれば、
三浦「羽生さんが勝ちを読み切ったと。もう終局は近いと思いました」
(中略)
▲6八銀打(3図)波乱を呼んだ盤石
一見、盤石この上ない銀打ちが、波乱のキッカケになった。先手陣はこの銀を打たなくとも4六の馬が利いていて、まだまだ安全。一連の激しい手順を踏襲した以上は、自陣を放置して▲3五飛△3四歩▲8五飛と回るべきだった(飛車成り確定に加えて「持ち駒」の銀が攻めにも活躍できる)。完全な緩手。勝勢を意識しすぎるあまり、さすがの羽生にも震えが出たか。
羽生「いや、震えというか、ひと目(銀が)あったほうがよさそうじゃないですか。自陣も相当危ない形に見えたんで、つい当然のように」
佐藤「あ、あの銀は打たれた瞬間に、ありがたいと思いました」
序盤から窮屈そうに軋んでいた佐藤の駒が、この▲6八銀打を境に躍動を開始する。
(中略)
△4四銀(4図)逆転へ
「羽生必勝」の流れが、▲6八銀打で一気に紛れた。佐藤が冷静な指し回しで、一手ごとにポイントを稼ぐ。特に△4四銀はあとの△5五銀の布石をつくると同時に、▲6三銀成から前もって逃げる一石二鳥の絶妙手。
田村「一番印象に残っている手。△4四銀は、今の僕には死んでも指せませんね。こんな切迫した局面で手を渡す気になれない。王様を先に逃げるならわかるけど、銀を逃げるとは……。さすがですね」
やっと佐藤らしい、渋く強い一着が飛び出した。
羽生「この△4四銀で難しくなりましたね。混乱もしたし、もう優勢なのかどうか、わからなくなった」
▲6三銀成△2二玉(8手の得)
△4四銀の早逃げで甘くなった▲6三銀成に対し、佐藤は落ち着き払った手付きで△2二玉。銀に続く玉の早逃げで後手陣は急速に引き締まった。羽生の顔が苦しそうに歪む。
▲8二飛成△3二金▲6四馬(5図)無謀に近い勝負手
△3二金と寄って、さしあたり、後手陣から緊迫した危機感が消えた。次の△5五桂の味(銀取り&馬道をふさぐ)を考えると、もはや逆転の勢い。残り時間は羽生9分、佐藤5分。羽生は2分使って馬をつかんだ。
「ひぇぇぇぇっ、怖いなあっ!」
控え室に絶叫が響き渡る。▲6四馬のスーパー強手。守りの切り札でもあった馬を、前線に繰り出したのだ。しかも、この馬出にはすぐに敵陣を粉砕する破壊力はない。
行方「この馬出は勝負手だけど、先手が相当損をしています。ここでは▲1五歩からの端攻めで先手勝ちのような気がするんですが……」
羽生、変調か。ただ、意表をついた馬出で、佐藤は貴重な持ち時間の4分を使いきった。羽生は損を知りつつ「佐藤の脳ミソを混乱させる」という代償を得たのかもしれない。
佐藤「このあたりからは意表を突かれる手の連続で、ほとんど全部といっていいほど僕の読みがはずれてました。いや、苦しかったです」
自然流に終始していた羽生が、ついに老獪な勝負師に変貌したのだ。
△5五桂▲5六銀△6二歩(6図)佐藤の本領
ついに1分将棋に突入した佐藤。馬の脅威をひしと感じつつ、59秒の秒読みで△5五桂と仕掛ける。そして、羽生の▲5六銀を見て一転、自陣に手を戻し、△6二歩と竜道をふさいだ。▲同竜なら△8五桂~△3八竜という筋が発生する。妙手だ。
行方「△6二歩を”いつ打つか”で棋士の強さがわかる。佐藤さんは、打つぞ打つぞと見せかけて、なかなか打たなかった。打てば先手陣が寄せやすくなるけど、逆に局面も単純化する。考えられる最善のタイミング。いちばん相手の頭がおかしくなるタイミングで佐藤さんは打った」
▲5五銀△4五角▲4四銀(7図)怒りの進軍
▲5五銀から羽生の指先に異変がおきた。小刻みに揺れながらも、盤面に叩きつけるような鬼気迫る指先。
「どこでおかしくなったんだ!」
と自分を叱咤しているようだ。
一方の佐藤は、攻防に味のよすぎる△4五角。読売新聞の控え室には絶え間なく外線のベルが響き、そのたびに担当記者が「(形勢は)まったくわかりません!」とさけぶ。
▲4四銀………このときの羽生の指先ときたら、ぶるぶるに震えてマス目からはみ出し、佐藤の角や歩を弾き飛ばすほどブレまくっていた。しかも、この手に割いた時間は、わずか30秒!1分将棋の佐藤を焦らせる「時間攻め」だったか!? その指先には「まだ残しているはずだ!」といった執念が感じられた。
△8九竜▲9七玉△9五桂(8図)羽生、パニックに陥る
△8九竜で、ついに鉄壁を誇った先手陣のしりに火がついた。必然の▲9七玉に、佐藤は、まだギリギリ59秒の秒読みを聞きながら桂馬を急所に打ちすえる。
感想戦での羽生「この△9五桂で、頭がおかしくなっちゃいました」
▲3三歩△同桂(59.8秒の決断)
羽生が投げつけるように歩を打つのを見て「うっひゃあ!」と控え室。自陣に詰みはないと見越しての叩きだが、ここで手を渡すのでは、生きた心地はしないだろう。
だが、しばらく敵陣を凝視し、それから自陣に目を戻した佐藤は、深い前傾姿勢で△同桂と応じる。秒読み58秒で羽生の歩をつかみどり、59.8秒くらいで桂を打つ姿は、控え室が一瞬静まり返るほどのド迫力だった。
▲4一銀(9図)壮絶な1分将棋へ
ついに羽生も虎の子の1分を使い切り、両者、1分将棋に突入した。時間に追われて頭をかきむしりながら指した手は▲4一銀!もし羽生が負けたなら、この手が敗着と言われただろう。なにしろ、本譜の手順どおりの「王手銀取り」の素抜きが見えているのだ。
羽生「何か有効な手があるような気がしてならなかったけど、どうしても見えなかった。慌てて指した手で、その後は負けだと覚悟しました」
佐藤「びっくりしました。逆転したという直感があった」
この▲4一銀では、控え室で行方が指摘した▲2五桂が有効な手だった。以下△同桂▲3三歩で、後手陣はぴったり寄る。この手が見えずに、素抜きされるような銀を打つようでは、確かに逆転しているはずだ。
だが、このタダ捨ての銀には、妖しい魔力があった。
△8七桂成▲同竜△同竜▲同玉△8一飛▲8三歩△4一飛(10図)悪魔の誘惑?
この手順は、おそらく時間があれば僕でも指せる一直線の攻防である。打たせた銀をタダで召し捕って、悪いはずがない。「王手銀取り」……逆転の手ごたえを実感する一手だ。
だが、この気持ちのいい△8一飛では、△3一金打、あるいは△4二金打と受ける手が勝っていたようだ。
三浦「飛車を手持ちにしておけば、先手陣にはすぐに詰めろがかかる。それに後手が銀を持てば、△7八銀以下の即詰みまでありますから。まあ、もちろん1分将棋では、僕も△8一飛と指したと思いますが」
▲4一銀に対して当然の最善手と思えた△8一飛は、実は疑問手だったのか。もしや、タダ捨ての▲4一銀は「飛車を打たせる」誘い水だったのではないか。事実、佐藤の飛車は、この銀を取ってから最後までソッポの隠居暮らしに終わるのだ。
もちろん、羽生がそこまで計算して銀を打ったとは思えないが、無意識の中に「飛車を使わせれば」という将棋観が働いたのかもしれない。
▲3三銀成△同金▲5二飛△3二金打▲5六歩(11図)驚愕の歩
「うわあっ、ここで受けるの!?」
1分将棋の修羅場で、いきなり手を戻した▲5六歩に、控え室はパニック状態と化した。
行方「見た瞬間に、僕の頭も切れちゃいました。△6三角ならなし崩しにやられそうな局面ですから。なんか、手つきも含めてすごい執着のようなものを感じました。『間違えろ!』というさけびが聞こえるような。あの修羅場でこんな一手を指せる人間がいるっていうのを、同じ棋士としてどう受け止めればいいのか」
傍観者以上に動揺したであろう佐藤は、直後に敗着の手を指す。
△6三歩(12図)痛恨の敗着
あまりに意表を突いた羽生の▲5六歩に、佐藤は身を乗り出し、敵陣~自陣に目を移して手拍子で△6三歩と成銀を払った。この瞬間、佐藤の勝ちはほぼ消滅した。
△6三歩では△6三角▲6二飛成△7二金▲6三馬△6二金▲4一馬△6七銀で、佐藤の勝ち筋だったのだ。1分将棋の連続のなか、佐藤は羽生の念波に当てられたのか。
(中略)
双方1分将棋に突入してから、65手。羽生の顔が引きつり、佐藤の指が盤上をさまよう死闘が終わった。
簡単に棋譜を並べたが、見ているわれわれでさえも、一手一手に身を削られるような、すさまじいとしか言いようのない勝負だった。
負けを覚悟してから20手、佐藤はそのときの心境をこう語っている。
「つらかった。つらかったけど、自分の指した将棋ですから。島さんの言う『自分の指す将棋に責任を持つ』そんな心境で指してました」
さらに僕は嫌味な質問を投げかけた。羽生さんの強さをどう感じていますか? 佐藤はちょっと下を向いてから、静かに答えた。
「羽生さんとタイトル戦を戦うと、自分の不勉強さをいやがうえにも実感しますね。でも、本当のところ、その強さはわかりません。相手の強さもあるけど、自分が間違えるから負ける。今回も、相手はともかく自分のために指し続けたつもりです」
竜王を防衛した翌日、羽生はこの死闘をこう振り返っている。
「なるべく1分将棋にならないように、2、3分でも時間を残すほうなんです。いや、今回はエネルギーを使いました。こんなに使ったのは珍しいというか、はじめて、ですね」
1分将棋に65手を費やすギリギリの勝負で羽生が勝ち、佐藤が敗れた。その差は、もはや技術ではない。羽生のほうが心理戦に長けている、という単純な理由だけでもないだろう。
覇者の条件。それは何か。この竜王戦をはじめ、六冠をことごとく防衛してきた羽生。その源流に存在するモノは何か。
昔から「名人位とは、将棋の神に選ばれし者だけが、足を踏み入れることのできる聖地なり」みたいな格言がある。羽生は神から選ばれた者なのか。それとも純粋に「心技体ともに総合的に強い」ということでしかないのか……。僕にはわからない。
それがわかるためには、今回の翻訳をさらに深く深く内面まで読み込んで、その先に見えるモノを言葉にしなければならないだろう。だが、羽生善治と佐藤康光以外の誰に、その翻訳ができるというのか。
覇者の条件。
「それは、羽生と佐藤が蒼白の顔で描いた竜王戦の棋譜だけが知っているのです」
とりあえず、今は、こう答えるしかない。
翻訳ブレーンの「盤上この一手」
◯田村康介四段
この棋譜だけを単に評価するなら、「駄局」の部類に入ると思います。
ただ、1分将棋で65手も指したことを考えると、もはやこれは最高級レベルと言うしかない。
佐藤先生は、そんなハイレベルの1分将棋で逆転の形勢にまで持ち込んだんだから、その強さにも驚愕せざるをえない。特に△4四銀(4図)は、僕が死んでも指せない一手として強く印象に残っています。
◯三浦弘行五段
素抜きされるのが見え見えの▲4一銀(9図)に尽きます。僕はもちろん、ほとんどの棋士は「ひと目失着。これで逆転か」と感じるはず。
でも、実際に「王手銀取り」から銀を素抜きされたものの、その後の形勢は、先手がそれほど悪くなっていなかった。ビックリしました。悪くなっていないどころか、飛車の働きの差でまだ先手が残してさえいる。
じゃあ、羽生先生がわざと「取らせる銀」を打ったのか。それはないはず。もしそうなら、たとえ無意識だとしても、恐ろしすぎる感覚です。
◯行方尚史五段
驚愕の▲5六歩!(11図)1分将棋で受ける気には絶対にならない局面での、あの歩打ちは感動を超えて、ショックでした。
「なんだ、この手は!? この錯乱者め!!」とさけんだほどです。
佐藤さんも、きっとビックリして次に敗着を指したような気がします。羽生さんにはこの言葉を贈りたい。それ以外に適切な表現は見当たりません。
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構成が斬新で、非常に面白く迫力に溢れた観戦記だと思う。
ただし、大河ドラマの架空の登場人物を好まない視聴者もいれば、気にならない視聴者もいる、のと似たような雰囲気で、「覇者の条件」の部分は好みが分かれるような感じがした。
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三浦弘行五段、行方尚史五段、田村康介四段(段位は当時)、最もインパクトのあった手が三人三様なのが興味深い。
また、驚き方もそれぞれ個性が出ていて面白い。
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その中でも行方五段の「なんだ、この手は!? この錯乱者め!!」は、棋士が棋士に贈るこれ以上ないほどの賛辞になるのではないかと思う。
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この竜王戦第6局の将棋世界での観戦記→「羽生は、佐藤の勝ち筋を踏みつぶしてしまったですね。無理矢理に」