将棋世界1996年4月号、東公平さんの「小堀清一九段追悼 赤鼻の将棋学徒」より。
生粋のハマっ子で古武士の風格を備えた小堀先生は”羽生善治七冠旋風”の吹き荒れるさなか、愛弟子・津村常吉の後を追い、河口俊彦を残して冥界の人となられた。
明治の最後の年に横浜の伊勢町で生まれた小堀先生は、旧制中学卒業間際に学業を捨てて、大森(現東京都大田区)に道場を開いていた金子金五郎八段(日本山妙法寺僧侶)の門下に走った。宗教とはあまり関係がなかったようである。
当時の小堀奨励会員を、金子びいきの中島融雪翁(将棋連盟最高顧問)が「晩学だが前途有望な、金子八段の秘蔵弟子」と言っている。以後の、棋士としての活躍ぶりは棋士名鑑にある通り。
小堀先生の父君は風変わりな人だったと、河口さんご夫妻から聞いた。織物業のかたわら、アメリカへ船で輸出する「金魚」の交配の研究に打ち込み、ついに日本独自の「蘭鋳」=ランチュウ=を作ったのだ。明治時代の、港ヨコハマの有名人である。
(中略)
東京・東中野の連盟本部でお目にかかった小堀七段は、意外にもおっとり話す人であり、普段はいつもニコニコ笑い顔だったが、対局の朝だけは、怖い顔で盤の前にどっしりと正座された。
ゲンかつぎも有名だった。大黒柱のまわりを3回まわってから家を出発する。うっかり考え事をして(たぶん小堀流腰掛銀の新手)駅に着いてしまうと、くるりと家に引き返して柱の3回まわりをやる。ハンカチで流れる汗を拭き拭き連盟に到着する先生のお姿を思い出すのである。
棋譜の筆写がまた風変わり。束にして持って来た絵葉書の裏やハガキ大のカードに、猛烈な速さで一局一枚、万年筆の青い字を書く。なにしろ将棋連盟が小石川にあった大昔からの研究法だというので、驚嘆のほかはない。データとして家に積んでおくが、古いのは自分の字が読めなかったそうだ。
趣味は読書、となっていたが、ほんとうに好きだったのはデパート巡り。特に、鞄を買うのが楽しみで、今で言う「衝動買い」もある。独身で恋人もいないのに、女物のハンドバッグを買ってしまうのだ。返品なんかしない。家に溜まると将棋連盟に持って来て女子職員に「もったいないから、これ、あなたがたに上げるよ」と店をひろげる。男物の鞄は私たち棋士職員が、より取り見取りで貰った。風呂敷一枚が先生の手もとに残った。
思い出は尽きない。
小堀先生の癖は、将棋が優勢になると口許がほころび、勝ちが見えると笑い出してしまうのだ。笑い声をおさえるために、つるり、つるりと顔を上から下になでおろす。
だから、勝って感想戦をやる時には、白い大きな鼻が真っ赤になっていた。クリスマスの季節になるたびに小堀先生のお姿を思い出す。
小堀清一九段
明治45年2月10日、横浜市の生まれ。
昭和4年、故・金子金五郎九段門。7年初段、11年四段、17年五段、19年六段、22年七段、27年八段、59年4月九段。
28年AB級選抜戦、31年第4回王座戦で優勝。A級は2年。60年11月、勤続50年棋士として表彰。
62年4月1日、現役引退。
「将棋学徒」といわれる研究家で、腰掛銀に「小堀流」と呼ばれる城跡を開拓。連盟「将棋教室」の主任講師を務めた。
弟子に河口俊彦六段がいる。
平成8年2月2日2時48分、肺炎のため神奈川県相模原市の湘北病院で死去。享年83歳。
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大黒柱のまわりを3回まわってから家を出発するというゲンかつぎ。
それほど実行が難しくないゲンかつぎであり、何か気持ちが分かるような感じがする。
やり忘れた場合、駅から戻ってでも実行するところが絶妙だ。
家に財布を忘れたつもりになれば、やはり家に戻るのは苦にならないと思う。
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「棋譜の筆写がまた風変わり。束にして持って来た絵葉書の裏やハガキ大のカードに、猛烈な速さで一局一枚、万年筆の青い字を書く」
まだコピーのない時代。
ノートに書かなかったのは、例えば棋士別であったり戦型別のような分類をして、保存をするためだったのだろうか。
字を小さく書いても、1局が1枚には収まりそうもないような感じがする。
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「男物の鞄は私たち棋士職員が、より取り見取りで貰った。風呂敷一枚が先生の手もとに残った」
ゲンかつぎ、棋譜の筆写、鞄の衝動買い、真っ赤になった鼻、
微笑ましいエピソードが続く中、だんだんと感傷的な気持ちになってくる。
東公平さんの名文が光る。
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