明日の王位戦第3局は神戸市の「中の坊瑞苑」で行われるが、12年前の王位戦第3局も「中の坊瑞苑」で行われている。
その時の、羽生善治名人と佐藤康光九段の驚異的な根気と集中力のエピソード。
近代将棋1998年10月号、池崎和記さんの「普段着の棋士たち関西編」より。
羽生-佐藤の王位戦第三局取材のため有馬温泉の「中の坊瑞苑」へ。
立会人は内藤九段と坪内七段で、二日目の午後には谷川竜王、井上八段、畠山鎮五段、増田四段らが控室に姿を見せた。
シリーズ初の矢倉戦で、先番の佐藤名人が勝った。
(中略)
ここでは盤外情報を二つ紹介しよう。
一つは、佐藤名人の弟さんは歌舞伎役者らしい、ということ。これは谷川さんから教えられた。
「週刊誌に載っていたんですよ。池崎さん、知ってました?」
「いえ、初耳です」
私だけではないようで、三社連合の高林譲司記者も「初めて聞きました」とビックリしていた。
もう一つは詰将棋の話題。
控室で内藤九段が自作の長編詰将棋を見せてくれた。これが何とも恐ろしい作品で、全駒を使用し、しかも攻め方が実戦初形なのだ。もちろん5九に玉もいるから、双玉問題でもある。
十数年前、内藤九段は玉方が実戦初形になっている七十一手の作品を発表して驚かせたが、今回の新作は攻め方が実戦初形だから、完全な逆バージョンといえる。
この新作に、羽生王位と佐藤名人が挑戦した。二日目の夜(つまり対局が終わってから)のことだ。
(中略)
さて、羽生さんと佐藤さんである。二人は酒も飲まず、盤の前で腕組みして延々と考えている。駒を動かさないのは、言うまでもない。
その横で私は内藤先生や高林さんと酒を飲んで歓談しているのだから、何ともケッタイな控室である。内藤先生はごきげんで、時折、隣を見ながら「世界一の二人がこれだけ考えてくれるんだから、うれしいな」とか、「駒を動かしてもいいんだよ」なんて言っている。
「いやいや、駒を動かすのは」と苦笑いして佐藤さん。そりゃあそうだ。どんな大長編でもプロは頭の中だけで考えるのである。
しかし二時間たっても「できました」という声が聞こえてこない。ということは、とてつもない難解作だということだ。
「うーん、どうしたものかね」と内藤先生。このままほっとくと羽生さんと佐藤さんが朝まで考えそうな気配なので、ちょっと心配になったのだ。で、三時間経過したところで「きょうはここまでにしましょう」となった。
「明日、帰りの新幹線の中で考えます」と羽生さんが言うと、佐藤さんも「配置は覚えましたから」。
それにしても、二人の根気と集中力はすごい。
タイトル戦を戦い終えたばかりというのに、にぎやかな控室で、二人だけの別世界を作って三時間も考え続けたのだから……。
ここに谷川さんがいたら、もっと面白かったのに、と思った。
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打ち上げ終了後の控室ということになるから、詰将棋開始時刻はかなり遅かったのだと思う。
根気と集中力もさることながら、目の前にある酒を飲まないという強靭な意志もすごいものだと思う。