昨日の記事で新宿の「あり」の話が出たので、今日は「あり」の話。
近代将棋1998年11月号、私が書いた「将棋ネットの散歩道⑩ 芹沢九段が愛した店」より。(当時の文章に加筆訂正しています)
将棋は苦し
歌は楽し
人生面白し
芹沢博文
ママアリ様 59.9.21
新宿の酒場「あり」に飾られている故・芹沢九段の色紙。ママに色紙のエピソードなどを聞いてみることにした。
「ああ、芹沢先生ね。懐かしい思い出ばかりで……中原先生と米長先生が坊主頭の芹沢先生を店にお連れくださったのが始まりだったんですよ」
芹沢九段は「あり」を気に入って、それからたびたび顔を見せるようになる。
「とても楽しい方で、いつも笑わされていたの」
「あり」はもともと将棋とは縁のない店だったが、この頃から将棋関係者が多く集まるようになり、今では店の中で将棋を指せるほどになっている。
「そう、思い出ねえ…沢山あり過ぎて何からお話していいのか。芹沢先生、色川武大さんと3人で行った小倉の競輪場の出来事も面白かったし。そうそう、忘れられない話でこんな事があったの…」
ある時、店に暴力団風の二人組がやってきたという。男たちはカウンターに座って理不尽なことを言ったり因縁をつけたり脅かしたりのやりたい放題。
ママやお客さんたちは震え上がり、かつ困り果てていた。
「やあ、ママ」
この時、芹沢九段が後ろの席からカウンターへ移ってきた。
二人組の兄貴分の方が、テレビで見たことのある芹沢九段に気付き、話しかけてくる。
「おう、芹沢先生じゃないですか」
芹沢九段は兄貴分に振り向きもせずにちょっと間を置いてからママに話しかける。
「最近の女の子ってのは何考えてんだろうね。いやね、ウチの娘にって千葉の○○親分が成人式のお祝いを送ってくれたんだよ。それで娘を連れてお礼の挨拶に行ったらさ、娘が『親分さん、その節は』って片膝ついて言うんだよ。参っちゃうよね」
「せ、せりざわせんんせ……」
兄貴分が再び芹沢九段に声をかけようとした時、芹沢九段から決定打が放たれた。
「店には店の流儀ってものがある。流儀を守れないような奴は帰れ」
うろたえる兄貴分。
「二度と来るなよ。わかったな」
「はい、わかりました」
逃げるように店を出ていく二人組。
「芹沢先生、千両役者みたいだった。もうお客さんは拍手喝采だったし。芹沢先生、私たちを体を張って守ってくれたのよね。……あっ、色紙のこと!? あれはお嬢さんが先生からことづかって持ってきたの。なぜかはわからないけれど」
芹沢九段は色紙の日付9月21日を逆にした12月9日に亡くなっている。
「芹沢先生、ツケは沢山たまっていたけど、それを上回るほど楽しい思い出がいっぱい」
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「あり」は当初はゴールデン街にあった。
1979年、故・田中小実昌さんは直木賞受賞の報せを「あり」で飲んでいる時に受けている。
新宿二丁目の今の場所に移ってからは、俳優(金子信雄、佐藤慶など)、落語家がよく来るようになり、その後、棋士や将棋界関係者が多く訪れる店となった。
芹沢九段のエッセイにも「あり」の名前は多く出てくる。
女性が一人で気軽に飲みに行ける店でもあった。
2008年1月に、今の二代目ママにバトンタッチした。