団鬼六「珍妙な賭将棋」

今日は団鬼六さんの葬儀・告別式。

団鬼六さんへの弔意を込めて、団さんが40代の頃に書いた将棋の随筆をお届けしたい。

将棋世界1972年8月号より。

珍妙な賭将棋

 中学生の頃、親父から小遣いをもらうには親父と将棋を指して勝たなければならなかった。

 要求する小遣銭を親父は将棋盤の横へ並べ私が負けると、さっとそれを懐へしまい、しっかり勉強せい、といって逃げ出してしまう。

 それが口惜しくて私は古本屋をあさっては将棋雑誌を買い集め、勉強などそっちのけで将棋定跡を研究したものであった。

 その時の将棋雑誌にたしか木村名人が初手から二、三手目の4八銀と上がる手に二時間以上の長考をしたという記事があり、専門家というものは大したものだとその事を親父に話すと、木村名人というのは思った程、大して強くはない、というのだ。俺ならそんな手は直感で浮かぶと親父は自慢げにいうのである。

 ま、こんな親父だから、棋力の程もたかが知れていて、それから一年ばかりたつと、全然、私には歯が立たなくなった。

 大学に入ってから私の将棋熱はますます高じて、そのためではないが、獲得単位の不足から落第は必至という所まで追いつめられた事がある。部長教授のK先生の自宅へ私は泣きつきに行ったのだが、とにかく頑固一徹な先生故、私は半分あきらめていた。

 ところが、先生の応接間へ通されると立派な将棋盤がそなえつけられてある。ひょっとすると助かるかも知れぬという希望が私にわいて来た。

 むつかしい顔をして応接間へ入って来られたK先生に私は用件を切り出す前に「先生、一局、教えて頂けませんか」と、将棋盤を指さしたのである。

「なんだ、君、将棋を指すため、僕の所へ来たのかね。僕は君と将棋が指せる程、閑な人間ぢゃないんだ」とK先生は不快そうにいったが、それで指さないのかというとそうではなく、何かブツブツ口の中で小言をいいながら、将棋盤の前に座り、駒を並べにかかるのだ。落語などによくへぼ将棋の話が出てくるが、愛棋家というものはどことなくユーモラスな所がある。

 このK教授にしたって、あとでわかった事だが、棋力は7級であるのに当時、初段位の実力はあったと思う私に向かって、飛車と角を最初から当然の事のように落としてしまうのだ。いくら負かされたって二枚落ちでなければ私と指さないのである。

 五番やって五番とも楽勝し(当たり前だが)結果、先生は大変に不機嫌になってしまったが、私の落第は救って下すった。

 これも今になって考えれば、卒業か落第を賭けた一種の賭将棋であったように思われる。

 賭将棋などの品の悪いことは私は滅多にやらないが、それでも今は大会社の重役になっているYさんとは昔からの癖で今でも負けた方が銀座の酒場をおごる事になっている。彼とは大学時代の親友だが、当時、Yさんと私との賭将棋は、観戦していた友人達が目を白黒したものだ。

 待ったは認め合う事になっていて、しかしそれは十円の待った料を取るという風にとりきめてある。それはとにかく、相手の持ち駒を必要に応じて買いとる事が出来るという珍妙なルールを作っていた。

 たとえば、あと金が一枚あれば敵玉を詰ます事が出来ると敵は判断する。こっちは金が敵にあったって自玉は詰まないと判断する。そうすると、こちらの持ち駒に金があれば三十円で相手に売っちまうのだ。飛車なら五十円、角なら四十円、とおでん屋みたいに一つ一つ値段をつけて、私は飛角、金銀までYさんに売りつけ、それでもYさんは私の玉を詰ます事が出来ず百円の罰金をとられた上、駒買い損までして口惜しがったものだ。

 これ程、珍無類な賭将棋はないと思うが、今でもその当時の癖が出て、社長室で私と将棋を指すYさんは、終盤近くになると、こちらの駒台をじろりと睨み、「どうかね、桂馬と歩を二枚、譲ってくれないか」などといい出し、観戦する社員達を驚かせるのである。

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