立川談志さんが21日に亡くなった。享年75歳。
近代将棋1997年7月号、故・団鬼六さんの「鬼六面白談義」より。
スポーツ新聞や、風俗雑誌経営で有名な「ナイタイ」の社主・円山氏は中でも典型的な将棋バカの一人であった。
最初、円山社長を私に、あの将棋好きは半端なものではない、といって紹介したのは落語の立川談志師匠だった。彼の将棋好きより生じる落語のバカ殿様的奇行は落語のいいネタになると談志は私にいった。
そういう立川談志だって将棋好きで、もっとも腕前はまあ、七、八級程度だと思うが、以前、ジャーナル誌を私が経営していた時、弟子二、三人を引き連れて私がアマ強豪と対戦しているのを観戦に来た。持ち時間、三十分ぐらいの対決だったが、少考などすると、何でそんな所で考えるんだ、とか、こっちは忙しいんですぐ他所へ行かなきゃならないんで早く指しなよ、と、うるさくてかなわない。あまりうるさいので別の将棋盤を持たせて弟子と指させてみると、駒台の駒はすぐに掌に握って相手には見せない。「師匠、手に何を持ってるんですか」と弟子が聞くと、「素人だな、おめえは、盤上の駒をよく見て俺が何を持っているか当ててみなよ」と胸をはっていうのである。ふと、隣の盤をのぞきこんでみると談志はすでに二歩を打っていた。「師匠、二歩を打ってるよ」と私が注意すると、弟子は「道理でこっちが不利だと思った」と、ぼやきながら二歩を打った場面まで指し手を戻そうとすると談志は時間が惜しいと怒り出していった。
「おめえも適当な所で二歩打ちな。それでチャラにしようじゃねえか。二歩ぐらいで驚くねえ。先代の志ん生は三歩打っても平然として素知らぬ顔で指し続けた」
こういう将棋だから談志が何時までたっても七、八級から向上しないのは無理ないのだが、
(以下略)
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この文章が書かれた14年後の今年、団鬼六さんも立川談志さんも亡くなった。
非常に残念なことだ。
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近代将棋社の経営上の問題から、「ナイタイ」は1998年から近代将棋の発行を引き受けることになる。
「ナイタイ」を説得したのが団鬼六さんだった。
”たられば”はそう単純に解析できるものではないが、立川談志さんがいなかったら近代将棋の発行が1997年いっぱいで終了していた可能性もあったことになる。
近代将棋は2008年6月号が最終号だ。
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今年亡くなった主な著名人は次の通り(敬称略)。
横澤彪、喜味こいし、坂上二郎、田中好子、児玉清、長門裕之、セーラ・ロウエル、宮尾すすむ、原田芳雄、小松左京、ジョー山中、日吉ミミ、竹脇無我、滝口順平、山内賢、柳ジョージ、北杜夫。
昭和が遠くなっていく・・・