1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」より。
僕の友人に、僕よりも三つ年上のAという男がいる。Aは今春就職したばかりなので、一緒に食事をしたときには、年下ながら収入の多い僕が払うことになっている。
Aは、将棋はほとんどといってよいほど指さないのだが、そのくせ将棋界のことには精通していて、棋士の知り合いが僕一人ということで遠慮がいらないからか、ときどき、ドキリとするような、疑問や見解をぶつけてくることがある。
そのAの持論の一つに、将棋指しの若手は、
「暗い」
というのがあり、いつも会うたびになんだかんだとこの話になる。
Aいわく、
「お前(ご馳走になるくせに威張りやがるのだ)ぐらいの年の若者は、もっと青春を楽しんでいるんだ。お前らみたいに毎日将棋指すだけなんてのは考えられないね。おまけにみんな眼鏡をかけて、無口ときている。俺にはみんな”オタク”に見えるよ」
なかなかいってくれるのである。
当然僕だって、仲間の悪口をいわれたのだがら黙ってはいない。
「僕たちが暗いっていうけど、世間の奴らは、車とファッションと女のことしか考えてないパッパラパーが多いじゃないか。男子一生の仕事に命をかけてるわれわれがオタクだなんて、そういう考え方のほうがどうかしてるね」
というわけで、だいたいいつも激論が戦わせられるのだが、僕は、そのたびに複雑な気分にさせられた。
それは、向こうの論理のなかにも一抹の正論があるな、と感じるからであり、将棋界が、世間からそう見られているということに対する悔しさからであった。
九月七日、残暑というには暑すぎるこの日、連盟ではB級2組順位戦が行われていた。このB2というクラスは、中堅やベテランの強者たちが集まっており、それぞれ順位戦慣れしているため、部屋の雰囲気も、しっとりと落ち着いている。
が、そのなかで一局だけ、若さあふれる対決があった。屋敷-丸山戦。二人合わせても三十八歳という若さあふれる対決である。昼間のうちは、二人とも無口で小柄な目立たないタイプということと、また、順位戦のなかにあって唯一の王座戦ということもあり、この一局に、あまり注目している人はいなかった。形勢は屋敷がよかった。
ところが午後十時、もう終わっているだろう(王座戦は持ち時間五時間)と思って対局室を覗くと、部屋の空気は一変していた。丸山が秒読みのなか、悪い将棋をクソ粘りしていた。
「五十五秒、六、七、八」
秒を読まれるたびに丸山は、肩をいからせ、一枚の駒を、まるで野球のボールを投げるように強く打ちおろした。屋敷は、一手指すごとに、トイレにでも行くのか席を立つのが印象に残った。部屋の雰囲気は緊張感で張りつめ、うっかり咳払いでもしようものなら記録係を含め三人の視線で金縛りにあいそうに感じられた。もちろん、丸山のほうには年下のタイトル保持者に対するライバル意識があったのだろう。丸山は、あきらかに興奮していた。
午前零時半―なんと、まだ対局は続けられていた。五時間の将棋で日付が変わったことなんて聞いたことがない。双方一分将棋のなかで両者とも盤の上に覆いかぶさって指していた。見ていて頭と頭がぶつかりそうでハラハラさせられた。屋敷の唇は震え、視線はときたま宙を舞った。
対局室の緊張とはうらはらに、盤上は大差だった。いや、大差なんてもんじゃない。お互いの玉は寄りそうもないが、丸山の駒は十枚もなかった。もう投げるだろう、と思ったとき、丸山は、盤上のなんの意味もないところに桂を打ちつけた。
それが図の局面である。
丸山はこの手を指すと、目を見開いて屋敷を睨んだ。それは、午後十時に見せた野獣のような目ではなく、己の最期を自覚する悲しい目だった。
僕は、この将棋の終盤戦をAに見せたかった。Aだけではなく、若手棋士のことを、人間味が感じられない、ゲーム感覚でつまらない、などとわかりもしないくせに馬鹿にする評論家に見せてやりたかった。
彼らの姿は、まさに人生を賭けて戦っている者のそれだった。
(以下略)
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この将棋は、このあと△2七銀成▲9七桂△3八香成までの328手で丸山四段(当時)が投了している。
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1996年に羽生七冠が誕生して以来、プロ棋士や将棋が広く認知されるようになり、将棋を「暗い」と思う人は激減した。
そのような意味でも「羽生七冠誕生」は非常に大きな意味を持つ出来事だったと言える。