「郷田真隆”遅れてきた青年”の本番」

今日は郷田真隆九段の誕生日。

将棋マガジン1993年1月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 郷田真隆”遅れてきた青年”の本番」より。

 将棋をろくに知らない人でも、意外にテレビ将棋を見ている。つい先日も、銀座の酒場で、大年増のホステスに「郷田っていい男ねえ」といわれて、びっくりした。長年、通っていたのに、将棋の話をしたおぼえがなかった。こういう潜在将棋人口が、公開対局によって顕在化する可能性は大いに残されている。

 しかし、だからといって、公開対局に登場する棋士が”いい男”である必要はさらさらない。勝負の迫力が、生で観客に伝われば、それで充分である。

 だいたい、私は、郷田真隆王位のことを、やたら「美男棋士」と書きたがる傾向が好きではない。将棋指しも職人と同じで、その風貌は、世間一般の常識を超えたところに真価がある。早い話が、故升田幸三実力制第四代名人は、およそ美男子とは程遠いけれど、じつに、いい顔をしていた。大山康晴十五世名人、また然り。将棋が強ければ、自ずとそれに見合った風貌もでき上がってくる。

 郷田自身にしたって、「美男棋士」ともてはやされるのは、迷惑にちがいない。今回、あらためて質してみたら、こういっていた。

「あれは、なんだかヘンですね。俳優かなんかならともかく、将棋指しなんですから、顔なんかどうだっていいと思うんですけどね」

 これは愚問だった。こんな質問を受けるのも、タイトルを取って注目度が高くなったからにほかならない。

(中略)

 将棋以外の仕事もふえた。初めて名前を聞くような雑誌から、インタビューや撮影の注文がくる。初めて外の空気に当たって、二十一歳の青年は、なにを考えたか―

「それまでは、将棋さえ強くなればいいや、という感じだったんですけど、それだけじゃいけないみたいな気がしました。ぼくは、だらしないところもあるんで、もっとしっかりしなきゃいけないと思って…」

 将棋界以外の人と会う機会がふえて、得るものもあったという。

「編集者やカメラマンの人と話をするんですけど、おたがいにまったく違う世界にいるわけですよね。でも、話しているうちに、共鳴する部分もあって、けっこう楽しいですし、そうだったのかと思うこともいっぱいあります。いままでは、そういう経験をしたことがなかったですから」

 それだけ、おとなになったということかもしれない。

 郷田が四段に昇段したころ、私は”遅れてきた青年”という印象が強かった。そのせいもあって、暗い感じさえした。将棋会館で顔を合わせても、まともに挨拶できないようなところもあった。 ほどなく、郷田は”チャイルドブランド”に匹敵する大器だ、という声が私の耳にもはいってきた。成績もよかった。私には将棋の内容はわかるはずもないが、あの暗さでは、いくら男前でも、スターにはなれないような気がした。いうなれば、私の眼力がいかにいいかげんか、を証明したようなものです。

 そのころ、観戦のおりに、将棋会館近くのそば屋に行ったら、郷田が仲間と食事をしていた。見るともなしに見ていると、郷田は、やや行儀がわるいくらいに、快活に振舞っていた。暗さなんかみじんもない。要するに、まだ子どもなんだ、と私は印象をあらためた。

 郷田は平成二年四月に四段に昇段した。十九歳のときだから、べつに遅いわけではないが、まわりに早過ぎる連中がいて、ずいぶんワリを食った。

 奨励会同期には”チャイルドブランド”と称される羽生善治、森内俊之、佐藤康光の三選手がいる。いずれも、四段昇段は郷田より数年早い。羽生などは、郷田が三段で足踏みしているころに、竜王位を獲得している。あまけに、後輩の屋敷伸之も、郷田のそばを駆け抜けていった。

 いくらまだ先は長いといっても、あいつらにはかなわないんじゃないか、と思いはいめても、ふしぎではない。いちど、そういう意識をもったら、なかなか追いつけないのが、この世界の通例でもある。郷田は、あっさりといっている。

「十五、六のころまでは、ちょっと焦りましたけど、人はどうあれ、自分がしっかりしなければいけない、っていう意識も強かったんです。二、三段のころ、みんながどんどん先に上がっていったときには、そう思うようになりました。人はどうでもいいやって。だから、追いつこうという意識は、四段になってからも、あまりなかったですね。目の前の盤上でやれば、ちょっとちがいますけど」

 エリートに対するコンプレックスをもたなかった。自分だけ取り残された、という落ちこぼれ意識にも染まらなかった。しっかりしているというより”鈍”な性格といったほうが当たっていそうな気もする。

 郷田は東京の生まれで、ごくふつうのサラリーマン家庭に育った。母方の祖父が医者で、跡継ぎがいなかったこともあって、母堂は郷田を医者にしたかったという。この母堂が猛烈な教育ママだったら、いまごろ、郷田は医学部の学生になっていたかもしれない。

 将棋は、アマ二、三段の父君に教わり、小学校にはいってからは、よく親子で指した。強くなろうと思ったことはなかったが、三年生のころには、父親より強くなっていたそうだ。そのころから、近くの大友昇八段の道場に通いはじめ、六年生のときに奨励会に入会した。

 医学部を目ざすなら、これから塾通いをしなければという年ごろだった。母堂は奨励会入りに反対したが、結局は息子の意思に任せた。案外、この子は勉強に向いていない、と見極めていたのかもしれない。

 じっさい、郷田は、成績はまあまあだったが、勉強は好きではなかった。中学、高校時代も、授業では体育がいちばん好きだった。

 このへんも優等生ないしはエリートくさくない。ワルガキではないけれど、けっこう線は太いように思える。

 ワルガキといえば、郷田と親しい先崎学五段がいる。先崎の文章には、しばしば郷田が登場する。そのひとつに「順位戦敗戦記」というのがある。

 先崎が順位戦で郷田に負けて、今期の順位戦は終わったな、と思う。感想戦が終わって、ふたりは新宿に出る。馴染みの店に行くと、仲間がいて、先崎は、ちょっとのつもりが痛飲することになる。

 郷田は強いな、きっと棋聖になるんじゃないかな、とおぼろげに思う。羽生も佐藤(康)も強い―以下の経過は省略するけれど、先崎は倒れるまで飲む。あげくに、日が高く昇ってから、新宿の道路に寝転んだりする。

 自分がピエロになるのを承知で、ことさら自虐気味に書いた文章であることはわかるが、肝心のところがよくわからない。順位戦の大事な一局に負けて、先崎は郷田の顔を見るのもいやなはずなのに、一緒に飲んでいる。それも、お付き合い程度の飲み方ではない。

 郷田のほうも、そういう先崎を見るのはつらいはずなのにちゃんと付き合っている。先崎をひとり残して、さっさと帰ってしまった形跡もない。これは、ちょっと異常ではないのか。郷田はこういっている。

「いつごろまで一緒にいたのかな。朝日は昇ってましたけどね。やっぱり、ふつうの人からみたら変でしょうね。ぼく自身そう思います」

 その心境は、曰くいいがたいようすだったが、こんなふうに答えた。

「なんていったらいいのか…。先崎君は負かされたことを体中で感じているわけです。それを口に出さずに体中にしまっておく。それが見えちゃうという関係じゃなくて、”負けたんだよ、この野郎!”という感じなんです。だから、腹を割って話せるというか…。敢えて誘ってくるんだから、応えなきゃいけないといいますか…。ぼくが負けていても、彼は気をつかって、”飲みに行こうよ”ぐらいのことはいうでしょうけど、ぼくは一緒に飲みにいかなかったと思いますね」

 このあたりは、門外漢の理解をはるかに超えているけれど、つぎの話は理解できる。郷田は王位になってから、意識の変化がなくはないという。そうなると、いままでどおり先崎と付き合うことができるかどうか―

「”おれ、おまえ”の関係は同じでも、微妙に変わったところがあるかもしれません。ぼくが王位を獲って、それを彼も感じているから、どこか会話の感じが変わっているみたいですね」

 これは、ごくあたりまえの話だろう。この両者にかぎらず、二十歳を過ぎた男が、いつまでも十代のころのように、ニコニコつるんでいたら、かえって薄気味わるい。

 郷田が意識の変化を自覚して、それを口に出していえるというのは、やはりタイトルの効用といえないこともない。”遅れてきた青年”は、遅れを取り戻したばかりか、若さというハードルも越えつつあるようだ。

—–

私が初めて観戦記を書い時のこと。(2005年度NHK杯将棋トーナメント2回戦 郷田真隆九段-先崎学八段戦)

そのときの様子は「郷田真隆九段の思いやり」で書いているが、そこで書きもらしたことがある。

対局が終わって控え室へ戻るとき、郷田九段が、

「将棋ペンクラブの幹事をなさっていらっしゃるんですか。いつも将棋のためにいろいろとやっていただいて有難うございます」

そのようなことを言われて、とても恐縮してしまうと同時に感動した。

”将棋のために”という言葉。

将棋界でも棋士でも将棋連盟でもなく、”将棋のために”。

当たり前といえば当たり前かもしれないが、郷田九段は、本当に「将棋」というものを愛しているのだと、強く感じた。