お風呂から出られなくなった三人

24年前の今頃の出来事。

将棋マガジン1988年7月号、記事下「若手棋士こぼれ話」より。

 羽生五段、森下五段、森内四段、中川四段、先崎四段の若手棋士5名が、春休みに一緒に九州を旅行した。本当は6名の予定だったのだが、最初にこの旅行を計画した阿部四段は、病気のため、残念ながら参加することが出来なかった。

 スケジュールを組んだのが森内四段。4泊5日で、東京→福岡→熊本→高千穂峡谷→宮崎→鹿児島→福岡→東京、と移動したのだが、この強行軍には全員グッタリで、特に羽生五段は旅館に着くと、すぐ横になることが多かったという。

 東京⇔福岡間は新幹線を利用したが、この車中に限らず、いつも「将棋を指しましょう」と他の4人に声をかけまくっていたのが中川四段。しかし、相手はしてもらえず、5日間で僅か1~2局指しただけだった。

 この旅行期間中に、ちょうど選抜高校野球が行われていたのだが、各試合毎に、「どっちが勝つ」とか「監督の指示が悪い」とか、いちいち自分の意見を述べ立てていたのが先崎四段。しかし、他の4人は、その話に熱心に耳を傾け、うなづくことも多かった。また、高校野球といえば、初日に熊本に泊まった際、入浴中に、ちょっとしたハプニング(?)が起こり、羽生・森下・森内の3名が、ちょっとした災難(?)に遭ったという。

〔以下次号〕

将棋マガジン1988年8月号、記事下「若手棋士こぼれ話」より。

 初日、博多で中田(功)四段の実家(鰻屋)へ立ち寄って、鰻を食べた後、熊本へ向かった。そして、羽生五段が予約していた宿に着き、ひと休みしてから、羽生・森下・森内の3人で気持ちよく入浴していたところ、突如、全員坊主頭で身体のごっつい少年達が、大挙して同じ浴場に入ってきた。これには3人ともビックリ、少年達が何者か判らなかったこともあって、浴場から出るに出られず、暫くは湯舟から出たり、入ったり、を繰り返すだけだった。

 そして、「参った、もうこれ以上はアカン」とダウン寸前の時に、彼らが先に浴場を出て行ったため、なんとか無事に長い長い入浴タイムを終えることができた。あとで判ったことだが、彼ら(少年達)は、たまたま熊本に遠征していた千葉県の銚子商業野球部員で、決してコワイ(?)お兄さんたちではなかったのだ。中川・先崎の2人は、災難に遭った(?)3人よりも、先に入浴を終えていたため、間一髪、難を逃れて、部屋でくつろいでいたという。

 この旅行のスケジュールを組んだのは森内四段だったが、宿泊等の手配は羽生五段が行った。宿泊費等、全て羽生五段が、一時立て替えたわけだが、残りの4人はこれを”羽生バンク”と呼んだ。

 この”羽生バンク”は、特に問題もなかったため、次なる旅行計画(夏休み頃、四国を予定)の時も、そのまま継承される公算が強いのだが、キツいスケジュールを組んだ森内四段の方は、難ありとされて、次回の計画は、森下五段が行うことになっている。その森下五段いわく「とにかく移動をできる限り減らすこと。これを最大のポイントとして、旅行の計画に取り組みたい」。

 さて強行スケジュールの中、辿り着いた熊本では、雨のために何も見ることができなかった5人は、次の目的地である高千穂峡谷へ向かった。渓谷に行くにあたっては、自転車を利用したのだが、ここでまた森下五段が、二日続きの、今度は本当の災難に遭うことになる。

〔以下次号〕

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実は、この次号である将棋マガジン1988年9月号が手元にない。

森下五段の身に何が起きたのか、とても気になる。

  

※何事もなく自転車で高千穂峡谷を走行した事例→ゆるゆる紀行 高千穂・自転車に乗って

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森内四段はプロになって10ヵ月、先崎四段と中川四段はプロになって6ヵ月。

17歳が3人、19歳、21歳での旅行だった。 

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お風呂の中に自主的軟禁状態となっていた羽生五段と森下五段と森内四段、1990年代には数多くのタイトル戦で羽生-森下戦が、2000年代には羽生-森内戦が行われることになる。

特に名人戦では、1995年が羽生六冠-森下八段戦、 1996年が羽生七冠-森内八段戦という展開だった。

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今年の名人戦も、森内俊之名人-羽生善治二冠戦。

24年前の熊本のお風呂のことを思うと、感慨深いものがある。