森内俊之五段(当時)「休みの日なのに、どうもご苦労さまです」

将棋マガジン1993年11月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:森内俊之 おっとり型の勝負強さ」より。

銀河戦決勝戦。将棋世界1993年11月号より、撮影は弦巻勝さん。

将棋ブームの産物

 森内は昭和45年、横浜市の生まれ。母方の祖父に京須行男八段がいる。もっとも、京須八段は昭和35年に46歳で早逝しているから、孫が将棋指しになったことと、祖父の存在は直接には関係がない。

 将棋は小学校3年のときに、父君から教わった。学校でも将棋が流行っていた。男子生徒は、ほぼ全員が将棋を指していたそうだ。昭和50年代の前半、”将棋ブーム”が巻き起こった時期でもある。

「55年組」から森内の世代にかけて、逸材が輩出したのは、あきらかにブームの産物だろう。ブームが去って、昨今の将棋界は景気低迷の兆が濃い。願わくば、ブームから生まれた若手棋士たちが、自分たちの手で、いまいちどブームを巻き起こしてもらいたいものだ。

 祖父の血を引いていたのか、森内は将棋がおもしろくてしょうがなかった。ふとんのなかにまで盤と駒をもちこんだ。夏休みには、将棋連盟の土曜教室に通い、京須門下の工藤浩平六段(普及指導棋士)の指導を受けた。

 プロ棋士は子どものころから負けず嫌いだった、と相場が決まっている。森内少年も例外ではなかった。幼いころ、母堂とオセロゲームをして、負けるとテーブルの下にもぐって泣いたそうだ。

 だから、というわけではないけれど、将棋も強くなった。小学校5年生のときには、早くもプロ棋士になろうと決心した。

 司法書士の父君は、ひとり息子の森内に後を継がせるつもりだったが、なまじ将棋を教えたばかりに、誤算が生じた。奨励会入りにも反対した。いっぽう、母堂にすれば、父が歩んだ道を息子が歩んでくれるというのだから後押しこそすれ、反対するはずがない。これは、もう勝負あったようなもので、父君が折れるしかなかったようだ。

 6年生のとき、小学生名人戦で3位に入賞した。優勝したのは、羽生善治少年だった。その年の12月に、森内は奨励会にはいった。

 同期には、もちろん羽生がいる。ほどなく大阪から佐藤康光も移ってきた。四段昇段は羽生がいちばん早かった。1年ちょっと遅れて、つぎが佐藤。森内は羽生より1年半遅く昇段した。以後、現在に至るまで、羽生は、つねに森内より一歩も二歩も先にいる。羽生にライバル意識をもっているかどうか。

「奨励会のころは、すこしあったかもしれません。結局、自分は自分というか……。負けたくはないですけど、いくら気にしても、勝てるわけではないですから。平常心でやるしかないですね」

 だいたい、いまの若手棋士は、あまり景気のいい発言をしない。森内の発言にしても、これが本心なのではないか、という気もする。

 しかし、森内は、けっして口が重いほうではない。挨拶もしっかりしているし、この年代にしてはめずらしい気配りもみせる。

 昨年1月、谷川の日程が立て込んで、日曜日に対局が組まれた。谷川は律儀にも観戦の私に、「勝手なことをいってすみません」と頭を下げた。こちらはフリーの身、日曜でもウィークディでも、たいした差はない。

 この日、将棋会館の一室で、某企業の将棋会が開かれ、森内も講師で参加していた。たまたま廊下で森内に会ったら、「休みの日なのに、どうもご苦労さまです」と挨拶された。当事者の谷川はともかく、森内に丁重な言葉をかけられて、私は恐縮した。20歳そこそこでは、なかなかこういう挨拶ができない。正直いって、この青年を見直しましたね。

人間そのものの戦い

 森内は奨励会で羽生にこそ水を開けられたが、まずは順調に四段に昇段したといっていい。昇段後、2年目には全日本プロトーナメント戦の決勝で、当時の谷川名人を下して優勝した。

 なに不自由なく育ち、奨励会時代も、自宅住まいだから生活が変わるわけではなかった。大きな壁にぶつかることもなく、プロ棋士になった。ほどなく棋戦で優勝し、10代で8ケタの大金を手中にする。

 やがて親もとを離れ、独り暮らしをはじめるが、将棋主体の生活だから、懐具合いが寒くなることもない。仲間と一緒に海外旅行にも出かける。これでは、生活感が出てこなくて当然だろう。

 しかし、さすがに勝負のきびしさからは逃げられない。前期の順位戦で、森内は昇級候補の筆頭に挙げられながら、1敗に泣いた。

 8連勝で迎えた対佐伯昌優八段戦―だれしも、森内が勝って、昇級に一歩近づくと予想した。森内自身も「負けると思っていなかった」といっている。ところが、順位戦の恐ろしさとでもいうのか、佐伯が勝った。この1敗で、森内の自力昇級の目が消えた。森内はいっている。

「あんなショックなことは、めったにないですね。アホらしくて、酒を飲む気もしませんでした。人の顔を見たくなかったので、すぐ帰って、ふとんにもぐりこみました。それでも、目が覚めてからも、夢じゃないかと思いましたよ」

 昇級こそ逃したが、今期も強い。王将リーグに復活し、竜王戦でも、ただいま現在、佐藤康光と挑戦者決定三番勝負を争っている。

 どちらが出てきても、羽生竜王に挑戦する七番勝負は、おもしろくなりそうだ。贅沢をいわせてもらえば「技」だけでなく、もっと人間くさい勝負をみせてほしい。木村名人の『将棋一代』に、こんな一節がある。

<技術だけで勝とうとすれば、容易でないにきまっているけれど、それだけが棋道のすべてではない。人と人との戦いである以上、全面的に反映するのは、人間そのものでなくてはなるまい。人としての全体が盛上る時、あらゆる力は、その中に包含される。技術上の争いは末で、原動力はもっと高く、あるいは広く深いところから発する。つまり人間そのものであるべきだ>

 昨年、森内はB2組に昇級を決めた将棋で勝った瞬間に涙をあふれさせた。私は、その場にいなかったが、話を伝え聞いて感動した。木村名人の言葉を借りれば、「人間そのもの」の戦いだった証明である。

 羽生五冠王をめぐって、そういう熱い血のたぎる勝負が展開されれば、かならずファンも沸く。将棋ブームの再来も夢ではない。

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「幼いころ、母堂とオセロゲームをして、負けるとテーブルの下にもぐって泣いたそうだ」

森内俊之九段の幼い頃、決してオセロに命を懸けていたわけでもないのに、お母さんに負けて泣いてしまうほどの負けず嫌い。

同じくらいの年頃の子に負けて泣いたとしても相当の負けず嫌いだが、母親に負けて泣くのだから、計り知れないくらいの負けず嫌いだ。

負けず嫌いは棋士の原動力と、あらためて強く感じさせられる。

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「あんなショックなことは、めったにないですね。アホらしくて、酒を飲む気もしませんでした。人の顔を見たくなかったので、すぐ帰って、ふとんにもぐりこみました。それでも、目が覚めてからも、夢じゃないかと思いましたよ」

本当に辛いことがあった時は、不思議と酒は飲みたくならないもの。

人の顔を見たくないというか、早く一人になりたいという気持ちだったに違いない。

森内九段は四段時代、悔しい負け方をして、横浜の自宅まで走って帰ったことがあるが、この時は走る気さえ起きなかったほどショックだったのだろう。

森内俊之四段(当時)「ひどかったす。死にました。もう投げます」

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日曜日の日の廊下での「休みの日なのに、どうもご苦労さまです」。

とても森内九段らしい、心温まるエピソードだ。

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2003年9月のこと。

この年の竜王戦挑戦者決定三番勝負が中原誠永世十段と森内九段で行われた。

たまたま私は、このとき3局とも控え室を見に行くことができた。

森内九段先勝のあとの第2局目、中原永世十段の巧みな指しまわしで1勝1敗となった。

打ち上げは感想戦終了後、連盟5階で23時過ぎから行われた。

中原永世十段もご機嫌で面白い会話が続く。

「大山先生とのタイトル戦のときは参っちゃったよねえ(昭和46年以前)。1日目の午後4時頃、封じ手にしようと言うんだよね。どうせ1日目なんだから、早くやめて麻雀にしましょうよって。記録係の子に時間は適当に計算して加えておいてって。そりゃ大山先生は1日目は美濃囲いに囲うだけだからいいんだけど、僕は居飛車だから1日目からもの凄く考えなきゃいけないんだよね」

森内九段は中原永世十段の隣の下座に座り、笑いながら話を聞いている。しばらくすると、森内九段がビール瓶を持って席をまわりはじめた。新聞社、連盟職員、関係者の人達に「今日はお疲れさまでした」とビールをついでまわっている。私にまでビールをついでくれた。

負けた日なのだから、そんな気を遣わなくていいのにと申し訳なく思ったものだった。

「休みの日なのに、どうもご苦労さまです」とも通じる、森内九段のほのぼのとするエピソード。

森内九段は、この期、羽生善治竜王(当時)から竜王位を奪取している。

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「ブームから生まれた若手棋士たちが、自分たちの手で、いまいちどブームを巻き起こしてもらいたいものだ」

「羽生五冠王をめぐって、そういう熱い血のたぎる勝負が展開されれば、かならずファンも沸く。将棋ブームの再来も夢ではない」

この高橋呉郎さんの思いが、その数年後から長年の間実現され続けてきて花開いているのは、とても感慨深い。

森内九段は、最近では自身のYouTubeチャンネル「森内俊之の森内チャンネル」を開設して、ファンに非常に喜ばれている。(チャンネル登録者数は25,000人を超えている)