1994年の藤井猛九段(後編)

将棋マガジン1994年6月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 藤井猛 振飛車党期待の新旗手」より。

二十歳・初段の関門

 中学に入ってからも、しばらくは、藤井の独学時代はつづく。学校の成績は、上のほうにいた。平凡に高校から大学に進学する道も考えないではなかったが、それ以上に、将棋のほうがおもしろすぎた。

 将棋にプロの世界があるとは知っていたが、夢のような話で、現実味がなかった。たまたま、将棋界の事情に通じている知り合いがいて、そんなに好きなら研修会に行ってみないかとすすめてくれた。研修会というのは、奨励会にはいるための塾みたいなものだという。

 少年の心は動いた。両親も反対しなかった。中学一年の三学期から、月に二回、日曜日に将棋会館に通うようになった。

(中略)

 研修会はBからFのクラスに分かれている。一日四局指して、成績によって昇級し、Aに上がると奨励会の仮入会死角を得る。

 それまで相手に恵まれなかった藤井は、めきめき腕を上げた。自分でも「この時期に、ずいぶん強くなった」といっている。いちど奨励会試験に落ちたが、中学三年のときに、Aクラスに昇格した。アマ五段くらいの力はついていた。昭和六十一年四月、高校入学と同時に6級で奨励会に入会した。

 前年の十二月に、羽生は四段に昇段して、加藤一二三、谷川浩司につづく三人目の”中学生棋士”になっていた。藤井のように中学を卒業して奨励会入りした”十五歳入門組”は、それだけスタートが遅れているということになる。その感想を藤井に聞いてみた。

「たしかに、十五歳では遅いんですが、とくに意識することはなかったですね。ただ、年齢制限がありますから、のんびりはしていられないんです」

 二十歳までに初段にならなければいけない、という規定があった(現在は二十一歳)。藤井は1級まではすんなり昇級できたが、ここで足踏みをしているうちに十八歳になった―。

「あせりましたよ。いま考えれば、初段なんて、なんでもないんですけれども。やっぱり、年齢制限というのはきついですね」

 高校卒業までに第一関門は通過できた。卒業と同時に、東京でアパート生活をはじめた。それまでは、月二回の奨励会の対局日には沼田市の自宅から通っていた。

 その日は、朝五時に起きて、上越新幹線・上毛高原駅発、六時四十五分の列車に乗る。自宅から駅まで、クルマで約三十分、父君に送ってもらった。東京の通勤圏にいる奨励会員にくらべれば、かなりのハンディだが・・・。

「べつにたいへんだとは思いませんでした。勝つか負けるかしか、考えていないですから」

一ヵ月間のプレッシャー

 東京の生活がはじまって、将棋を勉強する機会が一気にふえた。研究会に参加し、仲間の奨励会員とぶつかり稽古をする。藤井は「将棋漬けになって、順調に昇段できた」と東京生活の効用を認めている。

 研修会時代から、振飛車は指すのも見るのも好きだったという。きっかけは、大内延介九段の本を読んだことにある。当時は、もっぱらひとりで勉強するしかなかったから、大内の本を買い漁った。さらに森安秀光九段、大山康晴名人の本に手を広げていった。

 奨励会時代は居飛車アナグマの全盛期だった。振飛車党は奨励会でも一割程度だから、藤井は、いつも居飛車アナグマか左美濃を相手にする。かえって、研究しやすいので、ありがたいと思ったそうだ。

 すでに「四間飛車の藤井」で通っていたが、わき目もふらずにというわけでもなかった―

「調子がわるくて、勝てない時期があるでしょう。居飛車の勉強をして、相矢倉をやったこともありますよ。でも振飛車をやめようと思ったことはないですね」

 平成二年の四月から、三段リーグに参加した。これは、本当の意味でのサバイバルレースである。藤井はこういっている。

「二段までの対局とはちがうんですね。格が上だという意識が強かったですから、どのくらいやれるか不安でした。三期以内に上がらないと、水につかっちゃうんじゃないかという気がして・・・。気合いが新鮮なうちに上がりたかったんです」

 一期目が12勝6敗で、なんとかやれそうだと自信がついた。二期目は、競争相手が急に脱落してくれたので、二局をあまして四段昇段を決めた。終わってみれば、実力どおりの昇段だったが、藤井自身は、とてもそんな余裕はなかったという。

 そこでホッとしたわけではないのだが、順位戦にのぞむ心境は一転する―

「昇級するの何年かかるかわからないと思っていましたからね。三段リーグのときとは気分がちがいました。一年周期でしょう。闘志を燃やしつづけたら、もたないんですよ」

 二期目に、自力昇級の目が出たとたんに、力みすぎて負けた。順位戦は、あまり力むと、負けたときのショックが大きい、という教訓を学んだ。

 三期目の前期は、早くも二回戦でつまづいた。ことしもダメかと思ったが、なんとか立ち直って、一敗を守りつづけた。

 八回戦までは四番手。九回戦でわるい将棋を勝ったとき、なんと三番手に浮上していた。最終局に勝てば昇級―力むなといっても、むりな話で、その胸中をこう語っている。

「棋士になってから、こんな大きい勝負はなかったんです。順位戦にしても、ほかの棋戦にしても、燃える一番という感じではなかった。こんどは、ぜんぜんちがうんです。最終局まで、ちょうど一ヵ月あったんですけど、長かったですね。ずーっと凄いプレッシャーでした。なにをやっていても、ちらついてくるんです。勝ったときと、負けたときの差が大きすぎる。負ければ一年間がむだになる。負けて後悔する自分を想像すると、つらいものがあるんです。夢も見ましたよ、勝った夢、負けた夢・・・」

 当方の願いとしては、こういう大勝負をもっともっと経験するほど活躍してもらいたい。もちろん、振飛車で―念のために、振飛車をつづけるかと訊いたら、

「いまは振飛車党はすくないですし、ぼくが居飛車を指しても、つまらないでしょう」

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1993年度の順位戦C級2組、昇級は真田圭一四段(9勝1敗)、神崎健二五段(9勝1敗)、藤井猛四段(9勝1敗)。

藤井四段が二回戦で敗れたのは佐藤秀司四段、最終戦の相手は6勝3敗の森信雄六段だった。

「ぼくが居飛車を指してもつまらないでしょう」は名言だ。