郷田真隆棋王ファンの方が見たら、絶対に感動する文章だと思う。
将棋マガジン1993年2月号、写真家の中野英伴さんの「棋聖戦見聞雑記」より。
今期、棋聖戦が面白い。王位郷田真隆の再度の挑戦となって、迎え撃つは棋聖谷川浩司。この半年間の両者のからみはまさに劇的で、郷田は棋聖戦で敗退はしたものの、その戦いの中にわきまえたものはすこぶる多く、次の王位戦にそれを生かしに生かし切っての見事な奪取であった。そしていま、両者の対戦成績は五勝五敗。それもタイトル戦しか会っていない、檜舞台はスポットライトを浴びる、熱い熱い勝負の中でのこと。
対局前夜。三河湾の海は静かに夜のとばりをおろしていく。西に煌煌とさきがけの星ひとつ強く光り輝けば、東に満満と真円の月がゆるりと昇り出づる。両対局者の明日の想は、策は、意気は、その胸中を思い考えるとき、夜は深さを増して波音だけが、高ぶる胸の奥へと寄せてくる。
朝だ。日は対局室に向かって昇った。潮が寄せる。白鷺が飛ぶ。海鵜が一連東に向かう。八時五十分。しばらくは無音無量の静けさ。息をおさえてその時の間を、緊張の中に楽しめるのも、取材者冥利のありがたい幸福。谷川棋聖が歩歩ゆるやかに入室。明るい茶系の和服に茶の袴。落ち着いた雰囲気が対局室に流れる。続いて挑戦者郷田王位。紺一色に衣を整えて足どりも軽やか。紺は若さを象徴する色、そして薫り。
(中略)
手は淀みなく進む中、陽光が射し込んで駒に影が生まれ、指す手また影と動く。両棋士の指す手は美しい。指の形造る姿は変化し、鶴の舞にも似て、躍動は駒の動きに通じ、着盤の瞬間は力強く、駒の安定を計り願う。
(中略)
午後。海はおだやかにゆっくりと寄せて冬の波音のどかである。その中、郷田は明るい光につつまれて、長考のくり返しが続く。その間、谷川は攻めの準備を整えていく。
三時過ぎ、谷川の端攻めが開始された。その頃から急に外は雲行きがあやしくなり、四時過ぎには風が出て雨足は音を立てはじめた。街路燈にも早早と灯がともり、すでに海は暗い。その闇に向かう郷田の手筋に、引き返す手立ての光明はないものか。
五時二分。二十三分考えて上隅に角打ち、谷川が網を絞りに掛かった。
五時四十三分。郷田が投了を告げた。苦しい将棋を指してきて最後、意志表示をするまでの四分、郷田は何を思い考えていたのだろうか。
(中略)
局面と自然の天候が呼応する不思議を見た。郷田が悲しむとき、天は涙雨を送り、郷田が苦しむとき、風はこころに勇気をささやいた。
夜がふけて雲間に星が出た。
ひとつ。ふたつ。みっつ……。
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写真家ならではの視点に貫かれた、叙景的で非常に美しい文章。
すべてが目に浮かんでくるようだ。
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この対局は、1992年12月10日に行われた棋聖戦第1局。
午後のおやつに郷田王位(当時)がぜんざいを頼んだが、お椀の蓋が開けられることなく終局となった一局だった。
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