NHKで放送された棋士の忘年会

将棋世界1971年7月号、海野謙三さんの随筆「印象に残った将棋放送」より。

 去る4月末日で私はNHKを退学したが、実はすでに3年前に卒業していたのである。私はNHKに入学してドラマや演芸の勉強をしたこともあるが、20数年間、放送番組としては異色の囲碁将棋の時間を主として担当できたことは何にもかえがたい喜びであり、光栄であった。本番組が発足したのは昭和23年4月であるが、よちよち歩きの坊やが今日よくも逞しい青年に成長したものだとまるで我が息子を見る気持ちで肩の一つもたたきたい。

 それだけに思い出は泉のようにこんこんと湧きでてつきないが特に印象に残ったあれこれを綴ってみよう。

 初期のラジオ時代で楽しく愉快だったのは連盟の忘年会のど自慢風景を録音することであった。当時の連盟は中野の照国関道場跡にあって古風な木造建物だった。これが将棋の本山とはまるで感じられなかったが、何となくアトホームでギスギスしたところがなく親しみがもてた。しかも棋士が一丸となって再建の意欲に燃えている息吹きが裂しくいきづいていたのである。

 ところでラジオの将棋の時間の聴取者は勿論現在のテレビの視聴者とはそれこそ月とスッポンで比較にもならない微々たるものであった。逆説的に去えばそれだからこそ棋士のかくし芸を録音再生することができたのである。但、なじみ深い棋士がどんな美声、蛮声の持主であるか、どんな余技を聴かせてくれるかにファンが興味を抱いていたのは事実で巧拙は問題でなかった。

 忘年会は2階の広間で一杯きこしめして、皆さんほろ酔い気分になった頃からテープが廻るというわけ。伴奏も初めは中野界隈を流して歩く三味線のおばさんが独りであったがだんだん本格的になり、棋士がおでん屋で知り合ったお兄さんがギターやアコーデオンを抱えてやってくるようになった。

 かくし芸はそれぞれの人柄が現われて面白かったが、記憶に残っている傑作は塚田九段の「柿の実」である。―鳩ぽっぽをやろうと思ったがこれは難しい。それで家の3つの子供が作詞して私が作曲した「柿の実」をやります。藤村の椰子の実は有名ですが、これは柿の実ですからそのおつもりで……とその日の塚田さんは日頃の無口とは別人のごとく以上の前口上よろしく「柿の実がなっている。渋い柿だから切ってしまえ」と愛児の童謡を歌ったのである。

 次もラジオ時代の話であるが、インタビューの場合、大抵の人は質問に素直に返答するだろう。だが大山名人は質問がピントはずれか、かんにさわったりすると遠慮なく逆襲する。ある時、アナウンサーが「大阪の木見先生のところに弟子入りされた時はお一人で行ったのですか」と訊いた。すると大山さんは「そりゃ一人ですよ、家の者と一緒に入門するわけではないですからね」と皮肉に答えた。名人戦の対局の後であったか、詩人で囲碁将棋ファンの野上彰氏(故人)が「碁の方では一に体力、二に運、三に技術といいますが」と口をすべらすとすかさず「そりゃおかしい。それだったら相撲取りが一番だ。将棋ではやはり技術が最上位である。運で逃げる手はない」と反発しさすがの野上氏もたじたじとなったものだ。

 その頃、土曜日の昼に将棋談話室という枠を15分設け、知名人数十名に放送してもらった。これは雑誌の随筆欄のようなものであったから誰もが喜んで引き受けてくださったが、尾崎士郎さんだけは「僕は文壇将棋ではCクラスだから」と照れてなかなかOKされなかった。しかし先生は初段の免状をお持ちではないですかというと俄に愛好をくずして「うん、あの免状は気に入った。貴殿夙に趣味を有しとか、研鑽年ありとか、進境見るべきものありとか書いてあるが、伎倆のことには触れていない。そこが嬉しい。僕はこれでも将棋を覚えてから40幾年になるのだからあの免状の文句はまるで僕のために書いてくれたようなものだ。確かに将棋は強いだけが能ではないよ。ところで僕はこの初段の免状をもらってからは先ず相手に免状を見せ悠々と煙草をふかして指すことにした。すると今まで強敵と思われた相手がまるで嬰児の手をねじるがごとくもろいのだ。それで勝負の世界は身体でも指先でもなく、心の動き如何によると悟った次第だ」と訥々とした尾崎節を披露された。

 将棋のラジオ時代は約12年でピリオドを打ち、いよいよ待望のテレビ時代を迎えることになる。将棋のテレビ対局は私の多年の夢であり、悲願であったが、それが意外に早く実現したのはその第一歩として踏み出した「将棋の勘どころ」が好評さくさくだったからだ。

 この「勘どころ」は昭和35年7月に開講したが、成功の最大原因は升田さんが病気静養中にもかかわらず将棋のテレビ進出のためならと講師を快諾されたからである。

「勘どころ」は隔週土曜日午後11時から僅か10分(総合テレビ)であったが、ゲストを相手に九段独特の話術でぐいぐい引っ張って行った。ゲストも古今亭志ん生、大宅壮一、五味康祐、フランキー堺、宮田重雄等当代一流のタレントであった。

「勘どころ」の反響が多大であったので翌36年にお好みテレビ対局の第一弾として大山名人対南川アマ名人の角落戦を放送した。かくして37年には升田九段対五味康祐氏の二枚落、塚田九段対大野東京都名人の角落、土居名誉名人対市川中車丈の飛落、木村十四世名人対渋谷天外氏の二枚落等を続々企画実施した。これらお好み対局がいづれも予期以上の成果を挙げたので同年10月からNHK杯戦もテレビ対局に移行した。

 その後も祝祭日にはお好み対局を提案し実施してきたが、自画自讃すれば40年5月の土居、木村戦であろう。これは多年あたためていた企画で、往年の名勝負定山渓の一戦を再現しようというような野心が多少はあった。然し現実には無理で、棋譜よりは、むしろ昔なつかしい土居、木村未だ老いずの対局風景をオールドファンはもちろん一般の人にも見てもらいたかった。

 スタジオに現れた木村名人は対局のセットを見ながら「大山君に負けてから身体の調子が悪く、公式対局から遠ざかって10年になる。だから今日は久し振りの対局で何とも去えない感無量だ」とじみじみ語った。

 土居さんは「私も引退して20年、満78歳になって今さら対局の申し込みを受けるとは思わなかった。もう技倆も減退していると自覚しているが、そういう晴の場所で最後の花を飾りたいという気持が動いて出場したわけです」と率直にいった。

 土居さんは左足が悪いので足を盤側に出し、木村さんは右手をポケットに入れ、左手で煙草を喫っている。中盤、木村さんが少考して6五桂と跳ねたのがポカで、土居さんはおやといった顔つきで眼鏡をはずしハンカチで拭った。木村さんも直ぐポカと気づいたらしいが相手に気づかれないように知らぬが仏の顔つきである。しかしカメラは非情でこの時のゆがんだ唇をアップで映した。対局後、木村さんは「あれはひどい錯覚だった。やっぱり感がにぶったのかなあ」とがっかりしていた。

 勝った土居さんは子供のように無邪気にはしゃぎ大盤の前に立ちはだかって動かなかった。昔は木村さんが勝つと終わってから感想戦でも負かして二度相手を泣かせたというが、その日は土居さんにそれをやられたわけだ。

 この他、お好み対局で最もテレビの機能を発揮したのは38年11月の東京・大阪の二元放送である。これはAKのスタジオに塚田九段が眼かくしで坐り、BKには作家の藤沢恒夫氏と応援の秋田実氏が控え、両スタジオの棋譜読み上げ係の声をきいてお互いに指すわけだ。

 藤沢さんは眼かくしの塚田さんを混乱させる作戦をとったが、塚田さんは眼明きと少しも違わない正確な応手で、反って藤沢さんが自ら墓穴を掘る結果になった。手合割は塚田九段の角落であった。

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NHK杯将棋トーナメントは、創設が昭和26年で当初はラジオ放送、昭和37年10月からテレビ放送となっている。

テレビに移行すると、ラジオしか持っていなかった世帯はそれまで楽しむことができたNHK杯戦を聴けなくなるわけで、切り替え時期をどうするかについては相当悩んだことと思う。

とはいえ、ラジオを途中から聴いた人は現在の局面を知る手立てがあったのかどうか。どうしていたのだろう。どちらにしても、将棋や囲碁はラジオよりもテレビ向きであることは確かだ。

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それにしても、東中野にあった日本将棋連盟の2階で行われている忘年会の実況中継とは、もの凄い企画があったものだ。

歌うといっても、後の時代の駒音コンサートとは違って、気持よく酔っ払っている棋士の歌である。

このような番組は、今の時代にもぜひやってほしい。