将棋世界1994年1月号、河口俊彦六段(当時)の「追悼文 やせ我慢の美学」より。
「海坊主」ってなんだかご存知だろうか。
私は、なんとなく得体の知れぬもの、と思っていたが、今、調べてみると、青海亀の別称ということだった。
現役時代の荒巻さんには、海坊主のニックネームがついていた。ついでに、昭和二十年代から三十年代にかけてのニックネームを、思いつくままあげると、「ムチャ茂」(松田茂行)、「将棋学徒」(小堀清一)、「鉄(くろがね)の坂口」(坂口允彦)、「怪童丸」(加藤一二三)、「振飛車名人」(大野源一)、「東海の鬼」(花村元司)、「小太刀の名手」(丸田祐三)、「精密機械」(大山康晴)などなど。今のとってつけたようななんとか流とちがって、各棋士の個性を、ぴたりいい表していた。
逆にいえば、みんな個性的だったのである。なかで「海坊主」は傑作の一つだろう。荒巻さんの将棋は、まさにそんな感じだった。あまりいいイメージではないが、この世界で怪しげな形容は褒め言葉である。
荒巻さんはA級八段まで昇ったが、潔く引退したため、現役時代は短かった。私も奨励会に入ったばかりの頃、一局だけ記録を取った記憶があるだけである。
その一戦は荒巻さんが負けたが、敗勢になってもしつっこく粘り、投げた後の口惜しがりようもたいへんなものだった。弱かった私には判らなかったが、今思うと、ガッツも底力もある将棋だったのである。
(中略)
それと、女性の方にかけても、みんな盛んで、荒巻さんの武勇伝もいくつか聞いた。今の棋士にない、雄の要素を多く持っていたのである。晩年の好々爺ぶりからは想像できない。
現役中からか、引退してからか、よく知らないが、かなり昔から、荒巻さんは免状を書きはじめ、それは延々今年の三月ごろまでつづいた。今ある免状のほとんどは、荒巻さんの直筆になるもので、持っている人は、貴重な財産というべきだろう。かくれた大功労者なのである。
ざっと五十年くらい免状を書きつづけたのだから、たいていの人は、荒巻さんといえば、あの窓ぎわ(族ではない)に坐って、筆を動かしている姿が浮かぶだろう。雑談をしていても、筆を休めることがなかった。よほど、字を書くことが好きだったのだ。味のある字なのは当然である。
荒巻さんは生前ついに贈九段を断りつづけた。A級八段になり、十分すぎる資格がありながらだ。その器ではない、ということだろうが、その一点だけは意地を通した。 ファンの方にその話をすると、誰でも感心する。棋士ならば誰だって昇段したい。それをくれるというのに断ったあたりは、やせ我慢の美学である。武士は食わねど高楊枝、の気概がある。
(以下略)
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故・荒巻三之九段は、剱持松二八段、高田尚平六段の師匠にあたる。
『免状』といえば荒巻三之八段だった。
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やはり荒巻門下だった、仙台の「杜の都 加部道場」の加部康晴さんが、師匠の思い出について書かれている。
加部さんしか書くことができない思い出話だ。
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個性的なニックネームやキャッチフレーズということでは、昭和のプロレス界にも共通するところがある。代表的なものとしては、
生傷男(ディック・ザ・ブルーザー)
魔王(ザ・デストロイヤー)
人間発電所(ブルーノ・サンマルチノ)
狂犬(キラー・バディ・オースチン)
鉄の爪(フリッツ・フォン・エリック)
銀髪鬼(フレッド・ブラッシー)
黒い魔神(ボボ・ブラジル)
荒法師(ジン・キニスキー)
呪術師(アブローラ・ザ・ブッチャー)
鉄人(ルー・テーズ)
美獣(ハーレイー・レイス)
など。
ちなみに、あまり知られていないレスラーだが、海坊主と呼ばれていたのがスカル・マーフィー。
獣人と呼ばれたブルート・バーナードとタッグを組んでの冷酷で極悪非道な反則攻撃の怖さは、今でも忘れられない。